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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第一幕

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0007 - 弔いの業火



 黒塗りのセダンは、夜の街を滑るように走っていた。

 エンジン音は低く抑えられ、車内に振動はほとんど伝わらない。まるで路面から浮いているみたいだ、と瑞希は思った。


 沈黙が続いている。

 だが、それは気まずさを孕んだ沈黙ではなかった。会話が存在しないことが最初から織り込み済みであるかのような、そんな静けさだった。


 車内には、相変わらず感情がない。

 スティンの感情だけではない。この空間そのものが、瑞希の異能を拒んでいるようだった。電車の中で浴び続けた、他人の焦燥や退屈、無関心の濁流が嘘みたいに消えている。


 代わりに、違和感がじわじわと積もっていた。

 瑞希は、横目を窓の外に向ける。交差点。コンビニ。街灯。数分前に見たものと、全く同じ並び。偶然だろうか。そう思おうとして、やめた。


 スティンの運転には無駄がない。

 ウィンカーや信号のタイミング、車線変更、そのすべてが計算されているように見える。そんな隙のない男が、何処かの目的地に向かう途中で、同じ道を何度も通るだろうか――瑞希は、喉の奥で言葉を転がした。


 聞いていいのか。

 聞いてしまって、いいのか。

 数秒の逡巡のあと、結局、口が動いた。


「あの、スティンさん」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

「……今、何処に向かっているんですか」


 スティンは、前を向いたまま答えた。

「横浜にある倉庫街だ」

「横浜の、倉庫街? ここ、まだ東京だと思うんですが……」

「ああ」


 無感情な返事に、会話が断ち切られる。

 補足も、説明もない。瑞希は言葉を失ったまま、再び窓の外を見る。横浜の倉庫街。その言葉が持つ重さも、妙な場所に連れて行かれる理由も、まだ正確には計れない。ただ一つ分かるのは、軽い場所ではないということだけだ。


 スティンが、ほんの一瞬――バックミラーに視線を走らせた。

 ほんの一瞬だ。だが、瑞希は見逃さなかった。


 スティンの目が、僅かに細められる。

 警戒でも、驚きでもない。確認だ。瑞希の胸が、嫌な音を立てた。


「……?」


 思わず、後部座席へ振り返る。夜の道路。ヘッドライトの列。その中に、一台だけ一定の距離を保ったまま着いてくる車があった。白いセダン車。その車体に派手さはない。だが、不自然に目に残る。


「……あれ、さっきも……」


 言葉にした瞬間、確信に変わる。

 同じ道を回っていた理由。スティンが説明しなかった理由。

 白いセダンが、ぴたりと距離を詰めた。運転席が見える位置。街灯に照らされた一瞬、瑞希はそれ(・・)を見た。無造作に握られた――拳銃。


「ッ……!?」

 肺に刹那的に空気が入り、息が詰まる。

「ス、スティンさん……後ろ! あの人、拳銃持ってます!」


 声が裏返るのを、抑えきれなかった。

 心臓が脈打ち、頭の奥で警鐘が鳴り響く。これは映画じゃない。現実だ。

 不安に駆られてスティンを見る。口元から短い溜息が漏れた。


「分かっている。だから、落ち着け」

「落ち着けって……! 何なんですか、あの人たち!」


 瑞希は思わず身を乗り出した。

 無意識に、スティンの袖口を掴む。視界の端で、白いセダンが僅かに左右へ揺れた。どう見ても、標的は瑞希とスティンが乗る車だった。


「さあ……我々を追う諜報員か、敵対組織の連中だとは思うが」


 掴まれた袖口に一瞥を置いて、スティンは淡々と答えた。

 理解が、追い付かなかった。言葉が、喉に引っ掛かる。


「まっ、待ってください。諜報員? 敵対組織って……」

「舌を噛む。黙っていろ」

「へっ――うわぁ!?」


 突然、車体が大きく横に逸れた。

 タイヤが路面を噛み、鋭い擦過音を立てる。次の瞬間、黒塗りのセダンは、速度を一気に上げた。街灯が線になる。信号を掠め、交差点を強引に抜ける。瑞希の視界が揺れる。胃が浮き、息が詰まった。


 背後で、クラクションと急ブレーキの音。

 だが白いセダンは、離れない。


「どっ、どうするつもりですか!?」

「排除する。車体諸共な」

「――は? あの人たちを殺す気ですか!?」


 口から出た声は、震えていた。

 瑞希自身が人を殺すのも、目の前で人が死ぬのも、もう沢山だった。

 悲痛な叫びを聞いても、スティンは僅かに眉を動かすだけだった。


「君の異能は感情先読みだろう――感覚を研ぎ澄ませろ」


 言われて、はたと我に返る。

 後方へ振り返り、白いセダンに意識を向ける。すると、追手の感情が、頭に染みるように流れ込んできた。


 冷静。焦りはない。躊躇もない。

 あるのは、ただ、確かな殺意。


 瑞希はその純粋な感情に、身震いした。

 両腕を胸に抱え込み、身体の震えを抑え込もうとする。だが、身体が言うことを聞かない。丸まった背中に、棘のように突き刺さる。


「さっ、殺気が……意思のある、明確な殺意を感じます」

「そうだ。殺意には、殺意で応じる。それが、私の礼儀だ」


 スティンが、ペダルを一段踏み込んだ。

 黒塗りのセダンは、夜の街を切り裂くように走り続ける。スティンの横顔を見ても、相変わらず感情は読み取れなかった。


「でも……それでも、人を殺すのは……」

「君が、それを言うのか? 君と私に、一体何の違いがある」


 瑞希は汗が滲んだ指先で、シートベルトを強く掴んだ。

 否定したいのに、言葉が浮かばない。瑞希は殺意を向けられ、結果殺した。スティンも、殺意を向けられたから殺すと言う。確かにその二つの行為に明確な差異はない。だが、違うと言えない自分が、何よりも恐ろしかった。


 フロントガラス越しに、赤信号が見えた。

 交差点に差し掛かる。ブレーキを踏む気配はない。黒塗りのセダンは、そのまま速度を落とさず、右へとハンドルを切った。対向車のクラクションが鋭く鳴り響き、視界の端で光が弾ける。強引な右折。身体が横に勢い良く振られ、窓に激突する。内蔵が、遅れて追い付いてくる。


 次の瞬間、大通りに出た。

 片側二車線。街灯に照らされたアスファルト。その両脇には、路上駐車の車が数珠繋ぎになっている。隙間のない鉄の壁。その横を、黒塗りのセダンは猛スピードで駆け抜けた。


 サイドミラーが擦れそうな距離。

 風圧が車体を押し叩き、空気が唸る。


 その刹那だった。スティンが、迷いなくハンドルを切った。車体が大きな弧を描く。タイヤが悲鳴を上げ、遠心力が身体を押し付ける。瑞希が目を瞬いた数秒の間に、路上駐車の列の中、一台分だけ空いていた、あり得ないほど狭い隙間に、セダンが滑り込んでいた。


 完璧だった。

 減速も、衝撃も、余計な振動もない。

 ただ、そこに収まった。


 瑞希は、息をするのを忘れていた。

 目の前で起きたことが、運転技術なのか、最初から計算された動作なのか、判断がつかない。硬直していると、横合いから無骨な手が伸びてきた。強く頭を押さえつけられる。視界が一気に下がり、混乱する。


「伏せていろ」


 スティンの冷静な声に、横目を窓の外へ向けた。

 白い車体が、視界の端を掠めてゆっくりと通り過ぎた。白いセダン。瑞希とスティンを追ってきた車。居なくなった標的を探しているようだった。


 窓枠の下で、何かが動く音がした。

 僅かな振動とともに、スティン側の窓が下がっていく。次いで、金属と布が擦れる、乾いた音。瑞希は、音がした方向に恐る恐る目を向けた。


 拳銃だった。

 動きに無駄がない。引き抜かれた瞬間には、既に先端にサイレンサーが装着されている。黒い筒が、開け放たれた窓の外へ顔を出す。


 スティンは、標的を見ていなかった。

 右腕を胸の前に回し、目線はバックミラーを捉えていた。追い越していくセダンの位置を、鏡越しに把握している。


 そして、乾いた音が二度。

 弾けるような発砲音。次の瞬間には、後方で爆発が起きた。


 衝撃波が、空気を叩く。

 車体が揺れ、熱が一気に押し寄せた。

 瑞希は反射的に頭を上げ、勢い良く振り返る。


 燃えていた。白いセダンが、炎に包まれて停車している。黒煙が立ち上り、夜空を僅かに歪ませる。距離はある。それでも、頬に熱を感じた。饐えたような焦げのある匂いが、遅れて鼻腔を刺してくる。


 スティンは、何事もなかったように拳銃からサイレンサーを取り外した。

 胸ポケットに銃口を仕舞う動作は静かで、淡々としている。


 ギアを入れ替えると、スティンは再びアクセルを踏んだ。

 黒塗りのセダンが空間から切り離され、夜の街を滑っていく。


 すべてを呑み込むような業火は、ゆっくりと遠ざかっていった。

 燃え盛る光が、バックミラーの中で小さくなっていく。


 瑞希は言葉を失ったまま、その光を見つめていた。

 躊躇がなかった。確認も、逡巡も、迷いもない。殺意に殺意で応じる。それを行為として選び、即座に実行できる人間。


 恐ろしい。間違いなく、恐ろしい。

 それなのに、瑞希はスティンを、完全な悪だとは思えなかった。理由は分からない。ただ、そう感じてしまった。


 だが、それでも、肯定できない。人を、こんなにもあっさりと殺したという事実だけは、瑞希にはどうしても、肯定できなかった。


 運転席に座るスティンの横顔が、視界に入った。

 その深緑色の瞳は、何処か遠くを見ていた。感情は読めない――だが、それでも分かる。これは、冷酷さじゃない。


 儚かった。

 まるで、弔いをしているかのような表情だった。


 躊躇なく、人を殺した直後だというのに。

 その横顔は、酷く、悲しげだった。

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