喫茶『鴨屋』
エスプレッソ・ビバーチェを手に入れるべく、雪橋と早蕨は喫茶『鴨屋』へと出かける。
カランカランと鐘が鳴る。よく喫茶店の扉についているヤツだ。たとえ入り口を日長一日見張っていなくても、客の出入りが知れるという優れもの。そんな装置が喫茶店『鴨屋』にも、喫茶店の例に漏れず取り付けてあった。
国道から脇に逸れた小道の中、小さな看板と、折り畳み式の黒板に『今日のおすすめメニュー』が書いてある以外、取り立てて店らしい様子があるわけではない。小さな駐車場が横にあるものの、車が停まっている所を見た事がない。流行っている様子でもないのだが、いくらかの常連客で一応は商売がなりたっているらしい。
綾辻翠による個人講習の代償として、喫茶『鴨屋』自慢のエスプレッソ珈琲『エスプレッソ・ビバーチェ』のテイクアウトを約束してしまった雪橋に、選択肢などなかった。通常ブレンド一杯350円のところ、一杯780円する高級珈琲である。しかし、シアトル直輸入の豆を使用したこの高級珈琲は確かに美味しい。ちょっと驚いてしまう。一度奢ってもらった事があって以来、もう一度飲みたいと思ってやまない。とはいえ、そこは学生の身。毎度『鴨屋』にやってきてはブレンドを飲んで時間を潰すのが精いっぱいである。
「綾辻め。ぼくがいまだに自腹で飲めないエスプレッソ・ビバーチェを上納させるとは。なんてやなヤツなんだ。」
「おいおい。個人講習を受けておいて何を抜かすかうらやましい。」
「うんまあ、あいつの説明ってすごい分かりやすいんだよな。」
「いや、そこじゃないようらやましいのは。」
「そう? まあいいじゃん。しかし毎度毎度こう奢らされるのでは財布がもたんよ。」
「そこはお前があいつにたよらんで済むようになればええんと違う?」
「まあ、そうとも言えるけど。」
「いや、そうとしか言えんだろう。で、その肝心の翠は?」
「さあ? なんか用事済ませてから来るから用意しとけって言ってたけど?」
「おう。どんくらいだよそら。」
「さあ? 具体的には聴いてない。同じ発言で待たされた最長記録は2時間45分だったけど。」
「さすがだね。」
「うん。さすが綾辻。」
「いや、それを待ってるお前がさ。」
「いや、その時はたまたま。別件で色々してたらそのくらいになってたんだよ。」
「やましい事のあるヤツは皆そう言う。」
「10分くらいでほっといて帰った事も5回くらいあるよ。」
「チャレンジャーだね。」
「翌日散々な目に合わされたけど。」
「当然の結果だろ。メールくらいしてやれよ。」
「あ〜。そう言えば綾辻の連絡先って知らないんだよね。」
「いや、なんでだよ。」
「今更訊く事もないかなっと。なんか気恥ずかしいし。」
「いや、そこは訊いとけよ。」
「ええ?」
「なんでそこで嫌そうな顔をする。」
「なんかまた奢らされる気がして嫌だ。」
「いや、しないだろう。…なあ、我が友 悠よ。」
「なんだ気持ち悪い。」
「うるさい。話の腰を折るな。…良いか? お前が気恥ずかしいと感じているという事はだぞ? 翠はより一層気恥ずかしいと感じているという事なのだぞ?」
「馬鹿言え。あの女がそんなカワイラシイ思考をするか。」
「あの女っていっちゃったよこの人。」
などといった会話を道すがら交えながら、男子高校生二人は喫茶『鴨屋』に入店したのだった。
少し重たい木の扉が、バタンと音を立てて閉まる。
間を置かずに、「いらっしゃ〜い。」と、店の奥から声がかかる。女性の良く通る涼やかな声。程なく、奥からまだ年若い女性が現れた。エプロンで濡れた手を拭っている。洗い物でもしていたのだろう。くり色に染めたセミロングの髪と、やわらかな雰囲気。
その女性が、「あら、残念。」と雪橋達をむかえるなり言うのであった。
「いやいやいやいやいや。お客の顔を見るなりそれはないでしょアヤメさん。」と、雪橋の背後から身を乗り出す早蕨。
「だってあなた達はブレンド一杯で何時間だって居座るんですもの。」
やれやれとばかりに大仰に肩を竦めて見せる。
「金欠気味の高校生が毎日高い珈琲頼めるわけないじゃないですか。」
「うふふ。冗談よ冗談。罪のない愛情表現よ。」
「お、ついにオレのアプローチになびいてくれましたかアヤメさん!」
テンションの上がる早蕨。若干このノリ鬱陶しいと顔をしかめる雪橋。
「それはもう、早蕨君を愛してやまないわよ私。だって常連客ですもの。」
「お客としてですか。」
「もちのろんよ。」
「古いですアヤメさん。」
無言で笑顔を貼り付けたまま、彼女は早蕨をお盆で小突く。
まあ、戯れ合いみたいな物だ。いつものごとく、いつものように。
「それで、何が残念だったんですか?」
二人の戯れ合いが一段落した所で雪橋は問掛ける。別にいつも出迎えの挨拶が「あら残念。」というわけではない。多分何かしらの意図があったのだろう。たとえば、今二人がここで無為な時間を堪能しようと考えている以外のもう一つの目的であるところの綾辻に上納するための高級コーヒー豆による珈琲の購入が本日は既に品切れになったため達成不能に陥った、とか。
まあ、そこまでエスパーじみた顧客対応はこの人らしからぬ事なので、おそらく違う内容であろうと、予測しつつ彼は問いかけた次第である。
「さっきまでイックン来てたの。」
彼女は奥のカウンターに目をやる。スツールの上には今だれも座っていない。カウンターの上に食器が残っている訳ではない。ただ少し、スツールのやわらかな生地に、人が居た痕跡を感じるだけだ。
「…お元気そうでしたか?」
俯き気味に早蕨は問うた。
「ええ。相変わらずよ。分厚いおっきい本を2時間くらい読んで帰っていったの。サンドと珈琲頼んで。今日のはなんだったかしら? 『王の舞の民族学』とかそんなタイトルだったかしら?」
「声掛けたんですか?」
「え?」
「だから、声、掛けたんですか?」
「聞こえてます。そりゃ注文とって、いつもありがとうって。」
「へ〜?」
「なんですか?」
「いえ。あ、そうなんだ〜って思っただけです。」
「何かな? ユキチャンちょっと感じ悪くないかな? お姉さん機嫌悪くなっちゃうよ?」
「いや、ほんとになんにも無いですよ。」
「いや、今の会話の流れはオカシイ。何かある。良からぬ噂を聞いているでしょう。吐きなさい。」
「常連客に自白を強要しないでください店員さん。」
「むかつく。その顔むかつく。その勝ち誇った顔むかつく。『ハハ〜ン』とか背後に大文字で書いてそうな憎らしい顔。ユキチャンかわいくない。」
「まあ、もう高校3年ですし? 男子ですし? カワイイカワイイと言われても大してうれしくはございませんので。特に傷つきもしませんね。あ、ブレンド二つお願いします店員のお姉さん。」
「は〜い! かしこまりました!」
プリプリしながら奥に引っ込む女性店員。自分が接客業をやっているという事をあの人どこまで覚えているのだろうかと心なしか不安を感じなくもない。まあ、少しやり過ぎたかも知れないと、思わなくもない。後で一言詫びておくかと心の内で呟く雪橋。
いつも座る奥の2人席。
そこに今日も腰掛ける。
しばらくして、ふとカウンターのスツールを眺めやる早蕨。
「そっか、元気してるんだ。」
そう小さく呟く彼に、雪橋は何も言わない。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
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