表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第一幕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/36

0008 - 肯定の刃



 倉庫街は、音が死んでいた。

 潮の香りが鼻腔を掠めた。東京湾が近いはずなのに、波の気配はしない。風も弱い。ただ、広い空間に無数の影が貼り付いているだけだった。


 コンテナ。クレーン。使われていない照明塔。

 どれもが役目を終えた顔で、夜に沈んでいる。


 黒塗りのセダンが減速し、やがて完全に停止した。

 エンジンが切られると、静けさが一段深くなる。


 瑞希は、シートベルトを外すタイミングを失っていた。

 身体が重い。恐怖ではない。緊張でもない。ただ、ここに来たことで、何かが確定してしまったような感覚があった。


 ドアが開く音。

 冷たい空気が、足元から這い上がってくる。


「降りろ」


 スティンの声は短い。

 瑞希は無言で頷き、車外に出た。アスファルトは湿っていた。遠くで金属が軋む音がする。風に煽られたコンテナの鎖が、低く鳴った。


 スティンは倉庫の前で足を止め、無言のまま分厚い鉄扉に手を掛けた。

 錆びて赤茶色に変色した蝶番が、低く唸るような音を立てる。扉の隙間から冷えた空気が流れ出した。その中に、微かに混じる匂い。煙草だ。


 ついさっきまでスティンが吸っていたものと、同じ匂い。

 乾いた葉の焦げる匂いが、倉庫の奥から漂ってくる。


 スティンが一歩踏み出し、瑞希も後に続いた。

 中に入った瞬間、視界が切り替わる。


 天井は高く、照明は落ちていた。

 壁の隙間や高窓から、月明かりだけが斜めに差し込んでいる。白く冷ややかな光が、床に長い影を落としていた。


 その中央に――人がいた。

 いや、人が横たわっていた。ガムテープで口を塞がれ、両手両足を拘束された男が、コンクリートの床に転がされている。必死に藻掻いた痕跡が、照らされた床の埃に残っていた。


 その上に、腰を下ろすように座っている男がいる。

 煙草を吸っていた。指先で火を挟み、ゆっくりと紫煙を吐き出す。月光が、その輪郭をなぞった。銀髪。無造作に後ろに撫で付けられた髪が、月の光を反射して鈍く光っている。スティンと同じ黒色のスーツは皺一つなく、革靴は磨かれていた。倉庫という場所と、酷く不釣り合いだった。


 顔立ちは酷く整っている。

 だが、均整と言うより、刃物に近い。灰色の瞳が、月明かりを受けて冷たく光る。左目には、古い傷跡。塞がっているのに、消える気配のない線が残っていた。その背筋の凍るような眼差しが、瑞希を捉えた。


 その瞬間だった。

 瑞希の身体が、反射的に動いた。スティンの袖口を、強く掴む。無意識だった。考えるより先に、足が後ろへ引き、半身がスティンの影に隠れる。


 倉庫の空気が、一段変わった。


「あぁ? ヤケに懐いてんじゃねぇか」


 低く、荒れた声が響いた。

 煙草を咥えたまま、男が目を細める。その言葉に、スティンが一瞬だけ目を瞬かせた。初めて見るような仕草。視線がゆっくりと瑞希に向く。


 掴んでいたことに、そこで気付いた。

 瑞希は、はっとして手を離す。


「あ、はは……すみません。怖くて……つい……」


 乾いた笑いが喉から零れた。

 愛想笑いだった。場を和らげるための、癖になった表情。


 だが、それは逆効果だった。

 男がゆっくりと腰を上げた。煙草を床に落とし、靴底で踏み潰す。コンクリートを叩く革靴の音が、やけに大きく響く。


 月明かりの中を歩き、瑞希の前で止まる。

 見下される。逃げ場はない。身体が、硬直する。


「おい、アルフェ」

 スティンが、男の名を言って制止した直後。

 顎を強く掴まれた。


「――ッ!」

 指の力が強い。

 痛みよりも、逃げられないという事実が、瑞希を縛る。顔の角度を変えられる。右、左、上。品定めするように、何度も。少しして、男――アルフェの目が絞られた。口元が歪み、鼻を通した乾いた笑いが零れる。


「ただのガキじゃねぇか」


 顎を離されると同時に、胸を突き飛ばされた。

 瑞希の身体が、よろけて一歩下がる。


「こんなガキに殺られるなんざ、シスマの奴も落ちたもんだな……」

「……え、?」


 瑞希の喉が、ひくりと鳴った。

 聞き返した声は、自分のものとは思えないほど間抜けだった。シスマ。その名前が、倉庫の冷えた空気の中で、異様な重さを持って残る。


「あの、それ……どういう、意味ですか」


 言葉を選んだつもりだったが、声は僅かに震えていた。

 アルフェは答えなかった。代わりに、視線だけを後方の床に落とす。


 ガムテープで拘束された男が、そこにいる。

 手足を縛られ、口を塞がれ、芋虫のように身を捩っていた。月明かりに照らされ、脂汗を浮かべた顔が、必死に何かを訴えようとしている。口を塞がれていても、その男の呻き声は鮮明だった。だが、その男の感情は読み取れない。


「君がその手で、殺した男のことだ」

 淡々とした声が、横から落ちた。

 スティンだった。続けて、アルフェが言葉を引き継ぐ。


「シスマは、オレ達組織の幹部だった。戦闘技術はねぇが、敵対組織の不和を招く、優秀な男だった……それが、お前如きに、ねぇ……」


 灰色の瞳が、真っ直ぐに瑞希を射抜いた。

 責める色はない。怒りもない。ただ、嘲りは含んでいた。


「君を呼んだのは、穴埋めのためだ。シスマを殺したということは、君にそれなりの“何か”があると思ったからな……」


 スティンの説明に、アルフェは肩を竦める。

「――結果は、このザマだが」


 嘲るような笑い。瑞希は何も言えなかった。

 胸の奥で、何かが軋む。怒りとも、恐怖とも、羞恥ともつかない感覚。


 メールを送ってきたときから、すべて仕組まれていた。

 偶然じゃない。何もかも、計算されていた。


「――お、俺を殺す気ですか。あなたたちの、大事な仲間を殺したうえ……俺が何の役にも立たない、ただの子供だから……」

「さぁ、それはお前次第だ」


 アルフェはそう言って、くるりと踵を返した。

 床に転がる男の背を、靴先で軽く蹴る。

 男が呻き、必死に身を捩る。だが、逃げようもない。


「条件を呑めたら、生かしてやる。仲間として招くのも、悪くねぇ」

「……条件、?」


 月明かりが、アルフェの輪郭を鋭く切り取った。

 口端が持ち上がり、その親指が転がった男に向けられる。


「簡単な話だ。コイツを殺れ」

 思考が、一瞬止まった。

「……は?」


 瑞希の口から零れた声は、空気に溶けて消えた。

 アルフェは、肩を揺らして笑った。


「聞こえなかったか? コイツを殺せば、お前は殺さねぇって言ってんだ」

「そ、そんなの……俺は……」

「シスマを殺しておいて、今さら善人面されてもな……お前のその両手は、もう血で濡れてる……死んでも消えねぇ罪としてな」


 言葉が、胸に突き刺さる。

 反論しようとして、出来なかった。事実だったからだ。

 アルフェは、言葉を畳み掛ける。


「コイツは、裏切り者だ。組織の情報を外部に流していた。生かしておけば、何人死ぬだろうなァ……だが今ここで殺せば、誰も死なねぇ」


 一つ一つが、正しい。

 理屈としては、完璧だった。


「お前が殺さねぇなら、オレが殺る。その場合、お前はどうなると思う?」


 灰色の瞳と視線が交錯した刹那、頭に痛みが走った。

 瑞希の脳裏に、鮮明な(・・・)映像が浮かんでくる。理由は、分からない。だが、アルフェが異能を使ったのだと、瑞希は感覚で理解した。


 ――この倉庫から逃げ出した自分。

 だが、その先にあるのは、追われる未来。

 誰にも守られず、助けも求められず、ただ静かに、殺されるのを待つ存在。


「お前を肯定(・・)してほしいなら――選べ」


 言葉が、低く落ちる。

 いつの間にか目の前に立っていたアルフェが、瑞希に何かを握らせた。

 視線を落とし、見る。銀色の、刃先――ナイフだった。


「ここで踏み込むか。あるいは、何も得ずに這い出るか」

「――ッ!」


 瑞希の視界が、ぐらりと歪んだ。

 痛みに頭を押さえ、身体がふらつく。


 思考だけが澄んでいく感覚に、瑞希は微かな違和感を覚えた。

 ――こんなにも、考えるのが楽だっただろうか。


 感情が――静かになっていく。

 恐怖が、薄れる。嫌悪も、躊躇も、輪郭を失っていく。

 アルフェの言葉が、理解として頭に落ちた。


 ――殺せば、先に進める。

 ――殺せば、意味が生まれる。

 ――殺せば、肯定して、くれる。


「宮原瑞希」

 静かだった倉庫に、もう一つの声が落ちた。

 スティンだった。振り向くと、深緑色の瞳が、真っ直ぐに瑞希を見ている。変わらず、感情は読めない。だが、その声だけは、酷く、心地良かった。


「私は、君を肯定する。君が――我々と共にあるかぎり」


 それだけだった。

 命令でも、脅しでもない。選択を肯定する言葉。

 脳の奥が撫でられるような感触がした。


 その瞬間、何かが、すとんと落ちた。

 瑞希は、床に転がる男へと視線を移す。

 暴れる身体。涙で濡れた目。必死に首を振る仕草。呻く悲痛な声。


 人を殺すのも、目の前で人が死ぬのも、もう沢山だった。

 そう思っていたはずなのに、胸の奥は、驚くほど静かだった。


 ナイフは、思っていたよりも軽かった。

 刃の重みではなく、柄の形が掌に馴染む。まるで、最初からこの手に収まることを想定していたようだった。


 一歩、近付く。床に転がされた男が、喉の奥で掠れた音を立てた。必死に首を振り、涙で濡れた目を見開いて瑞希を見る。言葉にならない懇願。当然、声は出ない。ガムテープが、口を塞いでいる。


 感情は、静かだった。

 恐怖も、嫌悪も、同情も。

 すべてが薄い膜の向こう側にある。


 殺せば、先に進める。意味が生まれる。肯定される。

 理解として、それは正しかった。


 だから、腕が動いた。瑞希は、ナイフを逆手に持ち替えた。何処を狙えばいいのか、深く考える必要はなかった。視線が自然と、一点に定まる。喉元。皮膚の下を走る脈――生きている、証拠。


 刃を充てがう。男の身体が跳ねた。

 次の瞬間、抵抗があった。骨でも、硬い何かでもない。柔らかく、ぬるりとした感触。刃が沈み、皮膚を割り、内部に入り込む。


 血が、噴き出した。

 温かい。想像よりも、ずっと。


 瑞希の指に絡み付き、掌を濡らす。

 男の喉から、濁った音が溢れた。空気を掴むように、身体が痙攣する。


 ナイフを引き抜く。それで終わるはずだった。

 だが、身体は止まらなかった。

 もう一度、突き立てる。深く、確実に。


 床に、見覚えのある赤が広がった。

 埃と混じり、月明かりを鈍く反射する。男の動きが、次第に弱々しくなる。やがて、完全に止まった。


 ――静かだ。


 その、瞬間だった。

 胸の奥で、何かが軋んだ。思考が、急激に重くなる。

 輪郭を失っていた感情が、一斉に戻ってくる。

 恐怖。嫌悪。理解できない現実――視界が揺れ、耳鳴りが走った。


「……ッ、俺は……何を……」


 瑞希はナイフを取り落とした。

 金属音が、倉庫に響く。足元を見る。倒れ伏した男。瞳孔の開いた目。動かない身体。喉元から溢れ続ける血。血で塗れた、温かな、手の感触。


 理解が追い付いた。胃が、強く引き攣れた。呼吸が乱れ、喉が詰まる。

 次の瞬間、吐き気が込み上げた。床に膝をつき、空嘔を繰り返す。何も出ない。ただ、身体が拒絶している。


 手が、震え出した。

 止まらない。力を入れても、指が言うことを聞かない。


 周囲を見る余裕などなかった。

 スティンも、アルフェも、視界に入らない。ただ、この場に居てはいけないという感覚だけが、強烈に頭を打った。


 立ち上がろうとして、よろける。

 血に濡れた床で足を滑らせ、床に転がる。

 洋服から、まだ温かい血の感触が染み込んでくる。


「……ッ、嫌だ……」


 声にならない声が零れる。

 自分のものとは思えない。でも、逃げなければならない。理由は分からない。ただ、ここにいたら壊れる。そう、身体が判断した。


 瑞希は、倉庫の出口へと走った。

 視界が涙で滲む。息が切れる。背後の気配を感じる余裕はない。

 鉄扉を押し開け、夜の空気に飛び出した。


 冷たい潮風が頬を叩いた。

 その感覚だけが、現実だった。


 そのまま、走る。何処へ向かっているのかも分からない。何処に向かえばいいのかも分からない。ただ、遠ざかりたかった。


「なんで……俺はッ、人なんて、殺したくなんか……!」


 背後で、倉庫が静まり返っていく。

 月明かりの下に残されたのは血と、動かない身体と、選択の結果。

 ただ――それだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ