恋話3歩手前
喫茶”鴨屋”での会話。
喫茶店で独りぼうっとコーヒー片手に寛いでいるところに、店員から「ねえ、恋愛ってなんだろうね」などとメルヘンな問題定義をされるのはなかなか衝撃的な事態である。
雪橋悠が犀原文目からこの質問を受けた時、彼の反応は、口を半ば開けて、生まれて初めてコモド大トカゲを目にした幼児のごとく目を見張るばかりであった。
喫茶”鴨屋”での事である。
補習帰りに喫茶店で寛いでいた彼と、店番を上がって相席した彼女。
少年はしばらく放心していたのち、渇いた喉を潤すべく湯気の立つコーヒーを口にする。
そして眉間にシワを寄せ、数十秒ロダン作"考える人"のパントマイムをこなした後に、ようやく彼は言葉を発する方法を思い出した。
「ああ、なるほど、中近代フランス文学の研究ですね。」
彼はとても得心の行った面持ちでそう言った。
「あ、うん、そんな感じ。」
質問を発した後に正気付き、いたたまれない表情でモジモジしていた犀原文目はそう応じた。
「しかし、具体例に通じていない僕としては、すでに言われていることを繰り返す事しかできませんよ。」
「まあ、いいんじゃないかな。」
やや歯切れの悪い調子で彼女は答える。
雪橋悠は落ち着いた様子でコーヒーを一口。
そしてしみじみと少年は言う。
「結婚生活によほど不満があったんでしょうね。」
「そう言っちゃうと、ものすごく下世話な話に聞こえるね。間違ってないんだろうけど。」
「シャンパーニュ伯爵夫人でしたっけ? 結婚した男女間には真の愛は存在し得ないって断言したの。」
「でもさユキちゃん。その逸話、”トリスタンとイズー”の抜身の剣の挿話を考えると結婚を嫌ったというより、性愛を嫌ったんじゃないかな? ほら、二人が添い寝するときに、間に抜き身の剣が在ることを見て王が彼らの間に性愛が無いことを悟った、とか。あれが当時の恋愛の理想型だったんでしょ、確か?」
「ふぅん。御伽話が結婚して”ハッピー・エバー・アフター”で終わるのと考え合わせると面白い議論になるかもしれませんね。」
「幸福の理想型が変化しているということなのかしらね?」
「誰が、誰に対してどの立場で幸福を語っているか、という点からも考えられるかもしれませんね。」
「なるほど。」
ツイっと、人差し指を立てて犀原文目は下唇を撫ぜる。
才知に富んだ、学者のように、怜悧な眼差しが虚空を彷徨う。
「お伽話は親から子へ語られる幸福の型。でも”恋愛”は結婚した当人が自分と同様の立場の相手に語る幸福の型。あら? 違うかしら? 貴族が語る幸福の型は騎士道物語で、村落で語られる幸福の型がお伽話なのかしら?」
「あまり変わらないんじゃないですか? 騎士道物語で不倫推奨って珍しい気がしますよ。」
「そうかしら? トリスタンとイズーの物語にせよ、アーサー王の物語にせよ、騎士道物語は不倫話がモチーフとして組み込まれているのは結構普通じゃないかしら? それが悲劇で終わる事や、周囲を巻き込んで破滅に突き進むことは不倫がマイナスファクターだったから、と言うよりも、悲劇性そのものに陶酔していた可能性があるわけで…」
「なるほど。ところでアヤメさん。」
「何かしら?」
「結婚したいんですか?」
「…はい?」
「猪野尾さんと。」
店内のステレオからはクラシックの音楽が淡々と流れている。
時間帯のせいだろう、店内に客の姿は彼以外にない。
カウンターの裏、店内から見えない厨房で、シンクに水が流れる音が遠く聞こえる。
少し照明から外れた、陰った二人席。
少年はまたカップを手にして、コーヒーを僅かに口に含む。
片手を添えた文庫本。
すこしザラリとした紙を指先で手繰り、捲る。
カチャリと、陶器が触れ合う音。
少年の、正面の席には女性が一人。
さっきから一言も発せずに、死んだように卓に突っ伏している。
「他に相談できる友達いなかったんですか、アヤメさん。」
しばらくぶりに少年が声を掛けると、目の前の後頭部が「うわぁあ」とか「ぎゃぁあ」とか短く小さく悲痛な声を上げた。
「よっぽど追い詰められてたんですね。まさか、ぼくにそんな話を振るとは。」
「…なぜ一回素知らぬ風を装った。」
「面白いかと思って。」
「ぐぅう…。一体なにをとち狂ってしまったんだわたし。なぜあんな話題を振ってしまったのか…。」
「まあ、後悔しても既に発言してしまった言葉は消せませんから。発言してしまった内容を踏まえた上で誘導する方向を検討するのがよろしいかと。」
「くっ、この程度で優位に立ったつもりとは笑わせてくれるわ。」
「お酒の勢いでつかみ合いの議論をした末に泥酔したのを介抱されてから好意を抱いたんでしたっけ?」
「話してないよね!? わたしそれ話してないよね!?」
「アイリッシュ・コーヒーって怖いですよね。喫茶店で普通に出てくるのになかなかのアルコール度数ですから。」
「あの日!? あの日飲んだあれが原因!?」
思い出されるのは半年近く前、今日と同じようにこの店で雪橋悠と二人お茶をしていた時の事である。
「しかし、居酒屋ならいざしらず、記憶なくすまで喫茶店でお酒のむって、どうなんですかそれは人として。」
パタンと、再度突っ伏す犀原文目。
しばらくその後頭部を眺めてから、雪橋悠は再び読書に戻った。
そして経ること10分。
「ええ、実はお慕いしていたわけですよ。あのバカあのバカと呼んでいたあのバカをお慕いしていたわけですよ、私は。」
「開き直りましたねアヤメさん。」
「リセットはきかないもの。仕方ないじゃない。」
唇を尖らせて彼女はそう言った。
その顔が半泣きになってきたのでそろそろからかうのも自重しておこうかと雪橋悠は心に誓った。
「それで、本当のところなんでぼくにこの話振ろうと思ったんですか? まさか本当に友達が…。」
「違います。ほら、君、イックンと仲いいじゃない。だからちょっと訊いてみたくて。」
「猪野尾さんの好みですか? まあ、ストライク・ゾーンには入ってると思いますよ。」
「う、いや、うん、まあ、そっか、ストライク・ゾーンか。うん。」
どうやら違う質問をするつもりだったようだが、意図せず手に入った情報にニヤついてしまうご様子。
「いや、そうじゃなくて、ね、そもそもあいつ、人を好きになったりするのかしら?」
「まあ、知る限りそういう気配はなかったと思いますけどね。」
「うん、女っ気ないのよね。むしろ貴方と仲良すぎな気が…。」
「男色には関心がないそうです。」
キッパリとした口調の雪橋悠。
「はやりの草食系男子というやつじゃないですか?」
「そうなのかな? 恋愛とか、恋人とか、面倒くさいとか言いそうなのよね、あいつ。」
「まあ、言うでしょうね。」
「終わった…。」
また、がっくりと肩を落として脱力する犀原文目。
「いや、いや。別に終わっちゃいないと思いますよ。」
「…ほんと?」
不安げな様子ですがるように見つめてくる。
「面倒くさい面倒くさいなどと言いながら、言い寄られたら無下にはできない、というか内心では嬉しくてたまらないとか、そういう感じなんじゃないですかね。」
「なにそれ。面倒くさいわね。」
「相手に好意を抱いている事がなんだか格好悪いと思うんじゃないですかね。」
「なにそれ。何様よ。」
片肘ついて、眉根を寄せて、不機嫌そうに言う。
「自分の有り様に美学がない人はそれはそれで問題だと思いますよ。」
「美学なんてないでしょう。いつもボッサボサの頭して、ダルそうな格好して。」
「よく観察されてますね。」
「してますよ。悪いですか?」
不貞腐れた様に、頬をふくらませてそっぽを向く。
実に表情がコロコロ変わる。
観察していると面白いな、などとのんきな感想を抱く雪橋悠。
「しかし、どうしたんですか、一体? 今頃そんな話題を振ってくるなんて。」
「”今頃”で悪かったですね。あなたもよくまあ半年も知らんぷりしてくれたわね。知ってるなら知ってると、そう言ってくれていれば三ヶ月は期間が短縮できたわよ。」
「それでも三ヶ月かかるアヤメさんは、知らないはずだったぼくになんでまたそんな大覚悟を持ってこの話題を振ったんですか?」
「まあ正直、大覚悟というより失言したに近いんだけど…。」
盛大に溜息をついて項垂れる。
そんな彼女の様子を眺めながら、雪橋悠はまたカップを口元に運ぶ。
気づけばカップは空になっていた。
空のカップを軽く降って、僅かなシズクを遊ばせて、カチャリと、また元の位置にカップを戻した。
「えっとね、昨日ね、ちょっと一緒にお酒してね、あ、イックンとね。」
えへ、えへ、えへっと気恥ずかしげに、嬉しげに、どうにも整理されていない言葉を彼女は語りだした。
「すいませ〜ん。おかわりくださ〜い。」
長く辛い道のりが待っているのを察して、彼はカウンターの方にそう言った。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
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