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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第四幕

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0034 - NIL〈Non-Institutional Liaison〉



 病室は、過剰なほど静かだった。

 白い壁。白い天井。機械音だけが、規則正しく空間を刻んでいる。南雲は上体を起こしたままベッドに座り、膝の上で本を開いていた。


 頁は進んでいない。指先が同じ行をなぞり、僅かに止まっている。太腿と腹、そして肩に巻かれた包帯は新しく、血の滲みもない。処理は適切だった。


 ノックはなかった。

 ドアが静かに開き、靴底が床を踏む音が二つ、続けて入ってくる。


「失礼する」


 先に声を出したのは、オリヴァー・グラントだった。焦げ茶色のスーツに、深緑色のネクタイを締めている。手にはタブレットを持っていた。その半歩後ろに、レミリア・クラークが立っていた。長いコートを脱ぐ様子もなく、病室全体を一瞥する。その視線は無機質で、だが抜けがない。


「お久し振りです。南雲榮教官」

「やあ。二人とも、元気そうだねぇ」


 南雲は本から目を離さずに答えた。

 オリヴァーは鼻を鳴らし、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。レミリアは立ったまま手を後ろに組んだ。


「状況の説明を」

「あぁ、それね。電話でも言ったように、卒業試験で、宮原瑞希と江東肆已は逃走を図った。江東くんは肺を貫いたから……もう死んでるかな」


 その声は軽く響いた。

 僅かに口元を緩ませながら、続けて言う。


「でも、あれは想定外だったねぇ。まさかマーレボルシェの幹部が助けに入るなんてさ。うちの遠距離班がひとり死んで、宮原瑞希は逃げ果せた」


 オリヴァーはタブレットを操作していた指先を止めた。

 宙に浮かべたまま、僅かに眉を顰める。


「マーレボルシェの幹部と繋がっていたと?」

「まぁ、状況的にはそうなるね。処理対象に書き換えておいて」


 レミリアは南雲を見なかった。

 代わりに、一瞬だけ視線を伏せる。床を見たわけでも、資料を見たわけでもない。目を閉じるより、軽い拒絶だった。


 オリヴァーはタブレットを操作しながら、淡々と告げた。


「遠距離班の損失は一名。回収済み。現場処理は完了しています」

「そう。じゃあ、ま……事故だねぇ」


 南雲は、そう言ってから一拍置いた。

 笑みは崩れない。だが、その声だけが、僅かに遅れていた。誰かの死を、言葉に変換するまでの時間。それが、妙に正確だった。


 南雲はようやく頁を閉じ、本を膝の上に伏せた。

 その動きに合わせるように、病室のドアが再び開く。


 今度は、足音がひとつだけだった。

 軽い。だが、無駄がない。

 床を叩く音が一定で、体重移動に淀みがない。


 入ってきたのは、背の低い少年だった。

 年齢は十代半ばから後半。透き通るような白い髪が肩口辺りで揺れている。空のように淡く澄んだ青の瞳。黒のスーツは身体に合っているが、どこか借り物じみている。ネクタイの結び目が、やけに正確だった。


 南雲は、一瞬だけ視線を向けた。

 それ以上の反応は示さない。


「……新顔だね」

「本日付で配属です」


 答えたのは、レミリアだった。

 少年は一歩前に出て、立ち止まった。背筋は伸びている。だが、病室の空気に微かな緊張が混じったのが分かった。


「ザハール・アズレートヴィチ・カザロフです」

「へぇ。随分と仰々しい名前だ」


 南雲は、少年をもう一度見た。

 鋭い視線を向けても、ザハールは表情を変えない。年齢、服装、立ち位置。どれも違和感はない。ただ――この場に呼ばれる新人は、滅多にいない。


「職務内容は?」

「対外潜入任務。便宜上の区分は――NIL(ニル)です」


 オリヴァーが言葉を引き継ぐ。

 病室の空気が、静かに張り詰める。


「……あぁ。要するに、制度に属さない連絡員。任務に失敗しても、最初から存在しなかった扱いってことね」

「そういうことです」


 ザハールは淡々と頷いた。

 南雲は、そこで再び少年を見た。

 上から下まで、一度だけ。値踏みではない。確認に近い視線だった。


「ふぅん……君、自分が何に使われるか、分かってる?」

「はい」


 即答だった。

 オリヴァーはタブレットから目を離さず、補足する。


「マーレボルシェへの接触経路として最適です。外見・行動・履歴の齟齬は、彼の異能で補正可能ですから」


 南雲は薄く目を細め、本を取り上げる。

 その表紙を軽く叩き、笑みを浮かべた。


「なるほどねぇ……じゃ、君は鍵ってわけだ」

「光栄です」


 ザハールの声に、揺れはなかった。

 その静けさの中で、南雲はゆっくりと頁をめくった。


「まさか私が現場に戻ることになるとはね……ま、上の命令なら仕方ない。後始末はするからさ。安心していいよ」


 機械音が病室に戻ってくる。

 規則的な音。通気口の換気音。すべては、雑音だった。だが、それさえも、南雲は迎合した。包み込むような表情で、壊れるまでの猶予として。



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