図書室の午後
図書室のソファー。背中越しの会話。
仄かに揺れる布の音。サ〜っと、風の音が聞こえた気がした。
うっすら開いた視界の中で、白く揺れるレースのカーテン。
「なんだ、起きたのか?」
新島の声だけが聞こえてくる。姿は見えない。
「どのくらい寝てた?」
「ほんの数分程度だよ。」
「そうか。」
ぼくは身を起こす。寝ていたのは図書室に備え付けのソファーの上。四方すべてから座れるタイプだ。
ぼくがいた側の反対に、新島が姿勢正しく座っていた。
「おはよう。」
「おはよう。」
あたりを見る。図書室に人気は無い。開いた窓の向うから運動部の掛け声が聞こえる。
「お前だけか。」
「ああ。私だけだ。…どうした? 懐かしい夢でも見ていたか?」
背後から彼女の声。
「さあ、そうなのかな。覚えてないけれど。」
そういう意味じゃない、というのは少し野暮ったい気がした。懐かしい光景が脳裏をよぎる。ここはもう集い場ではない。
「ははは。君が過去を懐かしむとはね。」
「過去の積み重ねで成り立つ事はぼくとて変わらない。」
「理屈っぽく言うね。単に『思い出が大事です』と言えばいい物を。」
「感傷は好きじゃない。それに、あの頃の事を感傷的に思い馳せたいわけじゃない。」
「まるで観測者の様に? それとも解析者の様に?」
「ぼくは、ただぼくとしてある。」
「無駄に感情的な似非教育者の様だね。」
シニカルに笑う新島。彼女はキライなのだろう。こういう、実際を伴わない言葉と言うのは。
ぼくは、ただぼくとしてある。
そんなことは当たり前だ。
その言葉は、ぼくがぼくであることしか意味しない。
ぼくがぼくとして、いかにあるのか?
ぼくがぼくとして、いかに存在の証を立てるのか?
そのいずれも、この言葉は意味しない。
この言葉は、ただ大枠に、真実らしい言葉を吐いて、真実の全てを語りきった気になろうとするだけの言葉だ。空疎で、頼りない。いい加減で、その場凌ぎ。
まるでぼく自身を象徴するかのようだ。
「私はね、君が自分がどういう役割を演じたいのかと、訊きたいのだよ。」
「演じるなんて、まるでぼくが嘘吐きか詐欺師みたいじゃないか。」
「それが間違いだとは思わないけれど、人間の役割は演じる物だと思うのだよ、私は。」
「演技ですか。」
「いいや。」
「演技でないのですか?」
「ああ。演じているのだとも知らずに演じている物だからね。それは『技』と呼ぶには、あまりに粗野な作りをしている。」
「でも演じている事は変わらないのだね。」
「ああ。全てはロールプレイ。」
「じゃあ詐欺師ってなんなんだ?」
「結婚詐欺師なら、結婚を前提にお付き合いする真摯な恋人を演じている人を演じている詐欺師を演じている人、という事になるね。」
「回りくどいね。」
「回りくどさを廃したら『結婚詐欺師』と言う事になる。」
「その表現は語弊が生じないのかい?」
「いいや? 結婚詐欺師は結婚詐欺師でしかないよ。その内側にどれほど細かな事情を持っていてもね。ニュートン力学と量子力学の関係だね。ボールがどこに落ちるのかを知るために、波動方程式は必要ない。例え世界がそれで成立していたとしても。」
「そうだね。」
「こういう表現が通るから君と話しているのは楽だね。」
「猫の話もあるし、量子力学がらみの表現はそうマイナーでもなくないか?」
「さて、わからないな。エンターテイメントとしてそれを土台にする物語も多量に消費されていはいるが、それは決して基礎教養という訳ではないだろう。」
「まあ、そうね。どうでもいいけど。」
「どうでもいい、などとそう真理を突くのは良くないな。なんだってそうなんだから。」
「そうだな、悪かった。」
「許そう。」
フ〜っと、長い息を吐く。少し長く喋りすぎた。疲れた。
背後で新島が読書を再開した気配がした。
読みかけの本を持ってこなかった事を少し後悔する。
後悔したがまあ、大した問題ではない。ここは図書室なのだから。
いつ図書室に来ても何かしらここの本を読んでいる新島ともなると、『図書室の本など読破してしまったわ』などと言い出しそうだが、幸いぼくはそこまで読書狂ではない。
読みかけの本があることは大した問題ではない。どこまで何を読んだか、多少混乱したところで死にはしない。拘る者も在るが、それは文字通り拘りだろう。本来の意味での。
でもなんとなく、本を取る気がしない。
少しばかり、読書という気分ではないらしい。
頼りない感覚はそう告げている気がする。
ハ〜っと、息を吐きながら天井を仰ぎ見る。と、コツリ、と背後の新島と頭がぶつかる。
「あ、悪い。」
「気にするな。」
コツリ、と避けたぼくの頭蓋に、新島の頭が触れる。
柔らかな匂いがした。
女性特有の匂いはどうも苦手なのだが(特に香水をつけている相手はむせ返るのをこらえるのに苦労する。)、彼女の匂いは薄く、儚く、どちらかと言えば、確認しないと不安になる性質だ。丁度、電車の中で微妙に音漏れしているヘッドホンの音がやたら気になってしまうみたいに。
「ところで。」
と、脳裏の言葉が溶けて思索に沈む、まどろみのような瞬間の手前に、新島の声が響く。こういう時に聞こえる人の声はやけにはっきりと響いてくる。
「過去に人と共にあった記憶に感傷を覚える君は、」
別にそう言う事はない、と言いたかったが、説得力もないか、と黙って彼女の言葉の続きを待つ。
「まだ独りで生きる事を考えているのかな?」
ああ、その話か。いつその話をしただろうか?
あまり良く覚えていない。
まあ、どうでもいい事なのだけれど。
「うん。たぶん変わらない。」
「そうか。」
まだ何か続くのかと、彼女の言葉を待ったが、彼女は何も言わなかった。
ぱらり、ぱらりとページをめくる音。
図書室の午後は過ぎていった。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
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