0032 - 折れた信念
発砲音が、確かに鳴った。だが――被弾はなかった。
瑞希は一拍、遅れてそれに気付く。肆已の身体を庇ったままだったが、背中にも、肩にも、衝撃は来ていなかった。
アスファルトを叩く音も、肉を裂く感触もない。
静かすぎた。あまりにも。
違和感が、背骨を這い上がる。
瑞希は、ゆっくりと顔を上げた。すると、視界の端を、黒い塊が横切った。エンジン音。低く、抑えられた回転数。ブレーキを踏み切らず、惰性で滑り込むようにして――黒いセダンが、大通りに割り込んできた。
車体は傷一つない。だが、その現れ方だけが、場違いだった。運転席。窓枠越しに見えた男は、サングラスを掛けていた。早朝の光を鈍く反射して、目元が完全に読めない。だが、輪郭と髪型を見た瞬間、瑞希の記憶が弾けた。
――知っている顔だった。
男は、ハンドルから片手を離していた。その手にあるのは、黒い拳銃。その銃身に、迷いはなかった。照準も、躊躇もない。
拳銃が、火を吹いた。
銃声は近い。だが、射線は瑞希たちからは外れていた。銃口は、一直線に背後へと向けられている。ビルとビルの隙間。先ほどまで、走ってきた方向。死が忍び寄ってきていた方角だった。
乾いた破裂音が、反響して消える。一拍遅れて、何かが呻く音がした。重く、鈍い。声にならない声が、耳朶を撫でる。
男は、再び瑞希を見た。
サングラス越しでも分かるほど、冷静な動きでドアロックを解除する。
「宮原瑞希! 早く乗れ!」
低く、くぐもった声だった。
命令口調でも、懇願でもない。ただ、事実を告げる声だった。
瑞希は、肆已を抱え直した。
血の温度が、まだ掌に残っている。状況は何も解決していない。だが、ここに留まれば、確実に殺される。
灰青の空の下。
正義でも、選択でもない速度が、割り込んできていた。
瑞希は一瞬だけ、周囲を見渡した。銃声は、もう続かない。空気を裂く気配も、背後から追い縋る圧も、今は消えて失せている。耳鳴りの奥に残っているのは、黒いセダンのエンジン音だけだった。
判断は早かった。瑞希は肆已を抱え上げ、そのまま後部座席へ身体を滑り込ませる。ドアフレームに肆已の足を引っ掛けないよう角度を調整し、慎重に太腿へ横たえる。肆已の息は浅い。胸元を押さえると、ネクタイ越しに血の湿り気が伝わってくる。重い音とともに、ドアを閉めた。
黒いセダンは、それを合図に発進した。
タイヤがアスファルトを噛み、無駄のない加速で交差点を抜ける。信号は赤だったが、減速はしない。クラクションも鳴らない。ただ、流れるように車列の隙間へ滑り込んでいく。追撃はない。銃声も、衝撃もなかった。
瑞希は、背後のリアガラスに注意を向けた。
大通りは、既に遠ざかりつつある。ビルの隙間も、遮蔽物も、すべて後方に流れていく。あの方向から、もう弾は飛んでこない。
理由は、考えなくても分かった。
――撃てなくなったのではない。撃つ者が、いなくなったのだ。
先ほどの一発。瑞希たちではなく、背後の上部へ放たれた射線。
おそらく、いや――間違いない。この男が、スナイパーを撃ち抜いた。
瑞希は、肆已の肩を支え直した。血はまだ止まっていない。だが、胸は上下している。生きている。その事実だけで、今は十分だった。
前方の運転席。ミラー越しに、男の視線と交錯した。
笑みを浮かべた男が、そのサングラスを外し取る。
「久し振りだな。宮原瑞希」
「……スティン、さん……何故ここに?」
「銃声が聞こえたのでな。来てみれば、君がいた」
それだけ言って、スティンはそれ以上語らなかった。
それが嘘だと、瑞希は直感的に理解する。だが、今は追及する意味がない。問いを重ねる余裕もなかった。
――そのときだった。
肆已の指先が、瑞希の襟元を掴んだ。弱々しい力。それでも、確かな意思を持った動きだった。
「瑞希……ぼく、さ……」
「喋るな……肆已」
肆已は、訊いていないようだった。
唇が震え、掠れた声が、必死に形を取ろうとする。
「……ぼく、さ……瑞希に会えて、良かったよ……」
言い切った直後、激しく咳き込む。
身体が大きく痙攣し、押さえた口元から喀血が零れ落ちた。赤黒い血が、白いワイシャツを汚していく。肺が、もう役割を果たしていない。
「……クソッ!」
瑞希は、歯を食いしばる。目を細め、口元を歪めた。
「最期の言葉みたいなこと、言うなよ……」
返事はない。代わりに、肆已の身体が小刻みに震えた。
その沈黙を切ったのは、前方からの声だった。
「介錯してやれ」
一瞬、瑞希は言葉の意味を理解出来なかった。
「……なに、言って……まだ肆已は……!」
「もう長くない。分かるだろう」
スティンはミラー越しに、一度だけ目を伏せた。
瑞希は打ち拉がれたように、視線を落とす。肆已の顔は青褪め、唇の色は失われている。血色がない。呼吸のたびに、胸が不自然に上下する。身体は、冷え始めていた。理屈では、理解していた。だが、感情がそれを拒んでいる。
「……瑞希……」
肆已が、再び口を開いた。
震える指先が、瑞希の袖を引く。
「これ……あげるよ……」
「……なに、なんだよ。急に……」
差し出されたのは、小さな銀色のピアスだった。
肆已が、いつも身に着けていたものと同じ形。中央に真っ直ぐな棒が伸び、その周囲を螺旋状の棒が覆っている。
「それ……さ、ぼくに……ピッタリだと……思ったん、だよね」
肆已は、苦しそうに息を整えながら続けた。
「神曲に出てくる……悪を、収容してる場所にさ……そっくりじゃん」
言葉が途切れ、また咳き込んだ。
血が、指の間から滑り落ちる。瑞希は、そのピアスを受け取った。掌の中でやけに冷たく、その存在を主張していた。
「……肆已、」
声が、掠れた。
肆已は、微かに笑った。それは、殆ど形にならない表情だった。
「……ねぇ、瑞希。ぼくのこと……殺してよ」
その言葉は、懇願だった。命乞いとは、正反対。瑞希の喉が詰まった。視界が歪む。白く滲む。肆已の輪郭が、ぼやけていく。
「……俺は、」
震えた。言葉が、続かない。
人は殺さない。絶対に、殺さない。
それが、瑞希の信念だった。ここまで、必死に守ってきたものだった。
「……ごめん。肆已……」
瑞希は、拳銃を握った。
震える指を、トリガーに這わせる。
約束を、破る。信念を、曲げる。
それでも、この苦しみを終わらせるために、引き金を引く。
肆已は、最後に小さく頷いた。
安堵とも、感謝とも取れる仕草だった。
「そっちで、待っててくれ」
灰青の空の下。
譲れない信念が、カチャリと崩れ、瓦解した。




