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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第一幕

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0009 - 月下の献煙

今話にて第一幕、終幕です。

後書きもご覧ください。



 鉄扉が乱暴に開き、夜気が倉庫になだれ込んだ。

 不規則な足音が遠ざかっていく。

 湿ったアスファルトを蹴る、切羽詰まった音だった。


 アルフェは、それを追わなかった。

 視線だけが、開いた扉の向こうを一瞬なぞり、すぐに床へ落ちる。月明かりに照らされた血溜まりは、まだ新しく、温度を残していた。


 次いで、倒れ伏した男の首元へと目を向ける。脈を確かめることはしない。確認という行為自体が、もはや無意味だった。


 靴音が、背後から近付く。

 振り返らずとも分かる足取りだった。スティンが、血溜まりを避けることもせず歩み寄ってくる。月明かりを背に、僅かに肩を竦めた。


「謀略者の名が泣くな。不調か、アルフェ」

「……いいや。あのガキ、オレの“因果干渉”を抜けやがった」


 口元を歪ませると、スティンは眉を僅かに動かした。

 靴底が血溜まりを踏み、粘ついた音を立てる。アルフェは男の横へ回り込み、屈んでナイフを拾い上げた。刃に残った血を一瞥し、胸ポケットから取り出したハンカチで、手慣れた動作のまま軽く拭っていく。


「奴には素質がある……鍛えれば、それなりにはなるかもしれねぇな」

「ああ。彼の異能は感情先読み。近接戦闘に向いている。私が鍛え上げれば、私と同程度か、あるいは……それ以上に化けるかもしれん」


 アルフェはナイフを鞘に収めると、低く鼻を鳴らした。

 指先で、左目の傷をなぞる。無意識の癖のような動きだった。


「拘束して拠点に連れて帰るぞ。処理班に連絡しておけ」


 振り返って、そう告げる。

 だが、スティンは返事をしなかった。

 視線は、なおも床に広がる血から離れない。


「スティン、どうした。なに呆けてやがる……」

「……お前は“免罪”の効果を知っているだろう。対象が“行為に対する罪悪”を感じたとき、それを肩代わりする……だが、何も落ちて来なかった」


 呼びかけに、スティンは僅かに間を置いてから口を開いた。

 アルフェの手が、一瞬だけ止まる。


「あぁ? なら、罪悪を感じてねぇのに逃げ出したってのか」

「そうなるな……善悪で行動を選んでいるわけでは、ないのだろう」


 言葉が落ち切ると、倉庫に沈黙が広がった。

 風の音すらない。鉄骨の軋みも、鎖の鳴りも、遠くへ退いたままだった。


 アルフェは、すぐには返さなかった。

 喉が、小さく鳴る。乾いた音だった。次いで、指先が顎へと伸びる。親指で顎の下を押さえ、人差し指を唇の脇に添えたまま、視線を上に向けた。


 天井の高窓。

 割れたガラスの隙間から、雲の切れ間が覗いている。


 月光が、そこから差し込んでいた。

 白く、鋭い光だった。床の血を照らし、死体の輪郭を浮かび上がらせ、二人の影を長く引き延ばす。影は歪み、重なり、やがて一つになる。


 アルフェの指が、顎の下で止まった。

 口元が、僅かに歪む。それは笑みと呼ぶには、角度が足りなかった。だが、確かに上がっていた。喉の奥で、何かが込み上げる。アルフェはそれを押さえる様子も見せず、ただ短く息を吐いた。


 次の瞬間、乾いた笑いが零れる。

 低く、短く、噛み殺すような笑いだった。倉庫の壁にぶつかり、すぐに砕けて消える。沈黙は、その音で引き裂かれた。


 スティンが、僅かに首を傾ける。

 問い掛けるでもなく、遮るでもない。ただ、反応として。


 アルフェは月光から視線を外し、再び床へと目を落とした。

 血。死体。そして、空いた場所。もう一人、居るはずだった痕跡。


 顎から手を離し、アルフェはゆっくりと息を吐いた。

 笑いの余韻だけが、口元に残っている。月光は、なおも倉庫を照らし続けていた。祝福には程遠く、呪いと呼ぶにも静かすぎる光だった。


「――スティン。奴のことは暫く放っておけ。ただし、監視は続けろ」

「それは、構わないが……」


 スティンは言葉を濁したまま、アルフェから視線を外した。

 その視線の先には、開いたままの鉄扉がある。夜気が流れ込み、血の匂いを薄く引き延ばしていた。


「我々が動かずとも、奴はいずれ、必ず会いに来る。それに――」


 アルフェは一度、言葉を切った。

 可能性の話を、口に出すか悩んだ。だが、切り捨てる。


「奴はオレとお前の願いを、叶えてくれる人間かもしれねぇ」

「なに? 宮原瑞希がか……?」

「あぁ、そうだ。離間者は不和を招く者――この意味、分かんだろ?」


 アルフェの言葉が、倉庫の空気に沈んだ。

 スティンは、呼吸を一拍挟む。それから、ほんの僅かに目を見開いた。

 驚愕というほど大きなものではない。だが、確かに想定外を受け取ったときの反応だった。


 月光が、その瞳の奥を照らす。

 深緑色の中で、何かが結び直されていくのが、はっきりと分かる。


 スティンは視線を逸らした。

 アルフェではなく、倉庫の入口――開いたままの鉄扉へ。


 そして、ゆっくりと息を吐いた。その吐息は、溜め息ではなかった。

 諦観とも違う。理解した者の呼吸だった。


 口元が、僅かに緩む。

 笑みと呼ぶには静かで、しかし否定しようのない曲線。そこには慈しみも、期待も、後悔もない。ただ、受け入れがあった。


「そうか……それは、楽しみだ。気長に、待つとしよう」


 アルフェは返事を返さなかった。

 代わりに、ジャケットの内ポケットへ手を伸ばす。煙草の箱を取り出し、一本を指で挟む。指先の動きは落ち着いていて、迷いがない。


 火は、すぐには点けなかった。

 煙草を唇に咥えたまま、視線だけを床に落とす。

 死体の脇。血の上に残った、乱れた足跡。その先で途切れている痕。


 アルフェはゆっくりと息を吸った。

 それから、ライターを鳴らす。火打石が鳴く音。小さな火が揺れ、煙草の先が赤く染まる。最初の一吸いは深かった。煙が肺に満ち、喉を通り、白く吐き出される。紫煙が月光を受け、淡く滲んで消えていった。


 スティンが、その様子を横目で見る。

 何も言わない。

 ただ、同じようにポケットから煙草を取り出した。


「シスマは、腹に包丁が刺さって死んだそうだ」


 唐突に、スティンが口を開く。

 アルフェは、視線を動かさない。


「……そうか。離間者らしく、内臓を引き裂かれて死んだか」


 アルフェは、煙草を親指で弾き、灰を落とした。

 死体の方を見やることはしない。スティンが、煙を吐いた。二人の吐息が重なり、月光の下で、一瞬だけ形を成す。


「次期離間者候補の誕生に、献煙」

「離間者シスマの死に、献煙」


 煙草を持った手を、額まで掲げ、目を伏せる。

 祈りとも祝詞ともつかないその響きは、倉庫の天井に吸い込まれていった。

 煙草が短くなっていく。紫煙は次第に薄れ、血の匂いが再び前に出る。


 スティンが、煙草を床に落とし、靴底で踏み消した。

 火が消える音が、小さく鳴る。


「……アルフェ。お前は、死ぬなよ」


 アルフェは、ほんの一瞬だけ手を止めた。

 煙草を咥えたまま、深緑色の瞳と視線が交錯する。視線を動かさない。それから、短く息を吐き、口端を吊り上げた。


「ハッ……死なねぇよ。スティン――お前が生きてる間はな」

 煙が、笑いと一緒に吐き出される。

 その笑いに、スティンが淡く微笑んだ。


 月光は、変わらず倉庫を照らしていた。

 血も、死体も、煙も、逃げた背中も。すべてを等しく映し出し、何一つとして裁かないまま――やがて、紫煙だけが消えていった。




※以下は、本編で確認された異能の挙動を、観測可能な範囲で整理したものである。その全容を保証するものではない。


■異能:免罪

相手が「罪悪を感じる行為」を選択しようとした瞬間、その行為に付随する罪悪感のみを切り離し、行使者が肩代わりする。対象者から罪が消えるわけではない。ただし、罪悪という感情が沈黙する。結果として、対象者は自らの行為を「悪」と認識しないまま選択することが可能になる。一方で行使者は、肩代わりした罪悪感を内部に蓄積する。それは即座に表出するとは限らず、いつ、どのような形で現れるかは一定しない。


■異能:因果干渉

相手が取り得る選択肢と、それぞれがもたらす未来の結果のみを、先行して認識させる。示されるのは「未来」だが、それが全体像である保証はない。会話・交渉・誘導の過程で、相手は複数の結末を“理解したつもり”になる。その中から、最も受け入れやすい結果を自ら選んだと錯覚したまま行動する。自由意思は奪われない。だが、選択の前提そのものが歪められる。


■補足

これらの異能は、善悪の判断を直接操作するものではない。

ただし、善悪が行動の指針として機能しなくなる瞬間を生み出す。

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