第2章 第六話 まさか美月とミヅキが出会うなんて思ってもいなかったよ。境界を指す指先 ― 三人の冒険は、悪夢か希望か
振り返った先にいたのは――。
逆光の中なのに、輝くように見える赤い瞳。
「……ミヅキ」
見間違いじゃないかと、俺はじっとその、かまぼこ目の瞳を睨みつけた。
だけど、目の前の光景が不思議すぎて、頭の中が真っ白になる。
俺はただ、立ちすくむことしかできなかった。
ミヅキは片足で立って、もう片方の足を退屈そうにブラブラとさせている。
さっきの音は、彼女がわざと草を蹴って立てたものだったらしい。
「さっきからここにいたんだけど?」
ミヅキは口を尖らせ、明らかに不満そうな声を出す。
だけど、俺には彼女がどうして怒っているのか、さっぱりわからなかった。
「全然、気がつかないんだもん……」
もしかして、俺が必死に吸血草と戦って――
水を飲み、骸骨から装備を剥ぎ取っていた間。
彼女は、ずっとそこから黙って俺を眺めていたということだ。
視線の意味を測りかねて、沈黙が流れる。
……どうしたらいいのか、わからない。
このまま見つめ合っているのも気まずくて、俺は強引に話を変えることにした。
……今、思いついたこと。
「そうだ! ミヅキ、あのイノシシやウリ坊たちから逃げ出すことができたんだね。……本当によかったよ」
言葉にするとより安堵する。
だけど、俺の言葉を聞いたミヅキは、なんのことか忘れていたようだ。
「え? ああ……。突然、すごい音がしたと思ったら、リクがどこかへ飛んでいっちゃって……。それに驚いたのかな? 気づいたら、みんな森に逃げていくようにいなくなったのよ。だから……」
「……うん?」
「リクのことが気になって、飛んでいった方へ追いかけてきたのよ」
彼女はさらっと言ったけれど、それは簡単なことじゃなかったはずだ。
この荒廃した世界を、たった一人で、消えた俺を探して走ってきたということなのだから。
そして、一番の疑問が胸の中で膨らんでいく。
――ミヅキはなぜ、そこまでして俺を追いかけてきたんだ?
あの混乱の中で、消えた俺を必死に探して、ここまで追ってくる理由がわからない。
一度抱いた小さな疑問は、すぐに冷たい不安へと変わっていった。
もしかして、彼女には何か――
俺を利用するような「目的」があるんじゃないか。
そう思った瞬間、彼女の赤い瞳が、今までとは違う不気味な光を帯びているように見えた。
「…………」
ミヅキが無言のまま、ゆっくりと一歩、こちらへ足を踏み出す。
退屈そうにブラブラさせていた足が、今は獲物を追い詰める歩みに見える。
じりじりと、間合いを詰めてくる。
さっきまで「可愛い」と思っていたはずのその姿が、今は怖くてたまらない。
俺の心は、自分でも制御できないほどの恐怖に塗りつぶされていた。
そして――無意識に、一番やってはならないことをやってしまった。
「っ……!!」
ミヅキに背を向け、俺はがむしゃらに走り出した。
「もう! そっちは町があって見つけにくいんだから」
そんな、言葉が聞こえた気がした。
どこへ行くかなんて、当てはない。
ただ、あの赤い瞳から逃げ出したかった。
重い剣も、馴染んだはずの鎧も、今の俺にはただの重荷でしかない。
心臓が破けそうになるまで、俺はただ地を蹴った。
ゲームの世界であっても、限界は来るらしい。
足はフラフラで、肺が焼けるように熱い。
これ以上はもう一歩も走れない。
必死の思いで目の前の小さな丘を越えると、視界が急に開けた。
「……あれが」
ミヅキが言っていた通り、そこには町があった。
俺は、確かめるようにゆっくりと後ろを振り返った。
……よかった。
揺れる草むらも、深緑のマントも、どこにも見当たらない。
彼女を撒くことができたのだと、俺はその場にへなへなと座り込んだ。
また、喉が猛烈に渇いてきた。
町まで行けば、水くらいなんとかなる。
それだけを希望にした。
俺は重い足を引きずりながら、なんとか町の入り口へとたどり着いた。
……だけど、そこで俺の足は凍りついた。
もう一歩も、動けない。
疲れ果てたからじゃない。
町を囲む古びた柵に――。
間違いない、彼女だ。
ミヅキが、何事もなかったかのように寄りかかっていた。
俺は、もう逃げることさえできなかった。
恐怖で足が竦んだからじゃない。
彼女が手にしている、その「ありえないもの」に目を奪われたからだ。
日差しを反射してキラキラと輝く、透明なグラス。
その中には、なみなみと注がれた透明な液体が揺れている。
――水だ。
***
「……水」
ベッドに突っ伏したまま、俺はひどい喉の渇きを感じていた。
なぜだか、体の芯が乾ききっている。
重い体を起こし、傍らにいるはずの美月に「冷蔵庫から水を取ってほしい」と頼もうとした。
……だが、それは叶わなかった。
そこに、美月の姿はなかったからだ。
窓の外に広がる暗闇を見て、ようやく今はもう夜なのだと気づく。
俺は一人でベッドを抜け出し、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。
震える手でキャップを開け、中身を一気に流し込むようにして飲み干した。
一呼吸ついて、ようやく心が落ち着きを取り戻す。
ふと見ると、テーブルの上には鉛筆と共に、一枚の置き手紙が残されていた。
『明日退院みたいよ。丁度日曜だし、私も朝行くからね。 ―美月』
……いつの間に、そんな予定になっていたんだろう。
全く実感が湧かなかったが、水を飲んで人心地つくと、急に強烈な眠気が襲ってきた。
退院できるというのなら、それに越したことはないはずだ。
TVは点けっぱなしにし、コントローラーは握っておいた。
それしか、今はないと考えながら――
俺は重い瞼を閉じ、逃げるように意識を手放した。
目を覚ますと、そこには舵三先生と看護師さんがいた。
診察の結果は問題なく、「何かあったらまた来るんだよ」と笑顔で送り出された。
病院の玄関には、父さんと母さん、そして美月が迎えに来てくれていた。
手を振ってくれた看護師さんに別れを告げ、父さんの車に乗って家へと向かう。
窓の外を流れる景色を眺めているうちに、車はあっという間に我が家へ着いた。
「……ふぅ、やっぱり家がいいな」
自分の部屋に戻り、俺たちはふかふかのラグに腰を下ろした。
慣れ親しんだ感触に、隣り合ってベッドの側面に背中を預ける。
「ここ、私が片付けたのよ?」
少し高圧的な態度で美月が言った。
「あ、ありがとう」
感謝はしているが、今の俺はそれどころではなかった。
素早くゲーム機を手に取り、配線を繋いでいく。
父さんが新しいテレビを買っておいてくれたので感謝だ。
早く、画面をつけたいので急いだ。
……スイッチ、オン。
失くさないようにと、病院から服の中に忍ばせて持ってきたコントローラーを握りしめる。 新しいモニターが起動し、そこに「俺」の姿が映し出された瞬間――
俺はすべてを悟った。
同時に、今まで抱えていた不安や恐怖は、跡形もなく吹き飛んでいた。
画面の中の俺は、ミヅキの前に跪いていた。
そして、彼女が差し出すグラスから、与えられるままに水を飲んでいた。
喉を鳴らし、彼女に従うその姿は……
まるで、飼い慣らされたペットのようだった。
「ちょっと、何してるのよ!」
隣で画面を凝視していた美月が、悲鳴に近い声を上げた。
「あ、え? これゲームだよね? なんでリクが……リクのキャラがそこにいるの?」
彼女の困惑は当然だった。
ログインした直後、操作もしていない自キャラがNPCの前に跪き、隷属的な姿を晒しているのだから。
こうなることは、どこかで予想していた。
だけど、今の美月に説明したところで、到底理解はされないだろう。
この世界が単なるゲームではなく、”俺”がそこにもいるなんてことは。
それに……。
状況は大分違ってしまったけれど、俺はとにかく”俺”と出会いたかったんだ。
画面の中でミヅキを見上げる俺の瞳。
それを通して伝わってくる冷たい水の感覚と、ミヅキの支配的な視線。
俺は美月の問いかけに答えられないまま、画面を凝視し続けた。
画面の中で、俺はミヅキの前でゆっくりと立ち上がった。
あれほど恐ろしかったはずの彼女の赤い瞳。
なのに、今はなぜ怖かったのかさえ思い出せない。
突然の豹変に、ミヅキが驚いたように目を見開く。
「……あ、これなのね……」
彼女はそう呟くと、白く細い指で真っ直ぐに”俺”を指した。
その指先が示しているのは、俺じゃない。
指先を辿るようにして、俺もモニターの先にいる”俺”を見た。
「ミヅキも、見えるんだ……」
確信があった。
ミヅキは、一緒にいる俺ではない。
モニター越しに見る、部屋で座っている俺自身の存在をはっきりと認識している。
「……ちょっと、どういうことなの?」
隣でそれを見ている美月が、不安げな声を漏らした。
画面の中のミヅキが、自分たちを指さしている。
その異常な光景に、彼女も状況が呑み込めずにいるようだった。
……そう。
俺と同じだった。
「ねえ、リクが二人いるわ! 双子じゃないなんて、とても面白い!」
ミヅキが隣に立つ俺の顔を覗き込み、花が咲くような笑顔で言った。
この奇妙で歪な状況を、彼女だけは心から楽しんでいるようだった。
なぜ彼女には、俺が「二人」いることがわかるのか。
なぜ双子ではないと断言できるのか。
それ以前に、モニターの先にいる俺自身の姿が見えていることさえ、俺には理解できない。
俺は答えを求めて、疑うような目で彼女を睨みつけることしかできなかった。
するとミヅキは、俺の視線を受け止めて屈託なく笑う。
「あ、でも怖がらないで。私はね、匂いでわかるの」
匂い。
画面の向こう側にいるはずの俺の匂いが、彼女には届いている?
「もう驚かせたりしないから、一緒に旅をしましょ」
ミヅキは、事も無げにそう言った。
だが、俺の本音を言えば、今すぐにでも美月には家に帰って欲しかったし、ミヅキにはどこかへ消えて欲しかった。
現実の美月と、ゲームの中のミヅキ。
この二人を同時に相手にするなんて、今の俺には荷が重すぎる。
次々に押し寄せる異常事態に、俺の頭はもうオーバーヒート寸前だった。
だけど、ここで拒絶する勇気も、状況を打破する名案も持ち合わせていない。
とりあえず今は、ミヅキの言葉に乗っておくしかない――。
「……分かったよ」
搾り出すような俺の返事に、隣のミヅキが「決まりね!」と嬉しそうに声を上げた。
隣に座っている美月は何も言わなかったが、横顔から突き刺さるような痛い視線を感じる。
彼女が何を思っているのか、今の俺にはそれを確かめる余裕さえなかった。
俺の意思とは裏腹に、運命という名のコントローラーは勝手に動き出している。
これで、短かった一人のサバイバルは終わった。
けれど、その先に待っているのは、より過酷で――
よりきつい三人での冒険だという予感がしてたまらなかった。
――俺の指先は、無意識にコントローラーを動かしている。




