第2章 第五話 全てがおかしくなったゲームの中でサバイバルが始まった。ご飯を食べ水を飲む、装備を整えればそう、次はあれだね。
「おっとっと」
足がもつれ、吸血植物の鋭い棘に向かって倒れ込む寸前――
俺は、踏ん張った。
意識がどこか遠くへ飛んでいたような……
あるいは、別の世界を一瞬だけ覗いていたような、奇妙な感覚。
だけど、そんな思考も一瞬で霧散した。
今、この瞬間、俺にとってこの世の何よりも大事なのは――
目の前の『水』だ。
俺は、盾代わりにしていた革の鎧を迷わず放り出した。
両手を自由にし、針を射出しようとする腕のような茎を、ガシッと鷲掴みにする。
「キュゥゥ」
抵抗する力は意外なほど弱い。
俺が力を込めると、茎はあっけなく折れ曲がった。
驚いたことがある。
頭のの上にあったドクロマーク。
いつの間にか、目を回したような「バッテンマーク」に変わっていた。
「……簡単だったな」
強がりの言葉が、乾いた喉から掠れて漏れる。
俺はその場に膝をつくと、折れ曲がった蔓の先端を、震える手でそっと口元へ導いた。
――これがもし、水じゃなかったらどうしよう?
猛毒か、それともただの泥水か。
脳裏をよぎった一瞬の不安を、喉の渇きが力ずくでねじ伏せる。
覚悟を決め、口の中に滑り込んできた透明な雫を、一気に飲み干した。
「…………っ、はぁぁーー……」
全身の細胞が、歓喜の声を上げるのが分かった。
冷たくて、清らかで……。
水って、こんなに甘かったっけ?
胃の奥からじわりと熱が広がり、さっきまでの気分の悪さが嘘のように引いていく。
生き返る、という言葉の意味を、俺は今、人生で初めて理解した気がした。
「あーん……、ん?」
もっとだ。
もっと喉を潤したい。
渇望に任せて蔓を咥え、必死に吸い上げたが、もう一滴も出てこない。
振り回しても、手応えは虚しく消えていく。
目の前の植物は、俺が命を啜り尽くしたのか――
みるみるうちに張りを失い、黒ずんで地面へ倒れ込んでしまった。
立ち上がり、周囲を見渡す。
どこまでも、どこまでも続く、遮るもののない草原。
さっきまでは気にも留めなかった景色。
今は、元気になった自分を飲み込もうとする、巨大な胃袋のように思えた。
――誰か、いないのか。
そう願わずにはいられないほど、孤独が深く身に染みていた。
重い足取りで数歩、進んだ時のことだ。
生い茂る草むらの中に、不自然な塊が横たわっているのが見えた。
「え……? 大丈夫、ですか?」
なんのマークもないせいか、全く気付かなかった。
足元のそれは、立派な探検服に身を包んだ男性のように見えた。
俺はその肩に手をかけ、ぐいと体を揺すってみた。
――だが。
カラン、と。 乾いた音を立てた。
男の体から頭部が転げ落ち、草むらの中を転がっていった。
「うわっ……!?」
慌てて手を引く。
よく見れば、服の下にあるのは生身の肉体ではないようだ。
白く洗い出されたような本物の骸骨だった。
――その時だ。
静寂を切り裂いて、奇妙な音が響いた。
《ピロリン、ボーン……》
アイテム獲得のシステム音。
だがそれは、今まで聞き慣れていたゲームの音とは明らかに違っていた。
どこか音程がズレていて、不協和音とか言うやつが混じっている。
昔、父さんから貰ったカセットテープを思い出した。
「なんだ……今の音……」
どこから聞こえてきたのかも分からない。
まるで、この草原の空間そのものが鳴いたような、気味の悪い感覚だった。
「……はは、なんだよこれ」
思わず乾いた笑いが漏れた。
骸骨が身につけている装備の端々に、見覚えのある「緑色のマーク」が付いていく。
これは、システム上「俺の所有物」に書き換えられたのか?
……そうに間違いないようだった。
でも、おかしいだろ。
最初、俺は剣だって、鎧だって、いつの間にか装備していたものだ。
「……これ、自分でこの人から、脱がさないといけないのか?」
「壊れているよ……これ」
……落ち着いて考えれば、もう分かっていたことだ。
このゲーム世界は、いつの間にか、決定的なところで壊れている。
それでも、俺は、逃げない。
”俺”を、信じているからだ。
向こうの”俺”が消えてしまった可能性だって、頭をよぎった。
だけど――そんなはずはない。
俺なんだから。
”俺”が、消えるはずがない。
父さんがよく言っていた「自分を信じろ」って。
正直、意味はまだよくわからない。
だけど、その言葉を思い出すだけで、不思議と何も怖くなくなった。
俺は、骸骨から必要だと思ったものを剥がしていった。
まずは剣だ。
刃はボロボロで、今にも折れそうだけど、無いよりはマシだと思う。
次に必要だと思ったのは、革製の水筒だ。
期待を込めて蓋を開け、中身を確認する。
……水じゃない。
鼻をつくツンとした匂い。
嗅いだ瞬間に分かった。
これ、お酒だ。
でもこれは、飲んだことのないものだ。
咎めるお母さんもお父さんもいないものだから、ちょっとだけ、と飲んでみた。
「――っ、うわぁぁ……! まずいっ!!」
舌がピリピリして、焼けるような苦さが喉を通る。
父さんはこんなものを喜んで飲んでいる、信じられない。
俺は激しくむせながら、必死に袖で口を拭った。
あと、どうしても欲しいと思ったのは、模様のカッコいい革鎧だ。
だけど、見るからに大人用で、今の俺には大きすぎる。
無理だと知りつつも、期待を込めて上着の上から羽織ってみた。
――すると、どうだろう。
「あれ……?」
ガバガバだったはずの胴回りが――
まるであつらえたかのように、俺の体にぴったりと吸い付いていく。
というより、防具の方が勝手に大きさを変えたみたいだ。
「……さすがゲーム、こういうところは便利なんだな」
思わず感心してしまった。
だったら、このひどい味のお酒とか、ボロボロの剣も、いい感じに直してくれればいいのに。
世の中、そんなに甘くはないらしい。
俺はぴったり馴染んだ鎧の感触を確かめ、重い剣を握り直した。
それを待っていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。
「――ザザッ」
すぐ後ろの草むらから、はっきりと何かが歩く音がした。
誰だ?
驚いて振り返ろうとした俺の指先は、手に持った剣の柄を強く握りしめていた。




