教室での会話
夏休み、補習に出かけた雪橋と、早蕨、綾辻の会話
「なあ雪橋、この後どっかいかね?」
夏休みの真っただ中、別に赤点を取ったという訳でもなく、より志望校の合格率を上げるためという理由で企画された物理の学力強化補習のある日、早蕨秀弥が雪橋悠に声をかけた。
「あ、いいわね。どこいくの?」
と、雪橋の隣の席の綾辻翠が彼に応じる。
「おう。まあ、ぶらり遊ぼうかとそういう次第さ。来る?」
「行く行く。どうしよう? ボーリングとか?」
「お、いいね。リベンジだ。今度は負けねぇぜ?」
「ふふふ。わたしを甘くみないでもらいたいわね、早蕨君。この間のがわたしの本気だなんて思わない事ね。」
「なに! まだ実力を隠しているというのか!」
「まだ108ある奥義の5つまでを見せたにすぎないのよ!」
なんでそこで煩悩の数を採用したのかと、若干疑問を覚えつつも、雪橋は特に二人のやり取りに口を挟まずに、パタリ、と読んでいた文庫本を閉じた。
「すまん、今日はやめとく。」
そうして文庫本をカバンにしまい、帰り支度を始める。
「ええ、なんでだよ?」
「どうせ大した用事なんて無いくせに。」
左右から聞こえてくる不平不満。
「最近つきあい悪いぞヒーくん。」
「そうだ、そうた。俺たちをないがしろにするのか?」
机に突っ込んであった教科書を着々とカバンの中にしまって行く雪橋悠。
「あ、今『面倒くせ』って顔したな。」
「あ、ひどいヒーくん。わたしたちの愛情をなんだと思っているの?」
「愛を返す事を強要される愛などぼくはいらない。」
「えー。自分だけ一方的に恩恵を享受しようというの?」
「なんてひどいやつなんだ雪橋! ギブ・アンド・テイクの精神を忘れたのか!」
「愛は惜しみなく奪うと昔誰かが言っていた気がしないでもない。」
「すっごいフンワリした記憶だな。」
「そして必ずしも今言う事では無かったわよヒーくん。」
「愛を主張されたところでぼくにはぼくの行動原理があるので愛の返却を要求されても返せるかどうかは保証できないと言いたかったんだよ。」
冗談とも本気ともつかない様子で、彼は答える。
目配せする早蕨と綾辻。
「どう思う?」
「今日は本当に無理なんじゃないか?」
「いや、わたしはあと2押しだと思う。」
「それはラインを越えているのではないか?」
「…ぎりぎりのところね。」
言葉一つ発せずに、2人は概ねそのような意思疎通を、目線の移動と首の僅かな挙動で行った。
「あ、ごめん、ちょっと用事あったの。少し外すね。」
と、綾辻。
「お疲れさん。」
と、雪橋が彼女の背に言う。
「違うから! まだ帰らないから! わたしが戻ってきた時に居なかった酷いからね! 絶対待っててよ!」
「お〜う。」
教室を出て行く彼女の声に、気だるげな声で彼は返す。
「じゃ、ぼく帰るから。」
「いや、待て。落ち着け。」
カバンを持って立ち上がろうとする雪橋を、早蕨は押しとどめる様に動く。
「ぼくは落ち着いている。」
「もう少し考えようぜ、自分の行動について。翠が泣くぞ?」
「泣かんだろう、アイツなら。」
「なに? お前あいつ嫌いなの?」
「いや、別にそんなことはないよ。」
「でも好きでもない、と。」
「そうも言ってないだろ。」
「じゃあ、どうでもいい、とか?」
「そんなことはないよ。」
「なら待とうぜ。な?」
ふう、と一息ついて、雪橋は浮かせた腰を席に戻す。
肩にかけようとしたカバンも、机の上に落ち着かせる。
「そんな説得されねばならん事だったろうか?」
「いや、普通に待とうぜ、友達ならさ。」
「いや、友人だからこうするのだよ。」
「え? 虐めて成り立つ関係なの? 軽微なSM的な? 淫靡だね。」
「君のその感想はいささかオカシイ。」
「オカシサをお前に指摘されたくはない。何にせよ、いきなり帰るのはなしにしようぜ。」
「そこまで言うなら仕方ない。まあ、30分くらいは待つとするよ。」
「ああ、そうしてくれ。」
そう言って、彼は雪橋の後ろの席に腰を下ろす。
「最近、翠となんかあった?」
「いや、特にこれといって変わった事はないけど。どうかしたの?」
「いや、なんかケンカしてるのかと思うじゃん。お前そんなだし。なんかごたごたしてたし。」
「してたっけ?」
「終業式の日とか。」
「ああ。」
そう言えばそんなことがあったかもしれないと、そんな調子で彼は頷く。
「あれは解決したのか?」
「解決したかと訊かれると、些か首肯しかねる部分が無きにしもあらず。」
「なんだそれ?」
「ぼくもよくわからない。」
「それで良いの、お前?」
「分からない物は分からないのだから、良いも悪いもないよ。どうにもならないんだから。」
「そんな簡単に諦めるなよ。」
「簡単に諦めた訳ではないよ。」
「そう見えないんだよ。」
「そう見せるように努めたくはない。」
「そう見せないように努めすぎなんだよ。」
「そう努めて悪い事はないだろ?」
「あるんだよ!」
バンっと、両の手で机を叩く。
驚きに眼を見開く雪橋をジッと見ながら早蕨はまた先の言葉を繰り返す。
「あるんだよ…。」
気恥ずかしげに、言葉がやや力ない。
「…何に弊害があるっていうんだよ?」
「あるんだよ、色々。」
きまり悪げに、早蕨は視線をそらす。
「色々じゃあ、わからん。」
「色々は色々だよ。」
はて、と首を捻る雪橋悠。
「全体的に影を落とすように影響してくる、とかそういう事か?」
「まあ、そんな感じだよ。…なんかさ、他人なんてどうでもいいって、お前らの事なんて知ったこっちゃ無いって、そういう様子あるんだよ、お前。」
「どうでもいい、なんて、そんな、思っちゃいないよ。」
「そう見えるんだよ。お前はいつだって、そうだ。アキナの時だって…。」
ガタリ、と机の脚が教室の床を擦れる音がする。
スッと一文字に口を結んだ雪橋。
観察するように、早蕨の表情をジッと眺める。
「…悪い。今のは俺が悪かった。」
「いや、そんな気にしてない。」
パタリと言葉が止んだ。
2人は眼を合わさず、別々な方向を向いたまま、沈黙を守る。
補習を受けに来ていた他の生徒はもう帰ってしまい、教室の中には2人だけが残っていた。
時刻はまだ午後3時半を回ったところで、教室の外の日照りはまだ勢いを失っていない。
窓から流れ込んでくる温い風と、遠い蝉時雨。
「なあ、今年も東京行くのか?」
「そうね。オープンキャンパスとかあるし。」
「…大丈夫なのか?」
「大丈夫でしょう。」
「そっか。」
アブラゼミの声が響く教室の外、青々とした空に浮かぶ重い雲。
夕立が降るかも知れない。
「なあ…」と、早蕨が沈黙を破ろうとした矢先、カラリと勢い良く、教室の扉が開いた。
「ごめん! 遅くなった!」
息せき切って綾辻翠が戻ってきた。
「ヒーくん、帰ってないよね!」
「待たせた。帰ろうとしてたけど。」
「なんだと〜。」
膨れっ面を見せながら、彼女は自分が座っていた席の所までやってくる。
「待っててって言ったじゃない。」
責めるように、彼女はそう言った。
彼女の席、雪橋の隣に腰を下ろし、キチッとした姿勢で、彼に向かう。
「結果的に待ってはいたんだから、勘弁してよ。」
悪びれる様子も無く、応じる雪橋。
「う〜、それはちょっと納得いかない。」
「どっちにしろ、今日はもう帰るよ。」
「なんでよ。」
「この本返しに行かないと。」
カバンを指さしながら彼は言う。
「図書室の?」
「いや、市の図書館。」
「じゃあ、一緒に行きましょう。」
「なんだ、解決じゃん。そしてその後遊びに行こうぜ。」
そして2人、雪橋の反応を窺う。
「わかったよ。そうしよう。」
「オッシ! じゃあちょっと待ってろ! お花摘んでくる!」
「葬儀花でも積んでろ。」
慌ただしく駆け出していく早蕨は、雪橋の言葉に応じない。
教室の扉を開けっ放しに、廊下を駆けて行く音がする。
ふっと、一息吐く雪橋。
隣の綾辻は、早蕨が出ていった扉を眺めている。
「用事は無事すんだの?」
「え? 用事? うん。ちょっと提出しないといけないプリントがあったの忘れてて。」
「ふ〜ん?」
志望校関連のプリントだろうかと、首を捻る。
彼女が提出するプリントだと、自分も提出する様に要求されているかも知れない。
しかし、そんな物があった記憶があまりない。
失念しているだけか。
あるいは彼女だけ提出する理由があったのだろうか。
そんなとりとめのない事を考える雪橋。
綾辻は、また早蕨が出ていった扉を眺めている。
「やっぱり先帰るかな。」
「なんでよ。」
「問題かな?」
「問題よ。」
ぷうっと、頬を膨らませて見せる彼女に、彼は困った様な笑みを向ける。
「あのね、わたしと彼を、二人だけにしようとしないで。」
視線を逸らして彼女は俯く。
「君にそんな風に気を使われたら、どうしたら良いか、分からなくなっちゃうから。」
「2人の方が良いんじゃないの?」
「それは、確かに2人だったいいのにって、思う時が無い訳じゃないけど、でもね、違うの。そうじゃないの。」
「いらん気遣いだったか。」
「うん。」と、有無を言わせない断定の返事。
「嬉しくない訳じゃないの。でもね、ダメなの。」
「そっか。」
「ごめんね?」
「じゃあ、ぼくはどうしてけば良い?」
「普通にしててくれたら良いよ。普通に、友達でいてくれたら良いから。何にも知らないみたいに。わたしたち3人の間にそれ以外は無いって体裁で。」
考え事をするように、彼女は顔を上げ、天井に視線をさ迷わせる。
「それで十分、嬉しいから。」
「それで良いなら、ぼくはそうするよ。」
「うん。そうしてくれると、嬉しいな。わたしそんなに考えの整理が上手い方じゃないから。」
「混乱しちゃうか。」
「うん。どうしたら良いかわからなくなるの。自分がどうしたいのかが分からなくなるの。みんな大事なのに、全部ダメにしちゃいそうで、嫌なの。」
「大丈夫だよ。」
「君のその、根拠の無い気楽な言葉も、たまに頼もしいね。」
「別に根拠がないわけじゃないよ。」
「そう? どんな根拠が有るっていうの?」
「ぼくは君を嫌いになる事なんてないから。」
さらさらと、教室の窓のブラインドが鳴る。
蝉時雨は止む様子がない。
「早蕨も、まあ、そんな感じだと思うし。…どうした?」
「ごめん、ちょっと待って。」
彼女は顔を逸らして、表情が窺われない。
「なに? 吹き出した?」
「そうじゃない。」
ふむと、首を捻る雪橋。
「…今更君が鼻水垂らして顔グッチャグチャにしてても幻滅しないよ?」
「考えた末の結論がどうしてそうなるのよ。」
「いや、顔背ける理由でそうかなと。」
「他にもあるでしょう。」
「他にも?」
「あ、ごめん。大丈夫。考えなくて大丈夫。」
怪訝な面持ちで首を捻る雪橋に、彼女は顔を向ける。
「びっくりした。」
「なにが?」
「いや、君があんなこと言うから。」
「そう? でもここまで友人やったら、君を嫌ったり、友人解消したりする様子がイメージできないんだよ。そりゃあ、世の中色々あるから絶対とは言えないけど、よっぽどの事が無い限りはさ、君を嫌ったりはしないよ。」
「うん。ちょっと安心。」
「だからそんな、友達でいてくれるだけで嬉しいとか、自分を卑下したような事言うなよ。」
「ん〜。別に卑下してるつもりは無いのだけれど。」
「友達だって言うならさ、『あって当たりまえ』くらいの関係が落とし所だろう。」
「でも、君たちは、得難い友人だとわたしは思っているのよ。」
「それは、まあ、ありがとう。」
「うふふふ。」
柔らかく笑う彼女の面持ちを、彼は首をかしげる。
どうして彼女は笑うのだろうか?
やはり、よくわからないなと、雪橋悠は思うのだった。
「ねえ、ヒーくん。」
「ん?」
「前、言ってたアキナって…」
「またせたな!」
勢い良く、早蕨秀弥が戻ってきた。
奇妙な、ヒーローショー的なポージングとともに。
「遅いよ〜。」
「じゃあ、行きますか。」
ガランとした教室。
蝉時雨はまだ止む気配がない。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
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また、前後の展開と矛盾する設定・表記等お気づきになられましたらご指摘いただけますと助かります。




