第2章 第三話 若いと聞こえるって知ってるよ。つまり、お姉さんは若いんだね。……なのに、どうしてそんな目で僕を見るの?
フォークで、くるっと麺をまとめる。
ソースの香りが鼻へと通り抜けた。
朝ごはんは焼きそばだ。
ニンジン、キャベツ、豚肉。
ちゃんと、残さず、みんな食べた。
噛むたびに、口の中で味がほどけていく。
青のりにさえ、はっきりとした香りがあるのを、初めて知った。
……あ。
なぜだか、涙がひと粒、こぼれ落ちた。
食べ終わった、その後。
「はーい、リク君。お熱を測るよ」
お姉さんが手際よく、体温計を脇に差し込む。
それと、何の薬だか忘れてたまま、二粒、口に入れられた。
ちょっと、苦い。
「今日の体調は、いいみたいだね」
言われてみれば、昨日までの泥のような体のだるさが、嘘みたいに消えている。
……それなら。
今日にでも、退院できるかな?
そう聞こうとした――そのときだった。
「あ、テレビが点けっぱなしなのね」
そう言って、お姉さんは、近くの棚に置いてあったリモコンを、ぷにゅっと押した。
――あ。
ピューンと、俺たちの扉が、閉じた気がした。
お姉さんは、テレビがついていたのが分かったのか――
それは、俺がわかるように。
だから、テレビが点いていたから消しただけ。
……でも早く、テレビをつけないと。
母さんに言うみたいに、「テレビを消さないで」と。
お姉さんに言おうとした。
だけど。
昨日のことがあるから、安易なことは言えない。
でも、だんだんと、調子が悪くなっていく気がしていた。
とにかく――
今は一刻も早く、看護師のお姉さんにこの部屋から出ていってほしかった。
だが、期待は最悪な形で裏切られた。
彼女が口にしたのは、今の俺が一番聞きたくない提案だった。
「今日は、天気がいいから。お庭にでも行きましょうか?」
「えぇぇ……」
思わず、不平の反応が口から漏れてしまった。
お姉さんの眉が、ぴくりと動く。
「なあに? 外に行きたくないの?」
うわ、まただ。
俺を見るその目は、おかしいんじゃないかと思っているようだ。
昨日はなんとか誤魔化したけれど、今日はどうすればいい?
そう、考えている内にお姉さんの声が遠くに聞こえた。
「リク君! リク君、聞こえる!?」
お姉さんの声が、まるで水底から響くように遠ざかっていく。
目をつむっても、頭の中が激しく揺れ、火花が散る。
そして、いつの間にか――
俺は、そのまま深い闇の底へと落ちていった。
***
さっき、自分の顔を目がけて飛んできたのは、一本の「針」だった。
地面に深く突き刺さったその棒を、俺は慎重に引き抜いて調べる。
驚くほど、軽い。
だが、先端は、ガラス細工みたいに鋭く研ぎ澄まされていた。
「……なんだ、これ」
指先で力を込めて、曲げようとすると。
パキッと、あっけなく折れた。
断面を、覗き込む。
中身は、何もない。
たしか、これは「中空」って言う構造だ。
理科か、何かで習ったやつ。
「……ふぅぅん」
軽くて、脆い。
けれど、この鋭さで放たれれば、皮膚なんて簡単に貫通するだろう。
こんなものが、もし、まともに体に刺さったら――
……でも、待て。
これって。
実験で見た、あれだ。
水風船に、細い針を刺すやつ。
これも、ストローみたいになるだろう。
俺の血が、ぴゅぅっと、飛び出してくるに違いない。
そう思ったら。
さっきまで、ただの「植物」だと思っていたのに――
血を啜る、吸血鬼の牙に見えてきた。
「……ごくり」
緊張のせいか。
それとも、限界に近い喉の渇きのせいか。
俺は、出るはずのない唾を、ひび割れた喉の奥へと、無理やり飲み込んだ。
「……盾が、欲しいな」
そう、簡単なことだ。
丈夫な盾さえあれば問題ない――
頭の中ではすでに勝っていた。
だけど。
視界にあるのは、見渡す限りの草、草、草……。
それでなければ、素手ではどうしようもない大木だ。
盾なんて、作れるはずがなかった。
「……いや。待てよ。あった」
自分の体に視線を落とす。
今、自分が着ているやつだ。
これなら、行けそうな気がする。
脱いでみると、そこには薄汚れた革の塊があった。
これは泥か、返り血か。
もう、何で汚れているのか判別もつかないほどに。
この鎧……汚れてはいるけど、傷はほとんどついていない。
まともに、攻撃を受けたことはないはず。
体を使って、逃げたり避けたりするのが楽しかったからだ。
「……なんとか、行けるはずだ」
勇気を振り絞る。
飛んでくる「針」だけに意識を研ぎ澄ませて、じりじりと距離を詰めた。
さっき、針が飛んできた射程距離まで足を踏み入れる。
だが、反応はない。
目の前には、ゆらりと風に揺られているだけの、ひょろりとした植物。
その頭上に浮かぶ、ドクロマークがあざ笑っているように見えた。
両手で掲げた革鎧は、想像以上にずっしりと重い。
腕がだんだんと下がり始めた、その隙を敵は見逃さなかった。
シュシュッ!
空気を切り裂く鋭い音が二つ。
針は確実に、俺の顔を狙って飛んできた。
ガチッ、という硬い衝撃が左手に伝わる。
一本は鎧に深く突き刺さった。
だが、もう一本は運良く革の端を掠め、パキンと折れて地面に弾け落ちた。
「……よし、やれる!」
恐怖よりも、確信が勝った。
あの針を飛ばす「腕」
……つまり、狙いを定めている茎そのものを押さえ込んでしまえばいいはず。
それで、もう攻撃はできないはずだ。
「うおおおっ!」
俺は乾いた喉で叫び、次の一射が来る前に、盾を構えたまま一気に走り寄った。
植物の茎をねじ伏せようと、手を伸ばす。
「やったぁ!」
ついに喉を潤せる――そう、勝利を確信したのが悪かったのだろうか。
指先が茎に触れる直前、世界が激しく、ぐにゃりと歪んだ。
「え……?」
立っていられないほどの猛烈な眩暈。
視界の中心が黒い点になり、周囲の景色を飲み込んでいく。
あと、少しだった。 あと数センチ、指を伸ばせば、あの水に届いたのに……。
――水分不足、なのか? それとも、この植物の、新しい罠……?
だが、それ以上はなにも考えられなかった。
思考はバラバラに砕け、俺の意識は、冷たい闇の向こう側へと飛んでいってしまった。




