0008 - 肯定の刃
倉庫街は、音が死んでいた。
潮の香りが鼻腔を掠めた。東京湾が近いはずなのに、波の気配はしない。風も弱い。ただ、広い空間に無数の影が貼り付いているだけだった。
コンテナ。クレーン。使われていない照明塔。
どれもが役目を終えた顔で、夜に沈んでいる。
黒塗りのセダンが減速し、やがて完全に停止した。
エンジンが切られると、静けさが一段深くなる。
瑞希は、シートベルトを外すタイミングを失っていた。
身体が重い。恐怖ではない。緊張でもない。ただ、ここに来たことで、何かが確定してしまったような感覚があった。
ドアが開く音。
冷たい空気が、足元から這い上がってくる。
「降りろ」
スティンの声は短い。
瑞希は無言で頷き、車外に出た。アスファルトは湿っていた。遠くで金属が軋む音がする。風に煽られたコンテナの鎖が、低く鳴った。
スティンは倉庫の前で足を止め、無言のまま分厚い鉄扉に手を掛けた。
錆びて赤茶色に変色した蝶番が、低く唸るような音を立てる。扉の隙間から冷えた空気が流れ出した。その中に、微かに混じる匂い。煙草だ。
ついさっきまでスティンが吸っていたものと、同じ匂い。
乾いた葉の焦げる匂いが、倉庫の奥から漂ってくる。
スティンが一歩踏み出し、瑞希も後に続いた。
中に入った瞬間、視界が切り替わる。
天井は高く、照明は落ちていた。
壁の隙間や高窓から、月明かりだけが斜めに差し込んでいる。白く冷ややかな光が、床に長い影を落としていた。
その中央に――人がいた。
いや、人が横たわっていた。ガムテープで口を塞がれ、両手両足を拘束された男が、コンクリートの床に転がされている。必死に藻掻いた痕跡が、照らされた床の埃に残っていた。
その上に、腰を下ろすように座っている男がいる。
煙草を吸っていた。指先で火を挟み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。月光が、その輪郭をなぞった。銀髪。無造作に後ろに撫で付けられた髪が、月の光を反射して鈍く光っている。スティンと同じ黒色のスーツは皺一つなく、革靴は磨かれていた。倉庫という場所と、酷く不釣り合いだった。
顔立ちは酷く整っている。
だが、均整と言うより、刃物に近い。灰色の瞳が、月明かりを受けて冷たく光る。左目には、古い傷跡。塞がっているのに、消える気配のない線が残っていた。その背筋の凍るような眼差しが、瑞希を捉えた。
その瞬間だった。
瑞希の身体が、反射的に動いた。スティンの袖口を、強く掴む。無意識だった。考えるより先に、足が後ろへ引き、半身がスティンの影に隠れる。
倉庫の空気が、一段変わった。
「あぁ? ヤケに懐いてんじゃねぇか」
低く、荒れた声が響いた。
煙草を咥えたまま、男が目を細める。その言葉に、スティンが一瞬だけ目を瞬かせた。初めて見るような仕草。視線がゆっくりと瑞希に向く。
掴んでいたことに、そこで気付いた。
瑞希は、はっとして手を離す。
「あ、はは……すみません。怖くて……つい……」
乾いた笑いが喉から零れた。
愛想笑いだった。場を和らげるための、癖になった表情。
だが、それは逆効果だった。
男がゆっくりと腰を上げた。煙草を床に落とし、靴底で踏み潰す。コンクリートを叩く革靴の音が、やけに大きく響く。
月明かりの中を歩き、瑞希の前で止まる。
見下される。逃げ場はない。身体が、硬直する。
「おい、アルフェ」
スティンが、男の名を言って制止した直後。
顎を強く掴まれた。
「――ッ!」
指の力が強い。
痛みよりも、逃げられないという事実が、瑞希を縛る。顔の角度を変えられる。右、左、上。品定めするように、何度も。少しして、男――アルフェの目が絞られた。口元が歪み、鼻を通した乾いた笑いが零れる。
「ただのガキじゃねぇか」
顎を離されると同時に、胸を突き飛ばされた。
瑞希の身体が、よろけて一歩下がる。
「こんなガキに殺られるなんざ、シスマの奴も落ちたもんだな……」
「……え、?」
瑞希の喉が、ひくりと鳴った。
聞き返した声は、自分のものとは思えないほど間抜けだった。シスマ。その名前が、倉庫の冷えた空気の中で、異様な重さを持って残る。
「あの、それ……どういう、意味ですか」
言葉を選んだつもりだったが、声は僅かに震えていた。
アルフェは答えなかった。代わりに、視線だけを後方の床に落とす。
ガムテープで拘束された男が、そこにいる。
手足を縛られ、口を塞がれ、芋虫のように身を捩っていた。月明かりに照らされ、脂汗を浮かべた顔が、必死に何かを訴えようとしている。口を塞がれていても、その男の呻き声は鮮明だった。だが、その男の感情は読み取れない。
「君がその手で、殺した男のことだ」
淡々とした声が、横から落ちた。
スティンだった。続けて、アルフェが言葉を引き継ぐ。
「シスマは、オレ達組織の幹部だった。戦闘技術はねぇが、敵対組織の不和を招く、優秀な男だった……それが、お前如きに、ねぇ……」
灰色の瞳が、真っ直ぐに瑞希を射抜いた。
責める色はない。怒りもない。ただ、嘲りは含んでいた。
「君を呼んだのは、穴埋めのためだ。シスマを殺したということは、君にそれなりの“何か”があると思ったからな……」
スティンの説明に、アルフェは肩を竦める。
「――結果は、このザマだが」
嘲るような笑い。瑞希は何も言えなかった。
胸の奥で、何かが軋む。怒りとも、恐怖とも、羞恥ともつかない感覚。
メールを送ってきたときから、すべて仕組まれていた。
偶然じゃない。何もかも、計算されていた。
「――お、俺を殺す気ですか。あなたたちの、大事な仲間を殺したうえ……俺が何の役にも立たない、ただの子供だから……」
「さぁ、それはお前次第だ」
アルフェはそう言って、くるりと踵を返した。
床に転がる男の背を、靴先で軽く蹴る。
男が呻き、必死に身を捩る。だが、逃げようもない。
「条件を呑めたら、生かしてやる。仲間として招くのも、悪くねぇ」
「……条件、?」
月明かりが、アルフェの輪郭を鋭く切り取った。
口端が持ち上がり、その親指が転がった男に向けられる。
「簡単な話だ。コイツを殺れ」
思考が、一瞬止まった。
「……は?」
瑞希の口から零れた声は、空気に溶けて消えた。
アルフェは、肩を揺らして笑った。
「聞こえなかったか? コイツを殺せば、お前は殺さねぇって言ってんだ」
「そ、そんなの……俺は……」
「シスマを殺しておいて、今さら善人面されてもな……お前のその両手は、もう血で濡れてる……死んでも消えねぇ罪としてな」
言葉が、胸に突き刺さる。
反論しようとして、出来なかった。事実だったからだ。
アルフェは、言葉を畳み掛ける。
「コイツは、裏切り者だ。組織の情報を外部に流していた。生かしておけば、何人死ぬだろうなァ……だが今ここで殺せば、誰も死なねぇ」
一つ一つが、正しい。
理屈としては、完璧だった。
「お前が殺さねぇなら、オレが殺る。その場合、お前はどうなると思う?」
灰色の瞳と視線が交錯した刹那、頭に痛みが走った。
瑞希の脳裏に、鮮明な映像が浮かんでくる。理由は、分からない。だが、アルフェが異能を使ったのだと、瑞希は感覚で理解した。
――この倉庫から逃げ出した自分。
だが、その先にあるのは、追われる未来。
誰にも守られず、助けも求められず、ただ静かに、殺されるのを待つ存在。
「お前を肯定してほしいなら――選べ」
言葉が、低く落ちる。
いつの間にか目の前に立っていたアルフェが、瑞希に何かを握らせた。
視線を落とし、見る。銀色の、刃先――ナイフだった。
「ここで踏み込むか。あるいは、何も得ずに這い出るか」
「――ッ!」
瑞希の視界が、ぐらりと歪んだ。
痛みに頭を押さえ、身体がふらつく。
思考だけが澄んでいく感覚に、瑞希は微かな違和感を覚えた。
――こんなにも、考えるのが楽だっただろうか。
感情が――静かになっていく。
恐怖が、薄れる。嫌悪も、躊躇も、輪郭を失っていく。
アルフェの言葉が、理解として頭に落ちた。
――殺せば、先に進める。
――殺せば、意味が生まれる。
――殺せば、肯定して、くれる。
「宮原瑞希」
静かだった倉庫に、もう一つの声が落ちた。
スティンだった。振り向くと、深緑色の瞳が、真っ直ぐに瑞希を見ている。変わらず、感情は読めない。だが、その声だけは、酷く、心地良かった。
「私は、君を肯定する。君が――我々と共にあるかぎり」
それだけだった。
命令でも、脅しでもない。選択を肯定する言葉。
脳の奥が撫でられるような感触がした。
その瞬間、何かが、すとんと落ちた。
瑞希は、床に転がる男へと視線を移す。
暴れる身体。涙で濡れた目。必死に首を振る仕草。呻く悲痛な声。
人を殺すのも、目の前で人が死ぬのも、もう沢山だった。
そう思っていたはずなのに、胸の奥は、驚くほど静かだった。
ナイフは、思っていたよりも軽かった。
刃の重みではなく、柄の形が掌に馴染む。まるで、最初からこの手に収まることを想定していたようだった。
一歩、近付く。床に転がされた男が、喉の奥で掠れた音を立てた。必死に首を振り、涙で濡れた目を見開いて瑞希を見る。言葉にならない懇願。当然、声は出ない。ガムテープが、口を塞いでいる。
感情は、静かだった。
恐怖も、嫌悪も、同情も。
すべてが薄い膜の向こう側にある。
殺せば、先に進める。意味が生まれる。肯定される。
理解として、それは正しかった。
だから、腕が動いた。瑞希は、ナイフを逆手に持ち替えた。何処を狙えばいいのか、深く考える必要はなかった。視線が自然と、一点に定まる。喉元。皮膚の下を走る脈――生きている、証拠。
刃を充てがう。男の身体が跳ねた。
次の瞬間、抵抗があった。骨でも、硬い何かでもない。柔らかく、ぬるりとした感触。刃が沈み、皮膚を割り、内部に入り込む。
血が、噴き出した。
温かい。想像よりも、ずっと。
瑞希の指に絡み付き、掌を濡らす。
男の喉から、濁った音が溢れた。空気を掴むように、身体が痙攣する。
ナイフを引き抜く。それで終わるはずだった。
だが、身体は止まらなかった。
もう一度、突き立てる。深く、確実に。
床に、見覚えのある赤が広がった。
埃と混じり、月明かりを鈍く反射する。男の動きが、次第に弱々しくなる。やがて、完全に止まった。
――静かだ。
その、瞬間だった。
胸の奥で、何かが軋んだ。思考が、急激に重くなる。
輪郭を失っていた感情が、一斉に戻ってくる。
恐怖。嫌悪。理解できない現実――視界が揺れ、耳鳴りが走った。
「……ッ、俺は……何を……」
瑞希はナイフを取り落とした。
金属音が、倉庫に響く。足元を見る。倒れ伏した男。瞳孔の開いた目。動かない身体。喉元から溢れ続ける血。血で塗れた、温かな、手の感触。
理解が追い付いた。胃が、強く引き攣れた。呼吸が乱れ、喉が詰まる。
次の瞬間、吐き気が込み上げた。床に膝をつき、空嘔を繰り返す。何も出ない。ただ、身体が拒絶している。
手が、震え出した。
止まらない。力を入れても、指が言うことを聞かない。
周囲を見る余裕などなかった。
スティンも、アルフェも、視界に入らない。ただ、この場に居てはいけないという感覚だけが、強烈に頭を打った。
立ち上がろうとして、よろける。
血に濡れた床で足を滑らせ、床に転がる。
洋服から、まだ温かい血の感触が染み込んでくる。
「……ッ、嫌だ……」
声にならない声が零れる。
自分のものとは思えない。でも、逃げなければならない。理由は分からない。ただ、ここにいたら壊れる。そう、身体が判断した。
瑞希は、倉庫の出口へと走った。
視界が涙で滲む。息が切れる。背後の気配を感じる余裕はない。
鉄扉を押し開け、夜の空気に飛び出した。
冷たい潮風が頬を叩いた。
その感覚だけが、現実だった。
そのまま、走る。何処へ向かっているのかも分からない。何処に向かえばいいのかも分からない。ただ、遠ざかりたかった。
「なんで……俺はッ、人なんて、殺したくなんか……!」
背後で、倉庫が静まり返っていく。
月明かりの下に残されたのは血と、動かない身体と、選択の結果。
ただ――それだけだった。




