第2章 第四話 美月には感謝しかない。でも、今の俺は空のコントローラーを握って笑うしかないんだ。先生、俺の狂気を『遊び』だと勘違いしてくれてありがとう
はっ、と目が覚めた。
腕に刺さる鈍い痛み。
視線を落とすと、そこには点滴のチューブが白い蛇のように這っていた。
意識を失って、どれだけの時間が経ったのだろう。
重い首を動かして周囲を見渡すが、静まり返った個室には誰もいない。
まだ世界が回っているような眩暈がする。
お腹の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような、気分の悪さ。
体の不調を治すためじゃない。
この絶望的な不快感を終わらせる方法は、もう一つしかない。
俺は上半身を起こすと、震える手を伸ばした。
――リモコン。
あの「扉」をもう一度開くための鍵を、俺は死に物狂いで探し求めた。
……あった。
さっきと同じ場所に置いてある。
もう、何も考えずに、モニターの電源を入れるスイッチをポミュっと押した。
……すごい。
まるで新緑の空気を浴びているような……
胸の奥まで、生命力が満ちてくる。
それは、視覚でもなければ、触覚でもない。
それでも、向こうの世界が、はっきりと感じ取れた。
考えてみれば、ただのTVだ。
ゲーム機も、なにも接続していない。
なのに、そこから世界が流れ込んでくる。
「……点けておかないと、元気じゃないなんて」
何だか愕然とする。
画面を消されるだけで意識を失うなんて。
リモコン一つに、命を握られているのに近い。
……いや、リモコンと言うより電源だよな。
「うぅん」
……どうしたらいいんだろう。
また、あのお姉さんが来たら?
夜だと明かりでもバレてしまいそうだし。
まさか「部屋の外だけで話してください」なんて言えないよな。
気になって、ベッドから抜け出した。
部屋の出入り戸を、気配を殺してわずかに開ける。
隙間から外の様子を伺うと――心臓が跳ねた。
廊下の少し先。
ナースステーションの近くで、先生とお姉さんが深刻そうな声で話し込んでいた。
「え、舵三先生……もう一度、言ってください」
お姉さんの困惑した声が響く。
だが、舵三と呼ばれた医師は、淡々とした口調で繰り返した。
「ですから、退院してもらって大丈夫ですよ」
「でも先生、あの倒れ方ですよ? このままでは帰ってもらうわけには……」
必死に食い下がるお姉さんを、先生はなだめるように制した。
「まあ、夜まで様子を見ていてください。いつも通りで構いませんから」
「……はい。それでは、そのようにします」
お姉さんが渋々承諾し、背を向けようとしたその時だ。
舵三先生が、思い出したように付け加えた。
「あ、そうそう。部屋のテレビは、点けたままでいいですからね」
「え、点けっぱなしでいいんですか?」
お姉さんが意外そうに聞き返す。
病院では、テレビの点けっぱなしは注意の対象になるのが普通だからだ。
だが、先生は穏やかに笑って肩をすくめた。
「ゲーム好きな子供なら、そんなものですよ。わざわざ目くじらを立てるようなことではありません。リラックスさせるのが一番ですから」
「……はあ、そういうものですか」
お姉さんはまだ納得がいかない様子だったが、医者にそう言われては引き下がるしかない。
――助かった。
戸の隙間からその会話を聞いていた俺は、胸の内で小さくガッツポーズをした。
あの先生が「ゲーム好き」と解釈してくれたおかげで、これで堂々とテレビを点けておける。
俺は足音を立てないようにベッドに戻り、ふと窓の外を眺めた。
ここは、田舎町から少し離れた丘の上。
木々に囲まれた二階建ての小さな病院は、静寂の中にひっそりと佇んでいる。
――こうして見ると、この場所自体、なんだかゲームの舞台みたいだな。
ぼんやりとそんなことを考えていた、その時だった。
窓の下、鮮やかな木漏れ日が揺れる中から、ふわりと美月が現れた。
最初、彼女は二階の窓から見下ろしている俺の視線には気づいていないようだった。
病院の入口に向かって、迷いのない足取りで歩いていく。
彼女がふと足を止めた。
導かれるように顔を上げた美月と、視線が重なる。
「……あ」
俺に気づいた彼女の顔が、ぱっと明るくなった。
美月は嬉しそうに、ちぎれんばかりに大きく手を振る。
そのまま軽やかな足取りで病院の中へと入っていった。
――あれは絶対、ゲームを持ってきてくれたはずだ。
ありがとう、美月さま!
一刻も早く、向こうがどうなったのかを知りたかった。
その俺にとって、彼女はまさに女神に見えた。
この感謝は、どれだけ言葉を尽くしても足りないくらいだ。
ベッドの中で待つと、ほどなくして、部屋のドアが勢いよく開いた。
「へへっ、約束通り持ってきてあげたよ」
部屋に入るなり、美月が弾けるような声を出した。
彼女は眩しい笑顔を浮かべる。
背負っていたリュックを「よいしょ」と手際よく取り出した。
ずっしりと重そうなその中身。
ものすごく、俺が待ち望んでいたものだ。
「破片に紛れて、綺麗にするの……。結構、大変だったんだからね」
そう言って彼女がまず差し出したのは、使い慣れた俺のゲームコントローラーだった。
だが、次に出てきたものを見て、俺は息が止まりそうになった。
「……え?」
それは、俺がいつも着ていた普段着だった。
ズボンに、上着、それに、下着の替えまで。
なぜ、そんなものまで。
俺は慌てた。
受け取った服を美月から見えないベッドの隅へと押し込んだ。
「……こんなのはいいから、ゲームは? 本体は持ってきてくれたんだろ?」
逸る気持ちを抑えきれず、俺は美月のリュックを覗き込むようにして聞いた。
だけど、美月は困ったように眉を下げて、短く答えた。
「……ないよ」
「え?」
世界が停止した。
聞き間違いかと思った。
だが、美月は笑顔のまま、言葉を続けた。
「片付けをしているときにね、結花ちゃんにも、和人さんにも聞いたの。リクの部屋にあったあのゲーム機、病院にあるような古いテレビには繋がらないよって。だから……持ってきてないわ」
母さんはともかく、機械に強い父さんが「できない」と言うなら、それは事実なんだろう。
「……あ、あぁぁぁ……っ!」
目の前が真っ暗になった。
俺は、糸が切れた人形のように、ベッドの上で「く」の字に折れて突っ伏した。
ちょうど、伸ばした腕の先には、コントローラーがあった。
そこに、美月が置いてくれたコントローラー。
両手でしっかり掴んだ。
「……く、くくっ……」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。
傍で見ている美月。
ゲーム機さえ繋がっていないコントローラーを握りしめて笑う俺。
頭がおかしくなってしまったように見えているだろう。
だけど。
――俺にだけは、見えているんだ。
いや、ただの想像かもしれない。
絶望が見せた、都合のいい幻覚かもしれない。
でも、いいんだ。
今の俺には、これしかない。
俺は固く目を閉じた。




