理数系クラスの三バカ
いつものメンツ、いつもの光景。かわらない日常の教室。
机に突っ伏して寝ていると、ズガンと、不意な衝撃に跳ね起きる。見開いた眼が捕えたのは颯爽と去っていく数学教師の背中。ごま塩頭の彼は朗々と、何事もなかったかのごとく講義を続ける今は授業中。要するに、雪橋悠は午睡に耽っていたわけである。
隣の席から押し殺した笑い声が聞こえる。
ああ、恥ずかしい。
しかし、授業中寝ていたのを起こすのに机を蹴られるというのは初めての経験だな、などとどうでもいい感想を抱く彼を尻目に、授業は淡々と進んでいく。
なんで理系コースを選んでしまったのだろうか、と数理系の授業中にただらならぬ睡魔に襲われ目覚めた後にいつも抱く後悔を、通過儀礼のごとく抱いた後に、黒板の複写を再開する。
最後にノートに書き込んだ内容の残滓がまだ残っている。それほど長い時間眠っていたわけではないらしい。途中から文字が奇妙な紋様と化しているが、それはひとまず置いておこう。文字の体裁を保っている辺りから、続きを書き込み始める。早くしないと黒板が次のフェーズを迎えてしまう。
とはいえ、数学の板書は数式が連なるばかりで、数学教師の読経をわからぬなりに聴いていないことには、解読が極めて困難である。
説明を受けていない数式の羅列を見て意味を解読できる人間はそもそも授業など受ける必要がなかろう。解読するスキルを持たないから授業を受けるのである。スキルなしに解読など困難を通り越して不可能だ。そしてスキルの習得がすでに困難なのである。思考ルーチンが既存の物からかけ離れすぎて、脳がキャパオーバーでシステムダウン。そして意識がダウン。以上が午睡にいたるまでの経過である。
ただでさえ分からない物がさらに分からない状況に陥るという負のスパイラル。
『負のスパイラル』というメモをノートに書き込んだ辺りでチャイムが鳴った。
「…無念。」
数学教師が教室を出ていって、自分のノートをしみじみ眺めながら、雪橋は呟いた。
隣の席の女生徒が笑いすぎてせき込み始めた。
「そんな面白かったか?」
「うん。バカっぽくて。」
文字通りバカにされた。
隣の席の女生徒、もとい綾辻翠は良く笑う少女である。『箸が転げても笑うお年ごろ』などと定型文で形容される。いささか笑いに対するハードルが低すぎて会話の端々で首を傾げてしまう。ところどころなにゆえに笑えたかを説明してもらったりするが、彼女の説明で雪橋が首肯したことはついぞなかった。理数系クラスでの友人1号。
きっと違う次元で生きているに違いない。
心の中でそう呟いて愛想笑いを浮かべて終わる事が多い。
「あ、今わたしのことバカだと思っているでしょう。」
「綾辻は頭良いよ。だからノート写させて。」
「アハハ、どう『だから』なの。」
「僕にさっきの授業を納得させてくれる人だから。」
「まるでわたしが個人講義するのが当然の様に…。」
「え、ダメ?」
「ダ〜メ〜。アハハ。」
「僕と君の仲じゃないか。」
「わたしとあなたの仲だと『授業が終わったらさようなら』だと思うけど?」
「む。」
不満そうな眼でジーっと見つめてみるが、彼女は愉しそうに笑いながら眼を泳がせる。
「…しかたない。フレンチクルーラーで手を打とう。」
「え〜? ドーナツ一個で? 雪橋くんはわたしの時間をずいぶん安く見られている様ですな。」
「…エンゼルクリームもつけよう。」
「いや〜、そんなに甘い物ばっかり食べ続けるのはちょっと。ねぇ?」
「…ブレンドで。」
「ぜんぜん関係ない話なんだけど、コーヒーって豆の種類で香りも味も随分違うよね。そう思わない?」
「…鴨屋のテイクアウト。」
「エスプレッソ・ビバーチェ」
「…はい。」
「うふふふ。」
恍惚とした表情で虚空を見つめる綾辻を、雪橋はため息交じりに眺めるのだった。
「なんだ、また翠に搾取されてるのか、ユキ?」
と、ひょろり長身の男子生徒がやってくる。早蕨秀弥。理数系クラスでの友人2号。
「搾取はひどいなぁ〜。労働に対する正当なる報酬に関して、真当な手段で交渉してただけだよ〜。」
早蕨はケラケラ笑いながら、雪橋の後ろの机に腰を預けた。手にした大学ノートでこつこつこめかみを叩く。表紙に太字油性ペンで『雪橋観察ノート』と書かれている事について、今更なので雪橋は特に突っ込まない。
「あ〜。今日の分みして〜。」
食いつきやがったこのクソアマと、心中毒づいたことは口には出さない紳士雪橋。
「ふふふ。今日もなかなか魅せてくれるぜ、ユッキーはよう…。」
「うるせぇよバカ野郎。」
毒づく雪橋。ケラケラ笑う早蕨。まったく話に加わらずに『雪橋観察ノート』で大笑いしている綾辻。
見慣れた光景が今日もそこにある。
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