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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第三幕

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0031 - 灰青の空の下で



 走る、という行為に意味を持たせる余裕はなかった。

 ただ脚を前に出し、肺に空気を叩き込み、足裏が床を掴む感触だけを信じて進む。背後で、銃声は聞こえない。それが、逆に恐ろしかった。


 瑞希は肆已を横目に捉えたまま、通路を曲がる。

 地下施設特有の直線と直角だけで構成された構造。逃走を想定していない設計が、逆に選択肢を単純にしていた。


「ね、瑞希……なんで、殺さなかったの」

「……言ったろ。俺は、絶対に殺さないって。何があっても」


 声は、思ったより低く出た。

 肆已は何も返さない。ただ、鼻を啜る気配だけが伝わってくる。足音が二人分重なる。呼吸が、ずれている。瑞希は自分の呼吸が速すぎることに気付き、無理やり一拍落とした。落ち着かせるように、深く息を吐く。


「逃走経路は」

「一応、確保はしてあるけどさ。念のためね」

「なら、案内頼む。武器は」

「取られた。防弾チョッキも着てない」


 瑞希は、思わず歯噛みする。


 警報は鳴っていなかった。

 それが、何よりも異常だった。地下通路を駆け抜ける足音だけが、反響している。規則正しく、だが、南雲の足音が追い付いてくる気配はない。銃声も、怒号もない。ただ、無言の圧だけが、背中に張り付いていた。


「……静かすぎるね」

「分かってる」


 瑞希は短く返し、曲がり角の手前で肆已の腕を引いた。

 次の瞬間、壁面が弾ける。乾いた破裂音。コンクリート片が飛び散り、粉塵が視界を白く塗り潰していく。


 南雲の攻撃。見えていなくても、わかる。

 撃っている。狙っている。距離を詰める気はない。


「止まるな!」

「っ……!」


 二発目。今度は足元。

 床を抉る弾丸が、進路を削る。追い立てるための射撃。殺さないために計算された角度。逃げる方向だけを、正確に制御している。


 階段が見えた。

 非常用の昇降路。地上へ繋がる、唯一の出口。


「上!」

「分かってる!」


 二段飛ばしで駆け上がる。呼吸が僅かに荒れる。

 三発目が、手すりを弾いた。金属音が耳を刺す。南雲は、急がない。逃げ切れる距離を、わざと与えている。階段を抜け、非常扉の認証パネルを、拳銃のグリップで叩き割った。火花が散る。ロックが解除され、扉が開く。


 湿った地下の匂いが消え、冷たい早朝の風が肺に流れ込む。

 地上だ。街灯。アスファルト。遠くの車の音。

 鈍い灰色に、青が混じった空が、頭上に広がっている。


「空って、こんなに綺麗だったっけ……」

「――肆已ッ!」


 その瞬間だった。

 乾いた破裂音が、空気を裂いた。


 今までとは違う。散漫な軌道ではない。

 鋭い、弾道。肆已の背中に、一直線に向かう死の軌跡。


 瑞希は、考えなかった。身体が先に動いた。

 肆已の肩を、横から強く押し出す。同時に、衝撃。血飛沫が視界を彩った。左肩に熱が走る。銃弾が肉を貫き、肩を掠める。言い表せない激痛。だが、腕は落ちていない。動ける。致命傷ではない。


「瑞希!?」

「大通りだ! 走れ!」


 血が滲む。指先が痺れる。

 それでも、瑞希は前を向いた。アスファルトを蹴り、ネクタイが風に引き千切られそうになる。空はまだ高い。そして、何処までも開けている。


 大通りを選んだのは、直感ではなかった。

 瑞希の中で、判断は既に終わっていた。


 養成機関の地下施設は、秘匿されている。

 正確な位置も、その構造も、存在そのものも、表に出ることを前提としていない。だからこそ、地上に出た瞬間、状況は変わる。無闇に銃を撃てば、目撃者が出る。記録が残る。追跡は出来ても、処理は出来ない。


 南雲なら、それを嫌うはずだ。

 殺すなら、誰にも見られない場所。証拠の残らない形を選ぶ。

 だからこそ――開けた場所へ出る。


「――右だ、肆已。大通りに出る」

「でも、人いるかもしれないよ」

「だからだよ」


 早朝の街は、まだ眠りの途中だった。

 シャッターの降りた店舗。信号だけが律儀に色を変え続ける交差点。新聞配達のエンジン音が、遠くで一度だけ響く。


 人影は少ない。だが、ゼロではない。

 大通りに出た瞬間、視界が一気に開ける。遮蔽物が消え、灰青の空と、建物と道路だけになる。逃げ場は減る。だが同時に、撃てる場所も限られる。


 瑞希の背中に、嫌な予感が走った。

 理屈ではない。説明の出来ない、経験だけが叩きつけてくる感覚。


「……肆已、止まるな」

「え?」


 その刹那。小さな破裂音が、もう一度鳴った。

 今度は、空気を裂く音が違った。遠く、鋭い。迷いがない。瑞希が振り返るより早く、肆已の身体が跳ねた。否、跳ねたように見えただけだった。


 鈍い衝撃音。次いで、息を吐き切るような短い音。

 肆已の身体が、後ろにズレた。一歩、二歩、三歩。地面を探るように、靴底がアスファルトを擦る。その動きが不自然で、瑞希の中で警鐘が鳴る。


「……肆已、?」


 返事はなかった。代わりに、肆已の肩が大きく揺れた。短く、詰まった呼吸音。次の瞬間――赤い飛沫が空気に散る。


 瑞希は、即座に腕を伸ばした。

 肆已の背中が、瑞希の胸元にぶつかる。体重が預けられる。想像より軽い。支えなければ、そのまま崩れる。胸元を見た。血が、明確に多い。空咳と同期して、鮮血が、肆已の白いシャツをじわりと染めていく。


 近くで、乾いた音がもう一度鳴った。瑞希の背中に、空気が張り付くような感覚が走る。狙われている。まだ――終わっていない。


「……クソッ!」


 声と同時に、瑞希は肆已を引き寄せた。

 倒すというより、落とす。歩道の縁石と郵便ポストの影へ転がり込み、身体を丸めて覆う。背中にアスファルトの衝撃が伝わる。


 肆已の咳が、至近距離で響く。

 止まらない。血の温度が、掌に伝わる。量が多い。


 信号機が、視界の端で色を変えた。

 青から黄色、そして赤へ。誰も渡らない横断歩道。

 空だけが、やけに高い。


 瑞希は歯を軋ませた。

 大通りを選んだ判断は、間違っていない。だが、足りなかった。南雲は、撃てる。撃って良いと判断した瞬間だけ、確実に引き金を引く。トリガーを引くのは、南雲である必要はない。その判断が、今ここで、下された。


「瑞希……、ぼく……さ、」


 肆已は、苦しそうに笑おうとした。

 失敗した笑顔だった。


「喋るな……ゆっくりだ、ゆっくり息を吸え……肆已」


 灰色に青が滲んだ空が、何も知らない顔で広がっていた。

 その下で、選択の結果が、静かに、確実に形になっていく。


 瑞希は、ネクタイを外し、肆已の胸を締めた。

 選ばなかった答えの代償が、はっきりと形になる。


 その刹那――小さな、だが確かな発砲音が、耳を劈いた。



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