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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第三幕

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0028 - 角度に依存する主観



 瑞希は、一歩だけ前に出た。

 それ以上近付く理由はない。距離を詰めれば、現実が変わるわけでもない。ただ、遠いままでいるのが、瑞希にはもう、耐えられなかった。


 床に伏せた肆已の肩が、僅かに上下している。拘束された両腕。冷たい金属の感触に、身体が無意識に抗っているのが分かる。だが、抵抗はない。逃げる素振りも、助けを求める声もない。ただ、呼吸だけが、そこにあった。


 南雲は、瑞希の接近を止めなかった。

 押さえ付ける体勢を崩さぬまま、首だけを巡らせる。視線が合う。その目はあまりに穏やかで、あまりに平坦だった。


「もう少し驚くかと思ったんだけど。落ち着いてるねぇ」


 感心したような声音。瑞希は、何も返さなかった。

 言葉を返せば、それは交渉になる。今ここに交渉の余地がないことは、もう分かっていた。


 南雲は肆已から視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。

 だが、完全には離れない。足先一つで、いつでも押さえ直せる距離。逃げ場を与えない、絶対的な間合い。立ち姿勢。


「卒業試験の内容は、簡単だよ。君が、江東くんを殺す。それだけ」


 瑞希の指先が、僅かに動いた。

 南雲は、その反応を見逃さない。


「もちろん、拒否しても構わないよ」

「……それは、どういう意味です?」


 低く、縫い付けるような声で返す。

 南雲は、苦笑して肩を竦めてみせる。わざとらしい仕草。


「私はね、ただ確認したいだけなんだよ。君がこの先――情を持った相手を、殺さねばならなくなったとき。その手で、情を断ち切れるのかをね」


 瑞希は、南雲を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。

 怒鳴りたい衝動も、駆け寄りたい衝動も、胸の奥で形になる前に沈める。今それをすれば、自分が試験の枠に収まってしまうと分かっていた。


「三年間、一緒だったんだもんね。寮も一緒。同期は互いに一人。戦闘訓練はバディを組んでいた。仲良くならない方が、難しいよねぇ」

「……まさか、最初からそのつもりで、?」

「そうだよ。まぁ、その時点ではまだ、どうするか決めかねてたけどね」


 瑞希は奥歯を噛んだ。

 だが今は、南雲の意図を知るところからだ。


「……何故、肆已を殺さねばならないんです?」

「養成機関はね、理想を育てる場所じゃない。現実を、冷静に対処できる人材を選別する場所だ。危険因子を前にして躊躇する者は――遅かれ早かれ、誰かを殺すことになる。それが直接的でも、間接的でも、必ずね」


 言葉は穏やかだが、論理は鋭利だった。

 瑞希は、その刃の形を理解してしまう。南雲の正義は、結果主義だ。感情はノイズ。関係性は誤差。未来に起こり得る被害を、今ここで潰す。それが最短で最小の犠牲になる。だから南雲は、迷わない。


 床に伏せた肆已を、瑞希は一瞬だけ見た。肆已はこちらを見ていない。否、見ないようにしている。その事実が、瑞希の胸を締め付けた。


「肆已は、危険だと?」

「そうだねぇ。危険だ。そして、これからも」

 ただ事実を告げるように、南雲は僅かに目を細めた。


「先週の近接訓練。彼の異能は快楽固定だけど、制御不能。再現性あり。条件が揃えば、必ず暴走する。江東くんはこの先、何人殺すと思う?」


 その問いが、あまりにも簡単な計算式のように聞こえた。

 瑞希は視線を戻した。南雲の目は、揺れていない。


 ああ、と瑞希は思った。善が、善であることを疑っていない。少なくとも、南雲自身の中では、それは正義だった。大勢を守るために誰かひとりを切り捨てる。感情を排して、関係を断ち切って、未来の数値だけを見る。南雲の角度から見れば、当然、江東肆已は処理対象でしかない。


 ――だが、角度が違えば、風景は変わる。瑞希にとって、肆已は危険因子ではない。共に訓練し、同じ時間を生き、同じ地獄を越えてきた存在。壊れているからこそ、人間だと知ってしまった相手でもある。


「教官の仰ることは分かります。理屈も、効率も、正しさも」

「ほぅ。それで?」

「ですが、それは。その殺しは、彼らと何も変わらない。異能対策監理局は、殺しを正当化しているだけの……異能犯罪組織ですよ」


 その言葉を、瑞希は吐き切った。

 言った瞬間、胸の奥がひやりと冷える。


 正しかったかどうかは、もう問題ではなかった。引き返す余地が、音を立てて消えた感覚だけが残る。喉を奥が僅かに痛む。だが、息を乱れていない。震えもない。ただ、視線だけが、南雲から外せなくなっていた。


 一拍、二拍。

 南雲は、すぐには何も言わなかった。肆已を押さえている足の位置も、姿勢も変えない。ただ、ほんの少しだけ顎を引き、瑞希を見つめ直す。その目に、怒りはない。否定もない。代わりに浮かんだのは――興味に近い色だった。


 南雲は、小さく声を漏らした。

 思い出した、とでも言うような間だった。


「確か――レミリア・クラーク、だったかな」

 名を口にしながら、南雲はゆっくりと息を吐いた。

 ふう、と。気の抜けた音。


「君と同じことを言ったよ。組織が違うだけで、やってることは同じだって。正義を名乗った殺しは、ただの免罪符だってね」


 南雲の口元が、僅かに緩む。

 笑みではない。嘲りでもない。ただの、納得だった。


「君もそこに辿り着いたわけだ。悪くない視点だね」


 瑞希は何も言わなかった。

 肯定も否定も、続けなかった。ただ、立ったままそこにいる。

 南雲は淡々と続けた。


「角度が違えば、世界は違って見える――君の言う通りだ。私から見れば正義でも、君から見れば、それは悪だろうね」


 一瞬だけ、南雲の視線が肆已に落ちた。

 床に伏せ、息を殺しているだけの存在へ。


「……でもね。それでも私は、この角度を捨てない。ひとりを殺して、大勢の命を守れるのなら。結果として、守れる数がある限りはね」


 その視線が、再び瑞希に戻る。

 その言葉は、断定だった。揺れも、迷いもない。瑞希は、理解した。南雲は説得しようとしていない。弁明もしていない。ただ、自分が何者かを確認しているだけなのだと。そして、その確認は――もう終わっている。


「さて。君の意見は分かった。話を戻そうか」


 南雲は、ふっと肩の力を抜いた。

 その声は、何処までも穏やかだった。


「君が江東くんを殺さないなら、私が殺す。これは決定事項だ。そのうえで、聞くね。君は――どうしたい? 選択は、君に委ねる(・・・・・)


 その言葉の意味を、瑞希はすぐに理解してしまった。

 これは選択ではない。救済でも、自由でもない。責任の所在を、何処に置くかという問いだ。自分の手で肆已を殺せば、情を断ち切ったのは、瑞希自身になる。拒めば、肆已は南雲に殺される。だがその場合、瑞希は生き残ることになる――情を抱いたまま、見殺しにしたという形で。


 どちらを選んでも、結果は変わらない。

 肆已は死ぬ。今日、この場で。違うのは、誰がその死を引き受けるか。血を浴びるのか、背負うのか。その角度だけが、瑞希に委ねられていた。


 瑞希が言葉を失っていると、肆已が身じろぎした。

 視線を向ければ、その諦観した瞳と交錯する。


「瑞希……ぼく、教官に殺されるくらいなら、瑞希に殺されたい……」


 空気が、凍り付いた。

 肆已は、もう諦めている。自分が生き残ることを。この場で、殺される未来を選んでいる。怒りも、恐怖も、絶望も、既に通り過ぎた表情。


「……肆已……」

 瑞希はただ、奥歯を噛んだ。

 歯が軋み、悲鳴を上げる。


 三年間、片時も離れず、地獄を共にした仲。

 二人とも何処か壊れていて、それを互いが補うように生きてきた。それでも笑いながら、危うさを見ないようにして。どうしようもなく、普通の人間で在りたかっただけの人間。今は、誰よりも、死んでほしくない人間。


「……俺は……」


 瑞希は、拳を握り込んだ。

 問いは、まだ終わっていない。そして、答えは――これから、血を持って示される。時間だけが進み、誰の意思も前に出ない。この沈黙こそが、選ばされた証だった。答えはまだ、引き金の向こう側にある。


 第二訓練区画に、布と金属の擦れる音が響いた。



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