カウンター越しに
カウンター越しの二人。
カタリ、と陶器のコップが木のテーブルを打つ音。
そっと香る、珈琲。
「ん。」
ああ、眠っていたんだなと、雪橋悠は顔を起こす。
「…おはようございます。」
「おはよ。」
カウンターの向うで、唇がゆっくりと微笑む様子を、眼が追ってしまう。スッと、その顔が離れて行く。スラリとキレイな姿勢。
「良く眠れた?」
「どうでしょう。こう、突っ伏して寝てもあまり休めた風には思えないんです。どちらかというと、起きていられるギリギリの所まで巻き戻せたという感じで。」
「まだ眠い?」
「眠いというより、クラクラしますね。」
「じゃ、飲まない?」
細い指が、カップで湯気をくゆらすそれを指す。
「いえ、いただきます。…5分もしたら、良くなりますから。」
「うん。ゆっくり待つと良いよ。」
カタリと、椅子の脚が床をこする。彼女は立ち上がり、カウンターの向う、シンクの水を流し始める。水道から流れる水の音。かちゃかちゃと、食器の打ち合う小さな音。水のはねる音。水が流れ込むパイプが呼吸する音。小さく、柔らかな鼻歌の声が混じる。
「何の歌ですか?」
「歌ではないな〜。ビバルディーの『春』。音楽の授業でやらない?」
「クラシックはあまりわかりません。」
「クラシックだって分かってるんじゃない。」
クスクスと笑い、また彼の前に戻ってくる。
「洗い物、もう良いんですか?」
「うん。そんなにたまってた訳じゃないから。もう大丈夫?」
「ええ。だいぶ楽です。」
「ね。どんな感覚なの。」
「さあ、どう表現するのが正確なのか。感覚として、脳みその中で、濁った血が上手く流れなくなっているような感じ、でしょうかね。」
「ふぅ〜ん? よくわからないね。」
「主観ですから。」
「体の構造が、そう違う訳でもないでしょ?」
彼女はスッと、長い指で彼の額をなぜる。洗い物の名残で、少し湿って冷えた指。弱く、洗剤の匂いがする。
「だいぶ色々違うでしょう。」
「いやん。エッチ〜。」
にやにやと、恥ずかしそうに笑う。
どうしてそういう発想になるのか考えてしまう。この人は少し思考経路がおかしいのではないか、と。
しかし改めて考えてみたらそれほど不自然な発想ではないのかも知れないと思えてしまう。肉体的構造の違いとは、つまりそういう事なのだから。
だからといって、彼女の思考経路を可愛いらしいとは、どう間違っても思えないな、とシミジミ感じ入る。
「その顔キライ〜。」
「生まれついてこの顔です。」
「ちがう。その惨めな物を見るような眼とか、表情とか。」
「被害妄想甚だしいですね。」
「ウソだ。君は絶対そういう事を考えた。」
「ぼくがそんなひどい思考をするわけないじゃないですか。いやだなぁ、まったく。」
「へ〜。じゃ、かわいかった?」
「自分の所作についてその質問をする人間は死に絶えれば良いと思います。」
「え〜。なんでだよぉ〜。」
「いえ。無性に腹立たしいので。つい刺したくなります。」
「いけず〜。」
珈琲を口に運ぶ。芳香が鼻腔をくすぐる。唇の触れた水面が、仄かに波立つのが見えた。
彼女はその様子をカウンターの向うで見ている。にこにこと、頬杖をついて、くつろいだ雰囲気で。
「おいし?」
「ええ。良い豆ですね。」
「奮発しました。」
エヘンと胸を張る彼女。
「でも、きっとぼくではこの味は出せないのだろうな、と思いますよ。同じ豆を使っても。」
「いやぁ〜照れるな〜。」
「嫉ましくてしかたがありません。」
「もっと素直に、私をほめてよ。そんな持ち合わせてもいない陰湿な感情の告白とかしてないで。」
「いえいえ。ぼくは他者が自分よりすぐれて居る事を知ると抑え難い嫉妬にかられてしまう性質なのです。」
「聴きたくなかった。どうせウソ吐いてると知っていても、君の口からそういう事は聴きたくなかった。」
「他人の器の狭さを許す事も、人間愛の一種だと思いませんか?」
「『わたしはあなたを許します』? 何だか傲慢さを感じるねその愛に。」
「きっと愛は傲慢なのでしょう。」
「いやいや。愛はもっとキレイに輝く物だと信じるよ私。」
「乙女チックですね。」
「女の子はいつだって乙女チックなのだよ。」
「関係ありませんが、マイノリティーに気付かないマイノリティーは存在が悲しいですよね。」
「なんで今言った。」
「いえ。ただ少し、レゾン・デートルというものについて、ふとインスピレーションが湧きましたので。」
「私の発言は私の存在意義をも貶めるのか。」
「別にさっきドヤ顔で言ったセリフの話はしていませんよ?」
「その白々しい〜顔が、ほんっと、キライ。」
「むくれないでくださいよ。頬をつつきたくなるじゃないですか。」
彼女はむくれた顔でそっぽむく。
少しほほ笑ましく思う。
カタリと、カップを取り上げる。
ゆっくりと揺れる液体を見やり、それを口元へ運ぶ。
珈琲をすすり眼を上げる。
彼女はむくれた表情のまま横を向いている。
心持ち、さっきより顔が近い気がする。
「…やりませんよ?」
「ば〜か、ば〜か期待なんかしてねぇーよば〜か。」
「小学生みたいな暴言を吐かないでください。」
「どうせ私は子供ですぅ〜。」
「可愛らしさと腹立たしさの境界って結構難しいですよね。関係のない話ですが。」
「意地悪。根性なし。朴念仁。」
「…まったく。」
ははっと、表情筋を使い慣れないような笑い方をする。
カランカランと、扉の上のベルがなる。
「あ、いらっしゃ〜い。」
彼女は席から立ち上がり、新しく来た客を迎える準備を始める。
少し長居しすぎたかなと、時計を見て雪橋は思う。
「あ、帰る?」とカバンに書籍を詰めて性質あがる雪橋に、彼女は声をかける。
アンティーク感ただようレジで会計を済ませ、カランカラン扉を開ける。
「ええ。ごちそうさまでしたアヤメさん。」
「また来てねユキちゃん。」
最後の一杯、エスプレッソ・ビバーチェ。
その一杯が会計の中に含まれて居ない事を彼は知っている。
ここまでお読み下さりありがとうございます。
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