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酒を交えた小難しい会話

久しぶりに書庫で、猪野尾と雪橋が交えた会話。

「そうか。いろいろあったな。」

「そうですね。まあ、色々ありましたよ。」

 お猪口に注いだ琥珀色の液体。

 その水面の揺らめきを確かめるように眺める。

 ここは(くだん)のアパートの一室。

 猪野尾忠彦と雪橋悠。

「まあ、結局よく分からないのですがね、アイツの行動原理。」

「そうか? 極めてシンプルだと思うぞ。」

 けけけっと、するめを噛み切りながら、猪野尾が言う。

「シンプルですか?」

「そうシンプル。」

「ぼくにはそうは見えませんけど。行動に一貫性があるように思えません。」

「酷い言われようだ。まあ、シンプルな結論が累積して複雑に見えてくるのだろうよ。」

「それは結局シンプルではないという事になりませんか?」

「問題の切り取りかただよ。総体としての複雑さを相手にしていたらきりがない。物事を単純に単純に捉えてその実像に迫っていく。それが物事を理解する方法だろ。」

「へぇ、科学的解析法ってやつですか?」

「さて、その思考をこの一言で言い表して良い物かな。錬金術とか、自然哲学とか、そういった思考方法から、どういう流れで現在の科学的思考が生まれてきたのか。そのあたりの研究は俺もあまり深入りしていないからな。」

「問題を複雑にしている気がしますね。」

「単純に見れば、どこかでパラダイムシフトが起こったと、その一言で終わってしまうよ。暗記科目の範疇を出ない『歴史』的な叙述だね。俺はそれが極めて味気なくて退屈な代物に思えるわけさ。」

「ぼくらはその暗記科目に四苦八苦しているわけですが。」

「暗記は暗記で大切だぞ。この間も『歴史的決断』という本を読んでいたのだがな、個々の戦場が一体どういう物だったのか、頭に入っていない事には到底理解できないと理解して、ひとまず読解する事を諦めてしまったよ。」

「資料をひも解きながら読解はしないわけですか?」

「現状、その書籍単体で読み解ける物以外には手が出ないな。資料と片手に書籍を読み解くというのは、研究課題一つ以上は少し難しい。『いつかは研究してみたい課題』候補にして、本棚に埋めてしまう事になるな。」

「そうしてまた読まれない本が増える訳ですか。」

「いつかは読むさ。俺自身が持っているテーマから完全に外れた所にはないからな。何せ俺自身が本屋から買ってきてるんだ。ただまあ、読解するために必要な知識が足りない事は否めんよな。」

「そう言えば、『複雑系』という概念がありましたね。」

「単語をちょっと聞いた事があるだけだな。面白そうでは有る。心理学と脳科学と化学結合を連続した知識にするには必要な要素だろうな。いつかは研究したい。」

「猪野尾さん、聞いている限りあなたの研究はまったく収拾がつかない代物に思えます。」

「収拾がつかない代物に収拾をつけようとするから研究足りえるのだろう。何を言っている。」

「なんだか一種の苦行に思えますね。」

「どこまでその苦労を楽しめるか、だろうね。結局、何をするのも苦行の様な物なんだよ、人間の生き方という物は。」

「生きる事は苦しむ事ですか。」

「短絡するな。『苦行の様な物』が苦しみか楽しみかは本人次第だ。外から見てそれが苦しみに見えた所で、だから『人間は苦しんで生きるしかない』と言うのはおかしいだろう。」

「でも結局みんな苦しんでいるように思えますよ?」

「死ぬほど苦しんででもやり通せるってことは、その根幹には快楽の原理が有ると思うな、俺は。」

「快楽ですか。猪野尾さん、心理学はフロイト派ですか?」

「ユングも嫌いじゃないよ。フロイトを否定する気もない。フロイト派気取りの評論家は大嫌いだがね。人間の心理に欲望やら欲求やらが大きな影響を持つのは当然じゃないか? 人間がはなからそんな高尚な物だと思いたがるから変なことになるんだ。人間は愚かだ。愚かゆえに愛おしい。」

「だいぶ酔いが回ってますね。」

「んん? 論理が飛躍したかな? あるいは脈絡がなかったか?」

「いえ、珍しい方向に饒舌だったので。」

 そうかと呟くと、また一口、液体を舐める。

「そう言えば、旅行はどうでした?」

「旅行? ああ、面白かったよ。まあ、聞きたまえよ。」

 ニカッと、笑って、猪野尾が語り出す。

 やたら天気が良くってひたすら国道を走った事。

 林道ののたくった道を走るのが楽しくって山中を西へ東へ走った事。

 夜の山道の闇の深さ。

 視界の無い中、左カーブを曲がり切って即座に現れる右カーブ。

 雨が降った訳でもないのに湿り気を帯びた路面。

 ヘッドライトの光に照されて、通り過ぎていく反射板。

 霧が出る中走るトンネルの様子。

 そしてガス欠の末ダムの横で野宿した話。

「楽しそうですね。」

「おう、楽しいぞ。俺は一体何回イニシエーションを経験すれば良いんだろうか、って気分だが、何とも言えない昂揚感があってな。かつて山が異界であったという事をいかばかりか、肌で体感できた気分だ。」

「異界ですか?」

「そう異界だ。神の住まう地。あるいは死者の住まう地。わくわくするだろう。」

 ケタケタと、彼は笑う。

「そういう土地が、『こちら側』の直ぐ横に合って、そのくせ決定的に隔たっている。実に面白い世界観じゃあないか。」

「現代は、皆一様に地図の上の土地ですよね。」

「そう。地図による俯瞰視点の形成は確実に人間の世界像に転換をもたらしたのだよ。死者がいたのは地図上の墓地に指定された区画でもなく、この世から絶対に到達できない天国地獄でもなく、直ぐ隣のまったく規模も様子も分からない異界の中だったのだよ。」

 大仰に両手を開いて、天井を仰ぎ見る。

 そうしてしばらく、長い息を吐く。

「思うにだ、人間は死を理解できない生き物なのではなかろうか。」

「唐突ですね。どうしてそう思われるのですか?」

「色々な要素を見ると、そう思うとまあ、その程度の話なのだがな。たとえば幽霊の話が生まれては消える事だとか、心霊番組の人気が衰えず、スピリチアルうんちゃらとかそう言った新しいネーミングでリバイバルされたり、葬儀の場にいたってなお相手の死の実感が湧かなかったり、ふとした瞬間彼がまた現れるんじゃないかと乙女が思ってしまったりする、そういうもろもろを考え合わせるとだね、俺達は死を理解できないのではないかと、そう思うのだ。」

「その結論がよくわかりませんね。」

「どうして俺達は、死後の世界なんていう物語を必要とするのだろうか? どうしてお盆という行事で、死者の来訪を迎えるのだろうか? どうして墓参りなんていう儀式を行う必要があるのだろうか? どうして俺達は死者の面影をいつまでも追い続けるのだろうか?」

「よくわかりません。」

「俺達は、幾度となく『確認』しているのではないか、その人が確かに死んだのだと。まあ、見も知らぬ祖先の供養はこの仮説から外れてくるのだがな。まあ、『我々』と『我々以外』あるいは『世界そのもの』との関わりあいだとか、なんとも膨大な要素が絡むから、論述するのは難しい。これは愚にもつかない思いつきだ。だが、繰り返し繰り返し『確認』しなければ、俺達は忘れてしまうのではないだろうか。その人自身もそうだが、その人の死という現実を。」

「わかりません。」

「逆に、死という別離は果たして特別な別離なのだろうか? 死という別離以外でも、生涯の別れなど、吐いて捨てるほどにあるだろう。だがそれをおいてなお、死は特別な別離なのか? いつかまた会えるかも知れないというその僅かな可能性の違いなのか? それは確かに決定的な違いだろう。だからうん十年も音信不通の相手の死を知って、衝撃を受けたりもするのだろう。だがやはり、そこにある決定的な違いは、ふとした瞬間忘れてしまえるほどに僅かな違いに思えるのだよ。」

「わかりません。」

 グイッと、猪野尾は麦酒を呷る。

 タンっと、軽快な音をさせてその器をテーブルに置く。

「なあ、雪橋よ。一つ質問しよう。お前が『分からない』のは分かった。お前が今現在『分からない』事を踏まえて、お前は意思は、『分かりたい』のか『分かりたくない』のか?」

 スッと、鋭利な視線を、雪橋に向ける。

 その視線に答えて、雪橋は返す。

「わかりません。」

ここまでお読み下さりありがとうございます。

研究のため、意図や意味の読み取りにくい箇所がありましたらお知らせ頂けますと助かります。

また、前後の展開と矛盾する設定・表記等お気づきになられましたらご指摘いただけますと助かります。

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