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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第四幕

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0035 - シスマの仇



 東京の夜は、駿河よりも乾いていた。

 高速を降りた車が、無言のまま都心へ滑り込む。ビル群の窓に灯る無数の光が、フロントガラスを流れていく。赤信号で止まることもなく、青の連なりだけを選び抜くように、スティンはハンドルを切った。その拍子に、運転席の紫煙が流れる。


 東京の夜は、駿河の夕焼けとは違う。

 感傷を許さない、冷ややかな光。


 瑞希は助手席で、窓の外を見ていた。

 反射した自分の顔が、夜景に重なる。

 左耳の銀が、信号機の色を受けて一瞬だけ青く光る。


 やがて車は、大通りから外れた。

 人通りの少ない裏路地へ入る。街灯は等間隔に立っているが、光は弱い。看板もない。無機質な建物の前で減速する。シャッターのような鉄製のゲートが静かに持ち上がった。整備員はおらず、確認もない。それでも、車は迷いなく中へ滑っていく。


 傾斜のついたスロープを、ゆっくりと下っていく。

 タイヤがコンクリートを踏む音が、閉じた空間に反響する。外気の匂いが消え、油と埃の匂いに変わる。照明は白く、冷たい。天井は低い。圧迫感が胸に降りてくる。


 瑞希は無意識にシートの縁を握った。そして下る。更に、下る。

 やがて広い空間に出た。地下駐車場。車は減速し、区画のひとつへ滑り込む。周囲には既に数台の車が停車している。どれも、黒か濃紺。東京でよく見るような車種。ナンバーは統一されていない。だが、何処か統制された匂いがある。


 エンジン音が止まり、一瞬だけ沈黙が流れる。

 冷却ファンの回転が、僅かに余韻を残す。やがて、それも消えた。


 瑞希は、はじめて前を見た。フロントガラスの向こうには、コンクリートの壁。駐車スペースの番号だけが無機質に白を持ち、佇んでいる。逃げ場のない数字。


「降りろ」


 そう言って、スティンがキーを引き抜く。

 短い命令。その声には、駿河で見せた柔らかさはない。


 瑞希は無言で頷き、ドアを開ける。駿河を漂っていた、澄んだ潮の匂いは消え、代わりに排気と下水、コンクリートの熱が鼻腔を満たしていく。駐車場に漂う空気は冷たいが、海のような優しさもない。ただ、容赦なく頬を撫でるだけだった。


 スティンはドアを閉め、鍵を締めた。

 スーツを靡かせ、迷いなく歩き出す。瑞希も、その後を追う。


 駐車区画の奥、壁と同化するように設置された金属扉。

 そこでスティンは立ち止まった。無骨なテンキーも、カードリーダーもない。ただの、灰色の扉。だが、近付いた瞬間、天井の隅に埋め込まれたレンズが動き、微かに赤く点滅した。数秒。無音のまま、施錠が外れる。重い扉が、内側へ開いた。


 中は短い通路だった。蛍光灯の白が、均一に壁を塗り潰している。スティンと瑞希の、歩幅の違う足音が響く。出口は正面一基のエレベーターだけだった。ボタンは一つ。上りではなく、下りのみ。スティンが押し、程なくして扉が開く。中は意外なほど広い。鏡も装飾もない、ただの鉄の箱。階数表示はあるが、数字は一般的な地下階数ではなかった。暗号めいた記号に近い表示が規則的に並んでいる。


 スティンは最下段のボタンを押した。

 扉が閉まり、僅かな振動とともに下降を始めた。瑞希は、表示灯を見つめる。読めない記号が一つ、また一つと消えていく。耳が僅かに詰まる。身体が沈む感覚。自分が何処へ運ばれているのか、理解を通り越し、結果として見つめつつも、まだ受け入れられていない感覚が、瑞希の胸の奥に残っていた。


「怖いか」

「いえ。別に」


 即答だった。

 スティンは、それ以上言葉を重ねない。


 やがて、振動が止まる。扉が視界を切り開いていく。

 その刹那――空気が変わった。都会特有の下水の臭いも、駐車場の油臭さもない。低く流れる音楽。グラスが触れ合う乾いた音。笑い声。視界が、光に染まる。


 そこはラウンジのような場所だった。天井は高い。間接照明が柔らかく壁を照らし、深い色のソファがゆったりと配置されている。中央には円形のテーブル。奥にはバーカウンター。ボトルが整然と並び、琥珀色が明かりを受けて鈍く光る。


 数人の男女が談笑していた。誰もスーツを着崩していない。

 だが、全員が武装していると直観できる気配がある。

 視線が向けられた瞬間――立ち上がり、スティンに向けて頭を垂れた。


 畏怖。信心。好奇心。そのどれもが、混ざっている。

 前よりも感情が機敏に感じられる。他者も、そして自分も。

 その能力の卓越は、死体によって成形されている。そこには、肆已もいる。


 瑞希は一歩、足を踏み出した。

 ここは施設でもなければ、異能対策管理局でもない。血で繋がった家族がいるわけでもなく、善性を持った理念で結束した組織でもない。もっと曖昧で、もっと危うい場所。


 ラウンジの奥、背もたれに寄りかかっていた女が、ゆっくりと立ち上がった。

 長いブロンドの髪が揺れ、肩を滑る。真紅の口元が弧を描き、それに合わせて青色の瞳が細められた。背は平均的な身長。体格は細身。その歩み寄る身体に、隙はない。太腿に巻かれたホルスター。そこに仕舞われた拳銃の柄が、鈍く存在を主張する。


「スティン。その子、誰? 施設上がりの子?」


 ラウンジの空気が僅かに引き締まる。

 ヒールの音が止まり、視線が瑞希を値踏みするように上下する。血の跡が薄く残るネクタイ。包帯の下の肩。そして、左耳の銀。一秒で、測り終える。


「いいや……レノ、紹介しよう」

 そう言い、スティンは瑞希の肩に手を置いた。


「彼は宮原瑞希……我々の家族になる人間だ」


 静寂が落ちる。ジャズの音が、急に遠く感じられる。

 ブロンドの女――レノの瞬きが止まった。次の瞬間、瞳孔が開かれる。


「冗談でしょ」

 声が低くなる。右手が、太腿に滑る。


「宮原瑞希は、シスマを殺した男……私たちの家族を、殺した人間でしょ」


 レノの指が、迷いなく拳銃のグリップを掴んだ。

 抜く動作に躊躇はない。滑らかで、扱い慣れている。ラウンジの数人が、ほぼ同時に姿勢を変えた。ソファに沈んでいた身体が起き上がり、グラスが軽い音を立てる。


 空気が、音を失った。だが、瑞希は動かなかった。

 レノの感情は、何も感じない。だが、瑞希には分かる。“家族”を失ったことへの怒り。喪失。憎悪。それらが単純な線ではなく、層としてあることを。瑞希も、家族を失った。そして、家族とさえ思っていた肆已を失った。分からないはずがない。


 胸の奥が鈍く軋む。“家族”――その言葉が、レノの中で、どれほど重いか。

 その重みに押されるように、カチリと撃鉄が持ち上げられた。


「家族になる、ね……冗談にしては、趣味が悪いんじゃない?」


 レノの声は低い。だが、震えてはいない。

 怒鳴らない。怒鳴る必要がないと判断された声。


 銃口が、瑞希の胸元へ向けられる。

 距離は三メートルもない。撃てば、確実に当たる。

 スティンは、瑞希の肩から手を離さなかった。


「気持ちは分かる。だが、彼は必要だ」

「必要? 私たちに?」


 鼻を鳴らしたレノの問いは、刃だった。

 スティンは答えない。答えられない。

 その沈黙が、銃声よりも不穏に広がる。


「……説明して。シスマの仇を、家族に迎え入れる……その理由をね」


 レノの指が引き金にかかる。

 その瞬間、瑞希の胸の奥で何かが一段、冷える。


 恐怖ではない。理解でもない。

 ただ、結果だけが先に立ち上がる。


 ラウンジのジャズが、遠のいた。

 グラスを置く音も、呼吸も、布擦れも、全部が薄い膜の向こうに押しやられていく。残るのは、銃口の黒と、そこに繋がる一本の線だけだった。


 スティンは動かない。

 止めないのではない。止める言葉が、この場に存在しない。


 瑞希は瞬きを忘れたまま、レノを見た。

 左耳の銀が、空気の流れに沿って僅かに揺れた。キンと鳴った金属音が、酷く場違いに感じられる。引き金があと僅かに動けば、この世界はまた一つ、簡単に形を変える。


 瑞希は、レノに羨望を抱いた。

 家族というものに、喪失以外の感情を抱く彼女に。家族を失ったことに、痛みではなく空白を感じていた、瑞希自身が、どうしようもなく虚無に思えた。


 その寸前で。

 氷が、グラスの中で小さく鳴った。

 たったそれだけの音が、刃のように静寂を割った。



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