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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第一幕

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0005 - 接触



 電車の揺れが、一定のリズムで身体を叩いていた。

 瑞希は、吊り革を掴んだまま、スマートフォンの画面を見下ろしている。


 =====

 東京駅で会おう。皇居側の出口だ。

 黒髪ロング、黒スーツ。すぐに分かるはずだ。

 =====


 変わらず、件名のないメール。

 短い文面。無駄な感情のない言葉遣い。それだけだった。


 了解の一言を返すかどうかで、数分迷った。

 結局、瑞希は一言だけ返信をした。メールでのやり取りだったため、既読なんていう機能はない。十分な意思表示をする必要があった。


 電車内は混んでいた。

 日曜日の昼間。通勤ラッシュには程遠いが、人はいる。多すぎる。瑞希は目を閉じなかった。閉じたところで、意味がないと分かっていたからだ。


 頭の奥に、他人の感情が流れ込んでくる。

 焦り。苛立ち。退屈。眠気。無関心。

 一つ一つは薄い。だが、重なった瞬間に、輪郭を持ち始める。


 向かいに立つ男は、上司の顔を思い浮かべていた。スマートフォンを操作する女性は、恋人の返信を待っている。座席に座る老人は、降りる駅を間違えないかを気にしていた。分かる。分かって、しまう。


「……っ、はぁ」


 瑞希は、頭を掻き小さく息を吐いた。

 情報量が多すぎる。自分の意思とは関係なく、頭に流れ込んでくる。元々、人の顔色や声色、仕草で、その人間が何を考えているのか――察することには慣れていた。だが、これは違う。推測ではない。確信に近い。


 電車が駅に滑り込むたび、感情が入れ替わる。

 まるで、他人の頭の中を通過しているみたいだった。


 疲労が、遅れでやってくる。

 理由のない倦怠感。集中力の低下。額の奥が、じんわりと重い。


「……これが、変質……なのか?」


 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

 答えは当然、返ってこない。


 やがて、東京駅のアナウンスが流れた。

 瑞希は、降車する人の流れに身を任せ、ホームに足を下ろす。空気が変わった。広い。音が反響している。感情も、薄く拡散する。


 構内を抜け、案内表示に従って歩く。

 皇居方面。通用口。人影は減っていく。


 階段を上り、外に出た瞬間、涼しげな風が頬を撫でた。

 曇り空。湿った空気。都会の、下水混じりの匂い。ロータリーには、黒塗りのセダン車が一台停まっているだけだった。他に、人はいない。


「……いないな。黒髪ロングに黒スーツ……」


 それらしい人物は見当たらない。

 瑞希は、無意識に周囲の感情を探ろうとして、やめた。ここには、ほとんど何もない。あるのは、静けさと、待っているという空気だけだ。


 そのとき、セダンの運転席側のドアが、静かに開いた。

 降りてきたのは、男だった。長い濡鴉色の髪を後ろでハーフアップに纏め、毛先を肩口に流している。喪服のような黒いスーツ。無駄のない体躯。彫りの深い顔立ちは、日本人離れして見えた。サングラスが取られ、その深緑色の瞳が、瑞希をぱちりと捉えた。光のない、冷たい目だった。


「宮原瑞希、だな」


 名前を呼ばれて、瑞希の背筋が僅かに強張った。

 名前は教えていない。何故知っているのだろうか。


 男は、緩やかな足取りで歩み寄ってくる。

 足音は、やけに静かだった。


「初めまして、と言うべきかな」

 低い声が、頭上から落ちてくる。抑揚が少ない。

 右手を差し出した男の手を、躊躇いがちに握り返す。


「メールの、方ですよね。掲示板の」

「ああ、そうだ」


 男は、軽く頷いた。

 傷だらけの無骨な手が、離される。


「私はスティン。君が掲示板で話していた、こちら側の人間だ」


 深緑色の瞳と視線が交錯する。

 そこで、ようやく気付いた。この男からは、感情が流れ込んで来ない。感情も読み取れない。静かで、落ち着いていて、癒されるようだった。


 スティンは視線を逸らし、セダンを親指で示した。

「立ち話もなんだ。疲れているだろう。乗れ」


 男はまるで、最初から分かっていたかのように言った。

 瑞希は、返事をしなかった。代わりに、一歩前に出た。選択を、肯定してほしかった。だから、ここに来た。その事実が、重く胸に落ちてくる。


 瑞希の足が、セダンの影に踏み込んだ瞬間、外の音が一段遠のいた。

 ロータリーの静けさ。風の気配。東京駅のざわめき。それらが、薄い膜一枚隔てた向こう側へと、退いていく。


 ドアが開く音は、思ったよりも小さい。

 閉じる音は、更に小さかった。


 車内は静かで、妙に落ち着いていた。

 外界と切り離された箱の中。逃げ場はないが、感情の流れもここにはない。重苦しさも、不安も、少しだけ鈍る。


 スティンは何も言わず、運転席に戻った。

 エンジンが掛かる。低く、抑えた音。瑞希は、窓の外を見た。東京駅の輪郭が、ゆっくりと後退していく。


 この選択が正しかったかどうかは、まだ分からない。

 だが、戻る理由も、もう見当たらなかった。


 黒塗りのセダンは、静かに走り出す。

 そのまま、街の流れに溶け込んでいった。


 ――次に開くのが、救いの扉か、処刑台か。

 それを知るのは、もう少し先の話だ。

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