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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第三幕

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33/35

0033 - 駿河の断崖で



 潮の匂いが、低く重く漂っていた。

 駿河の海は、今日も何も知らない顔で広がっている。断崖と呼ぶほど切り立ってはいないが、人の足が自然に止まる高さだった。


 瑞希は、そこで盛り土の前に座っていた。

 掘ったのではない。拾い集めた土を、積み上げただけだ。そこに、流木のような棒切れを一本、深く差し込んでいる。その隣にも、同じものが立てられていた。それらは、墓標と呼ぶには、あまりにも、簡素だった。


 胡座をかいた膝の上に、手を落とす。

 視界の端で、黒い前髪が風に揺れた。血で濡れたままのネクタイが、乾ききらずに潮風を含み、だらりと靡いている。


 瑞希は、それを直さなかった。ただ、盛り土を眺めていた。

 波の音が、一定の間隔で崖下から打ち上がる。そのリズムの中に、別の音が混じった。整えられた足音。砂利と土を踏む、軽い音だった。


 瑞希は振り返らない。

 代わりに、左耳に触れる。指先に、冷たい金属の感触が伝わった。肆已から受け取った、銀色のピアス。水平線へ沈みかけた夕日が、それを鈍く照らし出した。一瞬だけ、銀が赤に染まり、煌めく。


「何時までそうしているつもりだ」

 背後から、低い声が落ちてきた。


「放っておいてください」


 瑞希は短く切り捨てた。

 語尾を立てることもなく、ただ、淡々と零す。返事はない。代わりに、布擦れの音がする。スティンが、隣に腰を下ろしたのが分かった。片膝を立て、もう片方の足を伸ばす気配がする。


 しばらく、波の音だけが続いた。

 やがて、瑞希の視界に影が差した。


 横目で見ると、差し出された手があった。

 無骨な手に握られているのは、硬い質感の煙草の箱。

 ロスマンズ。英語のロゴが、夕焼けに沈みかけていた。


「……何ですか」

「吸え。もう二十歳だろう」

「そういう問題では……何故今、?」


 瑞希は箱から目を離さなかった。

 スティンは、少しだけ息を吐く。


「線香代わりにはなる。要は、献煙だ」


 ――献煙。そんな言葉はない。

 だが、それは説明でも冗談でもなかった。ただ、そういう行為があるという事実を教える声だった。


 瑞希は、しばらく黙っていた。

 やがて、箱を受け取る。紙の感触が、思ったよりも軽い。一本抜き取り、火を点けた。煙が立ち上る。風に煽られ、真っ直ぐには昇らない。横に逸れた軌跡が、海の方へ引き伸ばされていく。視界が滲んだ。


「……隣の墓は、誰のものですか」

「私の恩人だ。……私のせいで、死んだがな」


 瑞希は返事を返さなかった。

 ただ、膝を立てて、両腕を置く。


「駿河は、俺の……思い出の場所なんです。両親と、よく旅行に来てました。海水浴場で溺れて……ある人に助けられたこともあって」


 スティンは、瑞希の方へ静かに視線を向けた。

 その動きは遅く、慎重で、まるで壊れ物を扱うようだった。夕焼けを前にした瑞希の横顔を、一度、確かめるように見る。


 眉間に刻まれた浅い皺。伏せ気味の目。潮風に揺れる前髪。

 どれも、記憶の何処にも引っ掛からない――はずの顔だった。だが、その奥で何かが衝突した。スティンは、無意識に煙草を持つ手を止めていた。


「……それは、いつの話だ」

 声は低く、平坦だった。

 だが、瑞希は違和感を覚えた。ほんの僅かに、だが、確かに。


「十年前――いや、十三年前、ですかね」

 瑞希は、少し考えてから答えた。


「小学生の頃です。波に攫われて……男の人が助けてくれたんです。『大丈夫だ。もう掴んでいる、息をしろ』って。まだ波の中にいたのに安心して」


 声は淡々としていた。

 思い出話というより、記憶を掘り返した事実の列挙に近かった。


「名前も聞けなかったんですよね。ただ……凄く、傷だらけでした」


 その言葉に、スティンは喉を鳴らした。

 一瞬だった。だが、瑞希はそれを見逃さなかった。

 目を細め、眉を顰める。


「……何ですか」

「いや。何でもない」


 スティンは、それ以上言葉を重ねなかった。

 視線を海へ戻し、煙草をもう一度だけ吸う。火の先が、短く明滅した。


 瑞希は、その横顔を盗み見るように見た。

 無表情だった。だが、何処か張り付いたような硬さがある。普段なら、決して見せない類いの沈黙だった。


「……その人、助けたあと、すぐいなくなったんです」

 瑞希は独り言のように続けた。


「浜に上げてくれて、他の大人に明け渡して……それだけで。気付いたら、もう海の家の方に歩いてて。呼び止める前に、見えなくなりました」


 ぬるま湯のような潮風が吹く。

 墓標代わりの棒切れが、微かに軋んだ。


「……馬鹿なこと、言ってるのは分かってるんですけど」

 瑞希は、視線を盛り土に戻した。


「ずっと、探してました。顔も覚えてないし、名前も分からないのに。ただ、生きててほしいな……って」


 スティンは、ゆっくりと煙を吐いた。

 吐息と混ざり合い、白く解けて消える。


「……そうか」


 それだけだった。

 肯定も、否定もない。だが、その声はほんの僅かに、低く沈んでいた。

 瑞希は、左耳のピアスに触れる。指先で確かめるように、何度か。


「肆已も、ここが好きだったみたいです」

「ほう」

「海は、全部持っていくから楽だって。良いことも、悪いことも、全部同じ顔で呑み込んでいくから。今思うと……都合の良い言い訳ですね」


 スティンは、墓標の方へ視線を落とした。

 二本の棒切れ。並んで立つそれらを、しばらく黙って見つめる。


「海は、見ている人間の心を映すものだ。都合の良い言い訳ではない。肆已が言うように、彼の中では、それが真実だったのだろう」


 瑞希は、何も言わなかった。

 それが、自分にも、スティンにも、肆已にも当てはまると理解していた。夕日は、ほとんど沈み切っていた。空の端だけが、鈍い赤を残している。


「救えなかった記憶は、人の心を縛り付ける。だが、救った事実は――思っている以上に、人の心を溶かすものだな」


 低い声が、波音に混じる。

 立ち上がったスティンが、手を差し伸べてきた。


「私とともに来い。()は、それが最善だ」


 瑞希は、しばらく動けなかった。

 胸の奥で、何かが遅れて崩れ落ちる感覚があった。


 潮の匂い。波の音。沈み切った夕日の残光。

 瑞希は、盛り土の前で、深く息を吐いた。


「……俺は、」


 人は殺さない。そう言おうとして、口を噤んだ。

 スティンの手を取り、立ち上がる。

 銀色のピアスが、最後の光を反射して、確かにそこにあった。








――第三幕、終幕。


※以下は、本編で確認された異能の挙動を、観測可能な範囲で整理したものである。その全容を保証するものではない。



■異能:選別

この異能は、対象が“どこで壊れるか”を正確に把握できる。それは未来予知ではない。心を読むわけでもない。対象の行動は操れない。感情さえも書き換えない。ただし、どんな状況を与えれば、どんな選択肢を並べれば、どこで踏み外すかが分かる。


■異能:快楽固定

当人が一度強い快楽を覚えた行為は、その後、同条件下で必ず同質・同強度の快楽を再生する。行為の是非は問わない。理由も意味も付与しない。ただし、快楽だけは、決して減衰しない。



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  宮原 瑞希/20歳 〈特異値〉3


  異能:感情先読み(変質)

  対象:他者

  範囲:近接〜視界内 → 空間共有圏

  遮断:不可(※自己も含む)


  身体:

  ・体力  :標準(※質的変化)

  ・反射  :標準(※質的変化)

  ・痛覚処理:遅延なし → 微遅延

  ・自己損耗:検出(※無自覚)


  精神:

  ・恐怖反応:検出あり(※再定義)

  ・自己認識:保持(※価値観乖離) → 不安定

  ・現実認知:境界域(※固定)


  選択:

  ・残響  :検出

  ・不可逆点:確定


  警告 ―― 対象の感情は「理解」ではなく「結果」として知覚されます。

  NEW ――〈特異値〉の蓄積を確認しました。

       それに伴い、新規項目の追加。知覚に変質が生じます。

       さらなる変質を、お楽しみください。


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江東肆已に、献煙。

喪に服す関係で、更新お休みします。(鼻を啜る音)

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