第3章 第二話 違和感が芽吹いた第十一話: 恐怖を感じない理由はわからないまま、それでも「この俺のまま進む」と決めた瞬間。
「きゅう……っ、吸血鬼ぃ!?」
その叫びは、現実の六畳間と、抜けるような青空が広がる異世界の空に、同時に響き渡った。
俺は混乱し、視線を激しく往復させる。
現実の部屋では、美月の姿をした「それ」が、俺の至近距離でクスクスと喉を鳴らしている。
一方、ゲームの異世界。
「本当なんだってば! リク、信じてよ!」
本来なら顔が真っ赤になるほどだ。
必死に、形相を変えて叫ぶミヅキ――いや、美月。
すると、彼女の頭上に――「!」という真っ赤なビックリマーク。
鮮やかに浮かび上がった。
「え……?」
唐突なゲーム特有のエフェクト。
いや、考えてみれば、彼女もゲームの異世界の住人だ。
そう思うと、混乱はしたが、すぐに納得できた。
それよりも。
入れ替わってしまった美月のことが、心配でたまらなくなった。
俺は吸い寄せられるように手を伸ばす。
ミヅキの細く白い手をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫だよ、美月。俺がどうにかするから。……絶対に元に戻してやるから。でも、吸血鬼っていうのは……一体どういうことなんだ?」
「私……、体が入れ替わって驚いたの。でもそれとは違うの……。わかったの彼女のことが」
彼女は、なるべく落ち着こうとゆっくり喋る。
俺の目を見ているのはミヅキだ。
でも、その瞳の奥には、俺を頼りにしている美月の確かな視線を感じた。
「この体に入った瞬間……断片的だけど、視えたの。それはたくさんのグラスに入れられた赤い血。周りには顔のない大勢の人。それを美味しそうに飲む、彼女――だけど、でも、そのグラスが、どんどん消えていったの」
彼女は、あ……と、少し驚いたように言葉を切った。
何か、もっと深い絶望に触れたような、そんな顔だ。
「これはたぶん……放り出されたのね。家から……居場所そのものからだと思う」
美月の話を聞きながら、俺の背筋に冷たい汗が流れた。
グラスを捧げられていた彼女が、それを失い、居場所を追われた。
その話が、間違いないとすると、すごくかわいそうだと思う。
「そうやって、人の心を覗くのは止めなさい。人間がそんなことをすると頭がおかしくなるわ」
美月の姿をしたミヅキが、座り込む俺の隣にしゃがみ込む。
耳に吐息が掛かるほどの距離で話を続けた。
「あなた達は知らないようだけど、これはれっきとした魔法の扉なのよ」
……魔法。
そういえば、このゲームのキャラメイクで最初に選べた職業には『魔法使い』があった。
俺は戦士を選んだから――
魔法に関わる仕組みなんて、これっぽっちも理解していなかったけれど……。
「元に戻るから、ちゃんと見てなさい」
美月の顔からは、先ほどまでの自信は消えていた。
何かを迷っているような――
あるいは、ひどく疲れ切った子供のようにも見えた。
彼女は、モニターの中にいるミヅキに向けて、すっと白い人差し指を突き出したようだ。
何かを呟いている。
けれど、言葉はまるで聞き取れない。
……それは、柔らかく語りかけるような仕草だった。
それも、あっという間に聞こえなくなった。
次の瞬間、モニターの画面が部屋の中へ向かって、ぐにゃりと歪みながら飛んできた。
よく見れば、あの入れ替わりの時と同じだった。
水面の一点が指先に吸い寄せられるような。
だが、その頂点が俺たちに触れることはなかった。
一点に凝縮された歪みは、一瞬にしてモニターの中へと戻っていく。
いや、戻るだけじゃない。
今度は弾かれたような勢いで、ゲームの異世界。
ミヅキの立っている場所へと真っ直ぐに飛んでいった。
ミヅキの体に触れるか、触れないか。
そのギリギリの距離まで飛んだ歪みの点は、役目を終えたようにふっと消えた。
元の平らなモニターの表面へと戻った。
魔法のことは全くわからなかった。
だけど、二人の入れ替えが戻ったことはわかる。
それもただの感覚だけど……。
「……美月」
俺が名前を呼ぶと、美月は今にも泣き出しそうな、ひどく怯えた顔で俺を見返した。
その瞳には、さっきまでの冷徹なミヅキの影はない。
けれど、彼女は自分の肩を抱くようにして震えている。
「私……。私じゃなかったのかも……」
それだけ言うと、美月は俺を見つめたまま、思考が止まったように固まってしまった。
ミヅキの頭上にあった赤いビックリマークは消えている。
表情からは、美月の張り詰めた必死さも消えていた。
ミヅキは、少しだるそうに、さっきまで自分が入っていた美月の体――
現実の彼女を眺めていたが、やがてその視線を俺の方へと寄こした。
「驚かしたわごめんね。リクには言ってもわからないと思うけど――私も、こんな楽しい思いをしたのは、初めてなのよ」
どうする……?俺。
このゲームでは、初めてのことばかりだ。
けれど、今さらながら、自分の中に拭いきれない違和感がある。
なぜ俺は、この異世界に対して「不安」や「恐怖」を抱いていないんだ?
目の前で、人格が入れ替わるようなことが起きているのに。
美月は、あんなに震えて、怯えている。
それが「正常」な人間の反応のはずだ。
……きっと。
美月が正常で、俺の方が、どこかおかしい。
でも、わからないことを考えても、しょうがない。
美月には、帰ってもらう。
ミヅキとは、話せばわかる。
今はただそうやって進むしかない。
この「俺」という存在のまま。




