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お父様、その招待客は「何もしていない姉」が集めたのですよ

作者: パリトン
掲載日:2026/10/24

「これを読めばいい。お前が書いたことにしておきなさい」


 その紙は、私に返してもらうはずだった。三晩かけて書いた挨拶文で、最後の頁はまだ糊も乾いていない。今朝届いた報告を見て、療養院で新しく雇えた洗濯係の人数を直したばかりなのだ。父の手から妹へ渡っていくのを見て、伸ばしかけた手が止まった。


「お父様。今年は私がご挨拶するお約束でした」

「事情が変わった。シルヴィに任せる」


 妹が紙をめくりながら父の隣へ座ったので、私もいつもの椅子を探した。窓辺にあったはずなのに、今日は壁際へ寄せられている。お茶も二人分しかない。どこへ座ればいいか分からず、立ったまま父の説明を待った。


「ヴァロワ家のご夫人もいらっしゃる。シルヴィが慈善活動を取りまとめていると知れば、ご子息との話も進むだろう」

「私、上手に読めるかしら。難しいことがたくさん書いてあるわ」

「オデットに教えてもらえばいい」


 十日後、我が家では年に一度の慈善晩餐会を開く。招待状を書き、寄付先の報告を整え、返事の来ない方へもう一度手紙を出す。今年も春から準備してきた。父の署名をいただくために差し出した挨拶文には、その半年分の報告を詰めてある。


 いつもなら、父が読むところだった。今年はお前も前へ出なさいと言われて、私は新しい靴を注文した。長く立っていても痛くならないよう、踵は低くしてもらった。妹に紙を渡されるより、その靴のことを思い出した瞬間の方が、喉が詰まった。


「では、私が活動について説明して、そのあとシルヴィが皆様にお礼を申し上げる形では」

「二人で出る必要はない。お前は裏の支度を見ていなさい」


 妹が紙から顔を上げる。


「そうしていただけると助かるわ。お姉様がいらっしゃると、お客様がそちらへお話しになるもの。私が主催者だと分からなくなってしまうでしょう?」


 それだけ言って、妹はお茶を飲もうとしている。父も頷いていた。私に話しかけてくださるのは、何度も手紙を交わしてきた方々なのに。返事をいただくまでに二か月かかったことも、そのあと何を相談したかも、二人は知らないのだろうか。


「準備についても、シルヴィに引き継ぐのですか」

「当日の見せ方はシルヴィに任せる。細かいことは、今までどおりお前がすればいい」

「それでは、取りまとめているのは私です」


 ようやく父と目が合った。眉が上がったので、話を聞いてもらえるかと思ったが、すぐに眉間へ皺が寄る。口を挟まない方がよかったのかと、また考えてしまった。


「お前は何もしていないだろう。手紙を書いていただけで。人前に立つのは、この子の方が向いている」


 机の端に、今朝戻ってきた封筒があった。昨年、寄付の使い道が曖昧だと怒られた商会へ、半年ごとの報告を送った返事だ。今年は増額したいと書いてくださっていた。私は宛名の自分の名前を見てから、父へ視線を戻した。


「手紙のほかに、寄付先との相談も、金額の確認もしています。皆様にはお約束していることがあります」

「それなら引き継げば済む。そんなに自分の手柄を取られるのが嫌なのか」


 胸の内にあった言葉が、一度に出てこなくなった。妹に譲った服や、取りやめた外出を数えるつもりはなかった。ただ今年は、私がしたことを私が話してもいいと、父が言ってくれた。それが嬉しかっただけなのに。


 妹は挨拶文を膝へ置いた。


「お姉様はもう慣れているでしょう。私は初めてなのよ。少しくらい譲ってくださってもいいじゃない」


 私は妹を見た。初めてだった年、断られた手紙を抱えて父の部屋へ来たことがある。忙しいから自分で考えなさいと言われ、廊下で封筒の角を曲げてしまった。あの紙は、今も最初の帳面に挟んである。


「分かりました。明後日までに、記録をまとめて渡します」


 父が椅子にもたれた。これでまた私が全部引き受けたと思われたら困る。言いにくかったけれど、ここでやめるわけにはいかなかった。


「それ以降の準備と当日の対応は、シルヴィにお願いします。私は担当を外れます。各方面へも、そのようにお知らせします」

「大げさだな。お前がいなくても、晩餐会くらい開ける」

「はい。では、お願いいたします」


 机から取れたのは、自分の帳面だけだった。挨拶文は妹の膝に残ったままで、もう会場の花の話が聞こえてくる。廊下へ出て扉を閉め、帳面を抱え込んだ。角が腕に当たって痛い。それでも手を緩めたら、これまで取り上げられそうで、しばらく離せなかった。


     *


 二日後、私は妹の前で三冊の帳面を開いた。紺の表紙が招待客、茶色が支出、緑が療養院との連絡だ。未確定の箇所には紙を挟み、返事が必要な日を書き添えた。父にも同席してもらい、説明した項目の一覧を一枚、机に置く。


「こちらの六家からは、まだ寄付金をお預かりしていません。会の三日前に説明を聞いていただき、そこで確定します」

「出してくださると書いてあるわ」

「この続きも読んで。療養院の冬の燃料と、洗濯場の修繕に使うことが条件なの」


 妹は頁をめくった。そこには必要な薪の量と、壊れた排水溝の見積もりを綴じてある。椅子の背で体を揺らしていた父が、会の飾り付けに関する書類を引き寄せた。


「今年は花を増やそうと思っている。入口にも楽団を置きたい」

「でしたら、家から出していただく会費を増やす必要があります。寄付金は、会場費には使わないとお約束しています」

「客を迎えるための費用も、慈善活動のうちだろう」

「今回のお約束では、別です」


 私は寄付の条件が書かれた手紙を開き、父の前へ置いた。父は目を通してから、紙を妹へ滑らせる。


「それも含めて、私たちで話す。お前は引き継ぐのだろう」

「はい」


 何度も言い直したくなるのをこらえ、最後に会場の予約書を渡した。会場と料理の費用は父が承認しており、手付金も我が家から払ってある。六家の寄付がなくても、療養院へ渡すお金に手をつけなければ、もとの規模なら開催できる。その数字も指で示した。


 父が一覧へ署名するのを確かめて、三冊を揃えた。妹は明日から花屋へ相談できると喜んでいる。寄付の条件は分かってもらえたのだろうか。もう一度説明したくなったけれど、同じ頁を開くのをやめ、妹の前へ帳面を押し出した。


 自分の机へ戻ると、インク瓶の隣に手紙が一通残っていた。北門の療養院を支えるガスパール様からのものだ。父を亡くして領地を継いだばかりの頃から、こちらの問い合わせに返事をくださっている。私より三つ年上で、字は丁寧なのに、署名だけ少し右へ傾く人だった。


 用件の下に、短い追伸がある。


『河岸の焼き栗屋が、今年も店を出しました。晩餐会が済んだら、今度こそご一緒しませんか』


 去年も誘ってくださった。私は礼状が残っていると言って断り、そのあと冬になってしまった。机の引き出しには、彼が療養院の庭から拾って送ってくれた、妙に平たい栗が入っている。食べられそうにないが、文鎮にはなると書かれていたので、本当に紙を押さえるのに使っていた。


 私は担当変更の知らせとは別の便箋を取り、明後日なら空いています、と返事を書いた。仕事の予定を確かめずに外出を決めたのは、いつ以来だろう。封をする前に一度だけ読み直し、日にちを消さずに侍女へ渡した。


 その夜、妹が私の部屋へ来た。


「お姉様、ヴァロワ夫人へのお返事を書いてくださる?」

「ご質問は何?」

「去年の寄付が、何に使われたか知りたいそうなの。お姉様ならすぐ書けるでしょう」

「緑の帳面の最初に、昨年の報告を挟んであるわ。そこからお答えして」


 妹は唇を尖らせ、持ってきた便箋を机へ置こうとした。私は手を伸ばし、受け取らずに妹の方へ戻す。


「今度からは、あなたの名前で返事をするのでしょう。内容を確かめて、自分で書いて」

「そんな言い方をしなくても」


 声を震わせられると、胸が落ち着かなくなる。いつもは妹がこんな声を出す前に引き受けていたのだ。ここで返事を変えなかったら、泣くだろうか。私が黙っていると、妹は便箋を持って出ていった。扉が閉まっても、また戻ってこないかと足音を聞いてしまう。


 追いかけて、書いてあげようかと言うことはできた。代わりに引き出しを開け、平たい栗を、明日の買い物の覚え書きに載せた。


     *


 ガスパール様は、約束の時刻に来てくださった。父の応接間へ通される前に私が玄関へ下りると、帽子を取った彼が少し目を丸くする。私は家の馬車を出してもらい、侍女とともに河岸へ向かった。いつも書類を抱えて座る席で、今日は手袋の指先だけを重ねていた。


「急なお誘いになってしまって、申し訳ありません」

「誘ったのは私です。早くお返事をいただけて、嬉しかったですよ」


 彼の視線を追って、自分の足元を見た。新しく作った、踵の低い靴を履いてきたのだった。


「今日は歩いても大丈夫そうですね」

「長く立つ予定があったので、作ったのです。予定はなくなりましたけれど」


 言ってから、余計なことまで話してしまったと思った。彼は何の予定か尋ねず、焼き栗屋の前で馬車を止めてもらう。油紙の袋を二つ買い、熱くない方を私に渡してくださった。侍女は少し後ろで、自分の分の栗を受け取っている。


「担当を変わられたと伺いました。今後の問い合わせは、お父上と妹御へお送りします」

「はい。ご不便をおかけするかもしれませんが」

「引き継ぎ先は分かりましたから。それで、その靴の履き心地はいかがですか」


 靴の話に戻っていいのだろうか。思わず彼の顔を見たが、私の返事を待っているだけだった。担当を外れた事情も、これから困るかもしれないことも、説明し続けなくていいらしい。


「まだ少し硬いです。でも、痛くはありません」

「では、橋まで歩いて、そこで帰るか決めましょう」


 川には、荷を積んだ小舟がいくつも浮かんでいた。彼が話してくれたのは、先月、領地の屋根を直した大工のことだった。仕事は見事なのに、雨の日には自分の家の雨漏りで出てこられないらしい。私は笑い、彼も困ったものですと言いながら笑った。


 焼き栗の皮をむいていると、指先から半分が落ちた。彼が袋を寄せて受け止めてくれる。礼を言いかけたところで、父の部屋で伸ばした手のことを思い出した。あのとき受け取れなかった紙が、なぜこんなところで浮かぶのだろう。


「オデット様?」


 私は袋を握り直した。栗が一つ、紙の底で転がる。


「今年は、私が挨拶するはずだったのです」


 すぐそばの長椅子を示され、頷いた。座ってみると、思っていたより足に力が入っていたことが分かる。侍女は少し離れて舟を眺めている。そのままでいてくれるのが、今はありがたかった。


「人前で褒めてもらいたかったのかもしれません。そんなに自分の手柄にしたいのかと聞かれて、違いますと、すぐには言えませんでした」

「ご自分がしたことを、ご自分で説明する予定だったのでしょう」

「はい。でも、それだけではなくて」


 膝の上の袋へ目を落とした。こんなことを彼に話してどうするのだろうと思っても、もうやめられなかった。


「お父様に、一度くらい、ありがとうと言ってほしかったのです。皆様の前でなくてもよかった。それを楽しみに、準備していました」


 声が詰まり、私は口を閉じた。ガスパール様は隣へ座り、ハンカチを差し出してくださる。受け取ると、端に小さく名前が縫ってあった。自分のものと間違えないように、という程度の不揃いな字が、かえって目に入った。


「私は、あなたから届く手紙を待っていました」


 私は顔を上げた。彼は私を見てから、照れたように袋の口を折る。


「報告の最後に、庭の石榴が割れたとか、寝不足で砂糖と塩を間違えたとか、書いてくださるでしょう。あれを読むのが楽しみでした」

「塩の話まで覚えていらしたのですか」

「何も入れない紅茶を、初めておいしいと思ったと」


 私は泣きかけたまま笑ってしまった。療養院の報告に添えるには、くだらない話だったと思っていた。彼の返事にも、収穫した蕪が全部曲がっていたと書いてあったので、つい続けたのだ。


「仕事の手紙がなくなると、そういう話も届かなくなるのでしょうか」

「ご迷惑でなければ、書きます」

「ぜひ。返事をします。できれば、こうして会って話す日も」


 返事をしようとすると、彼が紙袋の同じところを何度も折り直しているのに気づいた。私が頷いたら、その手が止まる。嬉しくなって、橋の先まで歩きませんかと誘ってみた。帰りの馬車でも、次は何を書こうかと、そればかり考えていた。


 屋敷へ戻ると、玄関で父に呼び止められた。


「どこへ行っていた。エルベ商会が、今年は欠席すると言ってきたぞ」


 差し出された手紙には、寄付の使途について返事が得られず、追加で案内された席料の説明もないため、出席を見合わせるとあった。私は最後まで読んでから返す。


「お返事は出されましたか」

「シルヴィが忙しいと言っていた。お前が一通書けば済むだろう」

「父娘で取りまとめるとお決めになったので、お二人でお返事をお願いします」

「お前の引き継ぎが悪かったのではないか」


 私はその場で執事に頼み、引き継ぎの一覧を持ってきてもらった。父の署名の上に、エルベ商会への回答期限が書いてある。父は紙を見てから、そばに控える執事へ目をやり、声を落とした。


「分かっていたのなら、黙って済ませておけばいいものを」

「済ませてしまえば、また私が担当したことになります」


 また何か言われる。そう思って身構えたのに、父は私の手元を見て黙った。焼き栗の袋を持ったままだったことを、そのとき思い出した。


「家が忙しいときに、遊び歩いている余裕はあるのだな」


 私は袋を背中へ隠しかけ、やめた。


「はい。今日は約束がありました」


 階段を上がりきるまで、振り返らないようにした。部屋へ入ると足が震え、椅子に座ってからでないと靴も脱げなかった。踵は少し赤くなっている。そこを指で押したあと、袋に残っていた栗を一つ食べた。冷めていても、ちゃんと甘い。


     *


 六家との確認会には、私も出席することになった。前年の会計について尋ねられた場合だけ答えると、父にあらかじめ伝えてある。父は不満そうだったが、寄付者の一人から私の同席を求められていたので、拒めなかった。


 応接間の中央には妹が座り、私の席は入口に近い端へ移されていた。去年の帳面を膝に置き、留め金を外す。療養院側の説明役として来ていたガスパール様と目が合うと、小さく会釈を返してくださった。私は頭を下げ、帳面の角を揃えた。


「今年は、昨年より華やかな会にするつもりです」


 妹が卓に広げたのは、会場の絵だった。入口を埋める花に、楽団の壇。私が見積もったときにはなかった、天井から吊るす飾りまで加わっている。父は満足そうに絵を示した。


「今年はシルヴィが一切を取りまとめております。昨年も、この子の働きには助けられました」


 顔を上げずにはいられなかった。手紙を書いていただけだと言われたときより、胸が苦しい。私を見ようともしない父の隣で、妹が微笑んでいる。


「姉にも、書き物などは手伝ってもらいましたけれど」

「では、オデットさんは今後も担当なさるのね?」


 尋ねたのはヴァロワ夫人だった。ご子息と妹の縁談を進めている方で、昨年から療養院の寝具代を出してくださっている。父が頷こうとしたので、私は先に答えた。


「いいえ。お知らせしたとおり、今年の準備からは外れております。本日は、昨年の会計について説明するために伺いました」


 夫人の視線が父へ戻る。


「昨日のお使いには、引き続きオデットさんが責任を持つと伺ったのですが」


 知らなかった。膝の帳面を押さえていた指に力が入る。私は父を見たが、父は夫人へ向けて笑っていた。


「家族で協力しているという意味です。娘の言い方は少々堅苦しくて」

「今日は、その責任者の説明を聞くために来たのです。どなたのお話を伺えばよいのでしょう」


 父が笑うのをやめた。妹の方へ手を向け、もちろん主催者はこちらです、と言い直す。夫人は妹の前へ、昨年の報告書を置いた。


「洗濯場の修繕を今年へ回したのは、どういう判断だったのかしら」


 妹は答えずに父を見た。父も紙をめくるばかりで、話し始めない。理由なら私は覚えている。口を開きかけて、閉じた。今、尋ねられているのは妹だ。


「職人の都合だったと思いますわ」

「冬の燃料を先に確保したいと、私は説明を受けました。それで、寝具は現物をお届けしたのだけれど」

「ええ、それもありまして」

「寝具は、どちらへ届けたかご存じ?」


 妹の目が私へ動いた。私は手元の帳面へ目を落とさず、待った。寝台の幅が違うので、布団の寸法を測り直していただいた。夫人の家の使用人にも、二度手間をかけたことを覚えている。


「療養院へ、ではないのですか」

「修繕中の旧棟を避けて、オデットさんに別の受け取り場所を手配していただいたのよ。あなたが取りまとめたというのは、どの仕事のお話?」


 妹は答えなかった。父の咳払いが聞こえ、また私が話を変えるべきなのかと考えかける。


「細かな実務まで本人がするものでもありませんからな」

「実務を頼んだなら、その方のお名前を出せばよいでしょう。手伝いだったと説明を変える必要がありますか」


 父の耳まで赤くなった。私を見て、何か言いなさいというように顎を動かす。今日は、その意味が分からなかったふりをする必要もなかった。


「昨年の調整と連絡は、私がいたしました。シルヴィは当日、入口でお客様をお迎えしました」


 それだけ答えた。夫人は、そうでしたのね、と頷く。妹が何か言いかけたところで、別の寄付者が今年の支出案を開いた。


「では今年の説明をお願いします。私どもが申し出た支援の一部が、会場費に含まれているのはなぜですか」


 父は待っていたように会場の絵を示した。盛大に開けば今後の寄付も増える、皆様を迎えるための費用だと話す。私には聞き慣れた調子だったが、向かいの方は頷かなかった。


「私がお約束したのは、冬の燃料代です。薪は足りているのですか」


 ガスパール様が、療養院の必要額を記した紙を開いた。


「足りていません。修繕も急ぐ必要があります。支出の変更については、院としても了承しておりません」

「これからお話しすれば済むことです」

「伯爵。こちらは、既に発注されたと伺いましたが」


 会場の絵を押さえる父の手が止まった。契約書には父の署名があり、寄付が確定する前に、花も楽団も大広間も頼んでいる。私が引き継いだ見積もりとは、もう違う金額だった。


「そのあたりは、オデットから。これまで皆様とやり取りをしてきましたので」

「今回の変更を決めたのは、お父様とシルヴィです。私からは説明できません」


 父の顔から笑みが消える。こんな場で逆らうとは思っていなかったのだろう。私自身、膝の上で重ねた手が震えそうだった。それでも、今日まで何も知らなかった計画を、知っていたことにはできない。


「お前からお願いすれば、聞いてくださるだろう。少し融通を利かせていただくのだ」

「お約束した使い道を変えるお願いは、いたしません」


 卓の向こうで、寄付者の一人が支出案を父へ返した。


「今年の寄付のお申し出は撤回します。条件が違いますので」

「待ってください。今ここで決めずとも」

「私もです」


 隣の方も紙を閉じた。六家の返事が、順に同じものへ変わっていく。父は一人ずつ名前を呼んだが、誰も支出案を受け取り直さなかった。


「三年間、オデットさんが細かく報告してくださったので、お任せしていました。お嬢さんが今後も責任を持つと聞いて、今日は来たのです」


 ヴァロワ夫人の言葉に、父が慌てて頷く。


「では、そのようにいたしましょう。オデットを責任者へ戻せば、問題は――」

「私に確認なさらず、お決めにならないでください」


 父がこちらを向いた。私は立ち上がらず、その顔を見返す。


「皆様に、私が担当を続けるとお伝えしたことも、今、訂正してください」

「家のために、少しくらい」

「私はお引き受けしていません」


 それ以上の返事を待っても、父は私を見ているばかりだった。夫人が、ご本人の承諾はなかったのですね、と確認する。父はようやく顔を戻し、話が行き違っていた、と小さく答えた。


 退出の挨拶が始まると、妹が夫人の前へ出た。


「当日は、私がお迎えしますわ。どうぞお越しになって」

「出席も辞退します。息子とのお話については、改めてお返事します」


 夫人は妹の肩越しに父を見た。


「昨年から取りまとめてきたというご説明も、私どもが縁談を考えた理由の一つでした。その点は、夫にも伝えなくてはなりません」


 妹の手が宙で止まった。父は弁解しながら夫人を追い、玄関へ向かったが、廊下の途中から、返事をする声が聞こえなくなった。


 最後に残ったガスパール様が、私の帳面へ目を向ける。


「療養院への支援をやめたいわけではないと、皆様がおっしゃっていました。今後は院へ直接ご連絡いただくことになります」

「それなら、よかったです」


 あの薪までなくならずに済む。そう思ったら、ようやく肩の力が少し抜けた。ガスパール様は続けて、ただし、と声を落とす。


「伯爵家の会場費を引き受けることはありません。院長からも、そこは明確にするよう預かっています」


 私は頷いた。父の発注を、療養院が払う理由はない。彼が帰るのを見送ってから、去年の帳面を閉じた。


     *


 父は応接間へ戻るなり、妹へ帳面を開かせた。


「寄付の予定額を、全部外すとどうなる」


 妹が頁をめくり、私を見る。私は何も言わなかった。三冊を渡した日、最初に説明した場所だった。


「茶色の帳面だ。ほら、早く」

「分かっているわ。でも、どこを引けばいいの」


 父は帳面を奪うように引き寄せた。しばらく紙をめくったあと、壁際の呼び鈴を強く鳴らす。入ってきた家令へ計算を命じ、自分は会場の契約書を睨んでいた。


 家令が金額を告げると、父は聞き返した。妹が絵に描いた花も、天井の飾りも、名前の横には代金があった。支援金を一部使うつもりで増やした支出を、今度は家だけで払わなくてはならない。


「もとの規模へ戻せ」

「小広間は既に、ほかのお客様が予約されております。大広間と料理を維持するなら、この金額です。中止された場合でも、こちらの取消料が発生します」


 父は差し出された紙を見たあと、私へ顔を向けた。


「オデット。今ならまだ間に合う。客を呼び戻してくれ」


 反射的に立ちかけてしまった。椅子に座り直すと、父の目が私の動きを追う。続きを待っているのが分かって、私は膝の上で手を揃えた。


「寄付は療養院のためのお金です。戻っていただいても、会場費にはできません」

「それなら、会場と交渉しろ。お前はあの支配人とも話していたな」

「予約を増やしたのはお父様です。契約については、ご本人からお願いします」


 父が口を開いたところで、家令が契約書の署名を示した。私の名前はどこにもない。父は紙を伏せ、家令を下がらせた。


「お前の名前も、主催者に入れる。挨拶も好きにすればいい。もうそれでいいだろう」


 十日前なら、喜んだと思う。父の隣に立ち、報告を読んで、よくやったと言われる。そのために作った靴を、私は今日も履いていた。


「今度は、私を人前に出してくださるのですか」

「だから、そう言っている」

「私が何をしたか、お客様にお話ししても?」

「構わん。私からも言う。お前がこの会を支えてきたと」


 父は早口になった。妹も、私の椅子へ近づいてくる。


「お姉様が前に出てくださるなら、私は後ろでいいわ。だから、ヴァロワ夫人にだけでも」


 私がいると客がそちらへ話しかけるから、裏方にいてほしい。そう言われた日と、同じ声だった。


「お父様。その招待客は、『何もしていない姉』が集めたのですよ」


 父は顔をしかめた。


「言い方が悪かった。それは認める」

「私が担当したことは変わっていません。寄付が集まると思っていたときには、妹の手柄にするとおっしゃいました。集まらなくなったら、今度は私の名前を出すのですか」

「家族なのだから、そんなふうに分けるな」

「最初に私の名前を外したのは、お父様です」


 妹が鼻をすする音がした。私は父から目を逸らさなかった。父は卓の上のペンを取り、握ったまま置き直す。


「今ここで争っている場合ではない。会を開けなければ、どんな噂になると思う。シルヴィの縁談も、このままでは」

「ご説明ください。去年、シルヴィがした仕事を」

「それでは、私が嘘をついていたことになる!」


 返事をしなかった。父が息を呑む音だけが聞こえた。妹が私の袖へ手を伸ばしたので、私は立ち上がる。


「お姉様。お願い。今回だけでいいの」


 妹は、さっき夫人に差し出せなかった手を、私へ向けていた。


「私が挨拶をしたいとお願いしたときは、聞いてくれなかったでしょう」

「だから、譲ると言っているじゃない」

「あなたから譲ってもらうものではなかったのよ」


 妹の口が閉じた。父が椅子を引き、私の前へ回ってくる。廊下へ出るつもりだったのに、その顔が近くなった。


「悪かった。もうあんなことは言わない。費用のことは私が考える。せめて客だけでも、戻してくれないか」


 父に頼まれたことは何度もある。けれど、私の返事をこんなに待っていたことはなかった。私は自分の靴の先を見てから、顔を上げた。


「お断りします。今度も私が引き受けたと、お客様にはお伝えにならないでください」


 父は道を空けなかった。私も、下を向いて頷くことはしなかった。しばらくして、父の方が一歩、横へ退く。


 部屋を出る直前、家令を呼ぶ声がした。父はもう、大きな声を出していなかった。


「中止だ。会場に連絡してくれ。取消料は……私の口座から払う」


 妹が泣き始めた。私は扉の取っ手を握り、最後まで閉めた。


 翌朝、父の署名で中止の知らせが発送された。私には、一通も代筆を頼まれなかった。ヴァロワ家から縁談を断る手紙が来たのは、その二日後だった。


 父が私を呼んで手紙を見せたので、最後まで読んだ。そこには、妹の実績について事実と異なる説明を受けたこと、確認の席でも訂正されなかったことが書かれていた。夫人は、会が中止になったから断るのではないと、わざわざ一行添えていた。


「先方にも、少し誤解がある」


 父の声に、私は手紙を返した。


「でしたら、お父様がお返事をなさってください」


 父は紙を受け取ったまま、私を見た。私は挨拶をして退出した。今度は、呼び止められなかった。


     *


 療養院から面談の申し入れがあったのは、それから一週間後だった。お送りくださったのは院長で、寄付者への報告と会計記録を担当してほしいという内容だった。私は過去の控えを持って訪ね、応接室で仕事内容を確かめた。


「今回だけ、というお話でしょうか」

「まずは半年、お願いしたいと考えています。報告会の準備だけでなく、そのあと集まったお金がどう使われたかまで」


 差し出された紙には、勤務日と報酬が記されていた。冬の燃料代や修繕費から出すのではなく、以前からある運営費の職員枠で雇うという。支援金は療養院が直接受け取り、私は記録と説明を担当する。家の名前を入れる欄はなく、契約するのは私と療養院だった。


 条件を読み終えてから、私は引き受けたいと答えた。院長は頷き、契約書へ署名する。それから、ほかに相談はありますかと尋ねてくださった。


「近くで、部屋を借りられるところをご存じでしょうか」


 そう聞くときだけ、少し声が小さくなった。院長は理由を問い詰めず、職員も住んでいる通りの下宿を教えてくれた。帰りに見せてもらうと、窓は小さかったが、机の前には十分な明るさがあった。


 父へ仕事と転居の話をしたのは、契約を結んだあとだ。机の上には、まだ会場からの請求書が置かれている。父は私の話を最後まで聞くと、外で給金をもらう必要などないと言った。


「来年はお前を主催にする。それなら、家で働けばいい」

「もう、次の仕事をお引き受けしました」

「我が家の会がなくなった途端、よそで同じことをするのか」


 私は首を横に振った。父にとっては同じに見えるのだろう。こちらの希望を聞いてもらい、何をするかを話し合って、名前を書いた。その違いを全部説明すれば、また言い争いになる気がした。


「今度は、私が自分で選んだ仕事です」


 父は、勝手にしなさいと言った。私は頷き、退室した。


 引っ越しの荷物は、思っていたより少なかった。自分の服と本、個人宛てにもらった手紙。家の帳面はすべて置き、保管を頼まれていた領収書も家令へ渡した。机の最後の引き出しから平たい栗を拾い、布に包む。


 療養院の報告会は、一か月後に開くことになった。会場は院にある集会室で、花は庭から切ったものを二つの瓶に挿すだけ。私は招待状に自分の名前と担当を書き、問い合わせ先にも療養院の住所を記した。


 返事は、今度は私の机へ直接届いた。


『あなたのお話を伺えるなら、出席します』


 最初の一通を読み、椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。そのあとも、日程を合わせた、知人を一人連れていってもよいかと返事が続く。父の晩餐会を辞退したエルベ商会からも、帳簿を拝見したいと申し込みがあった。


 ガスパール様は療養院へ来る日に、私の机にも立ち寄ってくださった。紙を広げすぎて椅子が引けなくなっているのを見て、整理する場所を一緒に考えてくれる。報告会の説明を代わってもらうことはなかったが、一度だけ予行を聞いてもらった。


「分かりにくいところは、ありましたか」

「洗濯場の水路です。図があれば、私にも分かりそうです」


 何でも褒められるより、直すところが分かるのが嬉しかった。翌日、現場で測った寸法をもとに図を描いた。端が丸まるので例の栗を載せると、彼が笑った。


「まだ使ってくださっていたのですか」

「窓を開けなければ、働きます」

「ずいぶん条件のある文鎮ですね」


 私は笑い、彼も笑った。仕事の終わる時刻を聞かれ、帰りにお茶へ寄る約束をした。予定が一つ増えても、今日は重荷に感じなかった。


     *


 報告会の日、父と妹が来たのは、受付を開ける直前だった。寄付を考える方なら参加できる会で、二人が申し込んだことは院長から聞いていた。それでも、入口に立つ父を見たら、背筋が伸びてしまった。


「よく人が集まったな」


 父は並べた椅子を見渡し、それから受付の名簿へ目を落とした。昨年まで我が家へ来ていた方々の名前が並んでいる。妹も覗き込み、ヴァロワ夫人の名前を見つけたところで、父の袖に触れた。


「私たちは、前に座ればいいのか」

「お席は、受付の方がご案内します」


 父を案内するために持ち場を離れなかった。私は説明に使う図を持って壇の脇へ行き、最後の数字を確認する。父と妹が通されたのは、中央の列の、ほかのお客様と同じ椅子だった。


 院長が私の名前を呼んだとき、喉が乾いた。作ってもらった靴で、壇へ上がる。父の顔を探しそうになって、最前列で資料を開いている方へ目を向けた。


「記録とご報告を担当しております、オデットです。本日は、冬の燃料と洗濯場の修繕について、お話しいたします」


 去年、薪の購入を優先したこと。寝具を現物でいただけたおかげで、足りない分を補えたこと。私は帳面の数字を追いながら、どこで予定が変わり、何にいくら使ったかを話した。修繕を延ばした理由も、今また急いでいる理由も、省かなかった。


 図を出したところで、エルベ商会の主人が手を挙げた。


「排水溝だけ直しても、洗濯場の床へ水が残るのでは?」

「はい。そのため、床の勾配を直す工事も見積もりに含めています。こちらが現場を測った寸法です」


 図を指すと、主人は身を乗り出した。昨年の見積もりとの違いを説明し、日程が延びた場合の予備費についても答える。何度も帳面を開き直したけれど、急かす声はなかった。


「その金額を超えたら、どうしますか」

「工事の範囲を変更する前に、ご相談します。ほかの目的でいただいたお金を、こちらへ移すことはしません」


 主人が頷いた。後ろの席で椅子が鳴ったが、私は振り向かなかった。


「分かりました。修繕費は、当初申し出た額を支援します。振込先は療養院でよろしいですね」

「ありがとうございます。はい。院が直接お預かりし、完了後の報告は私からお送りします」


 次にヴァロワ夫人が手を挙げ、今年も寝具を用意したいと申し出てくださった。別の方が薪代の一部を、また別の方が残りを引き受ける。私はいただいたお申し出を一つずつ書き留め、最後に合計を確かめた。


 必要な額に届いていた。


 計算を間違えたのではないかと、もう一度足した。隣で確かめた院の会計係も頷いてくれる。私は紙から顔を上げ、皆様へ頭を下げた。


「これで、冬になる前に工事を始められます」


 拍手が聞こえた。お礼を言うために顔を上げると、ガスパール様がこちらを見ていた。父へ向けて挨拶を譲る必要はなかった。最後まで私が話し、聞いていただけた。


 会が終わると、父が院長のそばへ進み出た。


「娘がお役に立てたようで。これまで家で続けてきたことが、こうして実を結びましたな」


 私は帳面を閉じる手を止めた。父は、まだ客が残っていることを確かめるように周りを見る。


「今後の案内には、我が家を後援として入れていただければ。客との連絡も、屋敷へ通してくださって構いません」

「今回は、オデットさん個人と契約しております」


 院長は受付の案内を指した。


「ご支援は療養院が直接受け取り、ご報告もこちらから行います。伯爵家の主催でも後援でもありませんので、お名前を載せる予定はありません」


 父の笑顔が止まった。妹が隣へ来て、私の方を向く。


「お姉様からもお願いして。お父様のお名前があった方が、安心していただけるでしょう」


 私は、いま書き留めた支援の一覧を見た。誰も父の署名を求めなかった。説明を聞き、質問をし、私の返事を待ってくださった。


「今日、皆様が決めてくださったご支援に、お父様のお名前は必要ありませんでした」

「名前を出すくらい、構わないだろう」

「私が何もしていないとおっしゃったときは、名前を外されました。何もなさっていないお父様のお名前を、今度は載せるのですか」


 父は私を睨みかけ、周りに客がいることを思い出したように口元を緩めた。その笑い方が長く続かないのも、すぐに分かった。誰も話を取りなしてくれなかったからだ。


「ここで話すことでもない。家で相談しよう」

「私はもう、こちらで仕事をしています。家へ持ち帰って決めるお話ではありません」


 妹がヴァロワ夫人を呼んだ。姉を手伝えることがあれば、と言いかけたところで、夫人は院長へ向き直る。


「寝具の受け取りは、どなたへ連絡すればよいかしら」

「オデットが担当します」

「では、よろしくお願いします。前回と寸法が違うなら、先に教えてちょうだいね」


 私は頷き、手帳へ書き込んだ。妹の伸ばした手が、視界の端で下がる。誰も妹を責めてはいなかった。ただ、仕事の話を妹へ頼む人はいなかった。


 父はしばらく立っていたが、やがて妹に帰るぞと声をかけた。私が客を見送っているあいだに、二人は出口へ向かう。玄関の段差で妹が一度振り向いた。私は次の方の質問を聞いていて、以前のように駆け寄らなかった。


 最後の客が帰ると、院長がお茶を持ってきてくださった。私はようやく椅子に座り、帳面を膝へ置く。指を開くと、ずっと握っていたペンの跡が残っていた。


「次の報告会も、お願いします」


 契約には、その仕事も含まれている。それでも、改めて頼まれると嬉しかった。私ははいと答え、お茶を一口飲んだ。まだ温かいお茶を、会が終わってから座って飲めることにも、少し驚いた。


 ガスパール様が、片付けた図を運んできてくださった。


「分かりやすかったです。水路のところも」

「あそこは、何度も練習しました」

「聞いていて分かりました。質問されたとき、すぐ図を出していらしたので」


 私は頬が緩むのを止められなかった。父が聞きたがらなかった話を、最後まで聞いてくれた人がいる。あの人に褒めてもらえなかったことは、まだ悲しい。それでも今日の返事と拍手を、なかったことにはしたくなかった。


     *


 最初の報酬を受け取った日に、私は文具店で文鎮を買った。窓を開けても紙が飛ばない、青い硝子の重いものだ。付き合ってくださったガスパール様は、これで栗は引退ですか、と尋ねた。


「いいえ。手紙の箱に入れておきます」

「捨てても構いませんよ。元は拾った栗ですから」

「私が、取っておきたいのです」


 そう言うと、彼が黙った。店員から包みを受け取り、自分の財布から代金を払う。店を出ても、彼は少し耳を赤くしたままだった。


 川沿いへ出ると、焼き栗屋はもう店を畳んでいた。代わりに温かい飲み物を売る屋台が出ている。私は二人分を買い、彼に一つ渡した。


「お祝いをするつもりだったのに、買っていただいてしまいました」

「今日は私がお誘いしましたから」


 いつもの長椅子へ並んで座った。文鎮の包みを膝へ載せると、小さくてもずっしり重い。明日、これを自分の机へ置くところを思い浮かべた。


「お仕事を始めて、お忙しくなりましたね」

「はい。でも、休みの日は決まっています」


 彼がこちらを見た。私は飲み物の杯を両手で持ち、温かさを確かめる。


「これからも、お会いしたいです。仕事の用事がなくても」

「私もです」


 すぐに返事があって、嬉しかった。けれど、それだけでは足りないと思った。栗の話や、報告のついでの誘いに、いつまでも隠れていたくなかった。


「あなたが好きです。お手紙を読むときも、会える日を待つのも、楽しかった。今日も、仕事が決まっていなくても、お誘いしたかったと思います」


 彼が杯を長椅子の空いたところへ置いた。私も自分の杯を脇へ置くと、その手を取られる。


「私も、あなたが好きです。次は、恋人としてお誘いしてもいいでしょうか」


 頷くと、握られた手に少し力がこもった。彼の顔を見ていたくて、うまく次の言葉が出てこない。私が黙っているあいだも、彼は手を離さずに待っていてくれた。


「次の休みも、空いています」

「では、何をしましょう」


 私は橋の向こうへ目を向けた。文具店の隣に、小さな菓子屋があった。仕事帰りには閉まっていて、いつも窓の中だけを見ていた店だ。


「あのお店に、入ってみたいです」


 彼が笑って頷いた。私は包みを抱え直し、空いた方の手を、自分から差し出した。


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