書庫の主
そのアパートの一室は、本に埋もれている。だからそこは書庫とあだ名された。そしてそこの家主は、書庫の主と呼ばれた。
「チワッス」
トントンと、軽くノックして雪橋悠は扉を開けた。
鍵は掛かっていない。いつもの事だ。インターホンなる機器も設置されてはいるが、押した例など無い。
勝手知ったる他人の家。いつも開きっぱなしの玄関から勝手に入る。
そこはごく普通の、住宅街の真ん中にあるアパートの一室。105号室。
複数の靴の散乱した玄関に、自分の靴も適当にほっぽって、彼は部屋に上がる。ワンルームにしては広めのキッチンが、適当に積まれたコンビニ弁当のプラスチック容器で埋まっている。まあ、それもいつものことだ。
「猪野尾さん? 居ますよね?」
キッチンと、その向うの部屋を仕切る扉を開けて、そう声をかける。ブ〜ンと、低く、ファンの音が響く室内。十畳あると聴いているそこは、所狭しと積まれた書籍の山でひどく狭くるしく感ぜられる。
「猪野尾さん?」
返事がない。この部屋の主はどこへ行ったのか。
玄関に靴が散乱していたが、別に室内が人気のないのはホラーというわけではない。単にこの部屋の主が、いろいろはきわけている靴をしまわずに一緒くたに玄関に放っているだけだ。ゲタに革靴にトレッキングにライディング・ブーツ。そのうちゲタが無くなっている場合、鍵もかけずに近所のコンビニに出かけている可能性があるのだが、さっき玄関でゲタが転がっているのを見かけた。他の用事で外に出かける時はさすがに鍵をかけているから、必然、部屋の主たる猪野尾忠彦は室内にいるはずだ。
「ああ、ヒサか」と声がする。ひどく擦れて、低く、力がない。
「寝てました?」
「少しばかりね。いかんね。最近徹夜という物ができん。」
のそりと、部屋の真ん中を横断する本棚の向うで、男が体を起こした。利休茶の甚兵衛姿の短髪眼鏡。
「本返しに来ました。」
「ああ、適当に置いといてくれ。お前の右手辺りの山の上で良いよ。」大きくあくびをして、頭に付けていたヘッドホンを外す。
「変な姿勢で寝た。首が痛い。おまけに右腕が動かん。」
「いつも思うんですけど、たまにはベッドで寝たらどうなんですか? あるんだから。」
「使ってるよ。そっちで寝たほうがまだ寝れるからね。」
「まあ、そらそうでしょうね。」と、雪橋は本棚を物色しながら応える。
「今度はなにを探してるんだ?」
「ヒモ宇宙論と猫型ロボットのポケットを関連付けて話している本は無い物かと。」
「それは君の左手の辺りの棚の上から2段目の奥の辺りにあるよ。なんだ、空想科学論ブームでも来たのかお前の中で?」
「いや、冗談で言ってみただけです。本当にあるとは思ってませんでした。」
「そういう冗談にするにはあんまり意外性のない組み合わせだな。」
「なにとなにならありそうにないですかね?」
「猫型ロボットと猫又民俗学の関連性の研究は面白かったな。なかなか秀逸な組み合わせをチョイスする作者だなと感心しながら読んだよ。君の右手の棚の辺りにある。」
「SFを民俗学と結びつけますか。」
「あれをSFと呼んで良い物かは微妙だが。まあ、『少し不思議』のたぐいではあるのかな。民俗学はそれなりになんとでも結びつくよ。要するに人間の精神の活動なんだから。切り口と筋道立てがしっかりしていれば論理立つさ、そりゃ。」
「それ言い出すとなんでもありじゃないですか。」
「うん。なんでもありだよ。なんでもありの中の一本の線をより確からしく語るかが肝要なのだろうとオレは思う。そういう物は感心させられるし、なかなかに視野を広げてくれる。」
「そういう物ですか。」言いながらスルリと、一冊、文庫本を抜き出して、彼はシングルベッドにゴロンと仰向けになって読み出した。雪橋が読書を始めた雰囲気を感じてか、猪野尾も、ヘッドホンをかけ直し、机に放って合ったハードカバーの書籍の項を繰り始める。
ブ〜ンというファンの音と、たまに気合いを入れるエアコンの音と、たまにめくられる紙の音。
雪橋悠と猪野尾忠彦の関係はおおむね上記の通りである。雪橋が猪野尾の部屋に適当に上がり込んで、たまに二言三言交えて、あとはめいめい勝手に何か読んでいる。
雪橋悠はこの辺りに生家のある高校生で、猪野尾忠彦はどこやらの実家から出てきて、この街で一人暮らしをしている大学生だった。貧困に喘いだ猪野尾忠彦が一年だけ続けてみた家庭教師のアルバイトで、雪橋悠の友人を教えていたところ、その友人共々雪橋も彼のアパートに入りびたるようになり、猪野尾が家庭教師をやめ、彼の生徒だった友人の方が疎遠にになった後もなぜだか雪橋は入り浸り続けて今に至ると言うのが、おおむね偽りのない二人の関係の経緯である。
雪橋はこの部屋が気に入っていた。家主の持つ空気の影響もあるし、家主の趣味で買い集めてそこらかしこに散乱する書籍のわけのわからないラインナップの広さも、この部屋の奇妙な魅力の一つだった。『男の一品、今日のおつまみ』なる料理本の横に『中世ヨーロッパに置ける魔道書の研究』なる本が並び、『ホーキング宇宙を語る』と『エレガントな宇宙、ヒモ宇宙論の世界』の横に『グーテンベルクの銀河系』が並ぶ。心理学、生物学、民俗学、物理学、機械工学、建築学の研究所やら参考書から、なにやらよくわからないとんでも本まで、所狭しと本が並ぶ。
雪橋はあまり学術書を読むたちではなかったので、大体はその間に挟まって置いてある小説を引っ張り出すのだが、「それを面白いと思うならこれも良いだろう」と猪野尾の進める珍妙な本も面白かった。タイトルが面白げだったので引っ張り出した本がやたら小難しかったりもする。
そうやって、この場所に、勝手に居座る事を特に構わないでいる家主の人柄も、彼には心地よかった。
「ああ、そうだ。」と、半時ばかり過ぎたあたりで雪橋が声を上げた。「ん?」と猪野尾が促すのに彼は応えて、「祠堂も来てたんですよ。」
「あん? お前、それほっぽって一時間ごろ寝しながら涼んでたのか?」
「ああ、いや、そこで別れました。」
「そこ?」
「玄関前。」
「は?」
「しばらく本読んで涼んでいくっていくっつたら『帰る』つって帰りました。」
「お前それ、謝ったほうがええんと違う?」
「え? いやほっといて良くないですか?」
「いや、良くなかろうよ。それお前、一緒にどっかお出かけ気分でついてきたんと違うの?」
「違いますよ。猪野尾さんとこ行くって言ってるのについてきたんだから。」
「へえ。で帰ったか。玄関前で。」
「ええ、玄関前で。」
はん、と意味を判じかねる応対をして、猪野尾はまた読書に戻って行った。
『なぜわざわざそんなことをオレに報告する?』という事を彼は訊かない。
興味がないのだろうか? やたら意味あり気な祠堂の態度について、猪野尾は何も思うところが無いのだろうか?
「ああ、そうだ。」
「こんどはなんだ。」
「お土産です。」と雪橋は紙袋を手渡す。「祠堂家から。」
「へえ。」と言いながら受け取ると、中の和菓子を一つとり出して「ではご相伴に与ろう。」と言う。
『ぼくが祠堂家からお土産をいただいたので猪野尾さんもお一つどうですか?』という意味に解釈したらしい。あるいは、『解釈したことにした』と言ったほう良いかもしれない。『祠堂家から猪野尾さんへのお土産です。』と言う意味であったことなど、あえて解釈するまでもなく、彼は分かっているはずなのに。
ずるいな、と思う。
だから一つ意地悪でもしようかと思った。
「ねえ、猪野尾さん。祠堂はなんで玄関前まで来て帰ったんですかね?」
「汚い部屋に上がるのが嫌だったんだろ?」
「じゃなんでついてきたんですかね?」
「そりゃ、お前がいたからだろ。」
あ、墓穴った、と思った。
「それは別に理由にはならんでしょう。」
「へえ? そう思うか? 本当に? わざわざ入らない部屋の手前までご一緒しておいて?」
ぐうの音も出ない。
「大体、お前らの関係はオレにはいまいち理解ができん。なんだ? 恋人未満友達以上? 貴重な高校時代の浪費だとは思わんか、それ?」
「祠堂とは友達ですよ。それ以上でも以下でもなく。」
「へえ? 本当に?」
「本当ですよ。」
「一度たりともエロいこと考えたことないと、そう言うのだな?」
「なんでそこに飛ぶんですか。」
「否定も肯定もせず、か。とりあえず友情と恋慕の違いってその辺りじゃないかとオレは思うわけよ。エロい関係かエロくない関係か。」
「女同士でエロい関係は恋慕の類いですか。」
「男同士でもそうだろうよ。オレはごめん被るが。」
「差別主義者と批判されますよ?」
「区別だよ。単なる好みの問題だ。」
そう言って、猪野尾はまた手元の本に集中しだした。
もう先の話題に興味がなくなったのだろう。内心ホッとしながら、雪橋も読書を再開する。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
研究のため、意図や意味の読み取りにくい箇所がありましたらお知らせ頂けますと助かります。
また、前後の展開と矛盾する設定・表記等お気づきになられましたらご指摘いただけますと助かります。




