0010 - 帳が下りた世界
舗装の剥げた路地。
街灯は間引かれ、光は地面に落ちる前に砕けている。影の方が多い道。運動靴の靴底が、アスファルトを踏み鳴らす音だけが、やけに大きく響く。息が喉に絡み付き、肺が熱を持つ。それでも、足は止まらなかった。
瑞希は、走っていた。
ただ、走っていた。
理由は、分からなかった。――と言うより、考える余裕がなかった。
背後を振り返ることが、怖かった。追われているかどうかを、確認する行為そのものが、現実を確定させてしまう気がしていた。
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宮原 瑞希/17歳 〈特異値〉2
異能:感情先読み
対象:他者
範囲:未確定 → 近接〜視界内(不安定)
遮断:不可
身体:
・体力 :標準
・反射 :標準
・痛覚処理:遅延なし
精神:
・恐怖反応:検出あり(※質的変化)
・自己認識:保持(※価値観乖離)
・現実認知:基準内 → 境界域
NEW ――〈特異値〉の蓄積を確認しました
知覚が変質します
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視界に表示された、黒い画面。
手で振り払っても、するりと視界の端に避けるだけで、すぐにまた目の前に躍り出てくる。分かってて、見せている。瑞希は思わず、奥歯を噛んだ。
「――クソッ! 出てくるな! 見たくないって、言ってんだろ……!」
口から出た声は震えていた。
それでも、画面は消えない。視界の端に移動しただけだ。
倉庫街特有の、同じ景色が繰り返される通り。
角を曲がり、そしてまた曲がる。通りを抜けると、空気が変わった。
人の匂いだ。
車の走行音。遠くで鳴るクラクション。信号機の電子音。
瑞希は、ほとんど転がるようにして大通りに出た。
ネオンが滲んで見えた。コンビニの白い照明が、やけに眩しい。自動販売機の青が、夜に浮いている。歩いている人がいた。スマートフォンを見ながら歩く男女。時計を気にして足早に進む会社員。笑い声。
――日常だ。
そこで、はじめて立ち止まった。
足が、言うことを聞かない。瑞希は恐る恐る振り返った。倉庫のある方角。暗がり。何も動かない。追ってくる影も、気配もない。
いない。スティンもアルフェも、誰も、来ていない。
その事実が、遅れて胸に落ちた。
「……ッ」
息が、一気に乱れた。
喉が震え、肺が追い付かない。
酸素を求めるように、口が勝手に開閉する。
次の瞬間、膝が折れた。
歩道の端。ガードレールの影。人通りから半歩外れた場所に、瑞希はうずくまった。両手で地面を支え、額が下を向く。視界に入るのは、アスファルトの荒れた模様と、誰かが吐き捨てたガムの跡だけだった。
手が震えていた。
それは寒さではなく、疲労でもなかった。震えの理由を、脳が理解するより先に、胃が反応した。喉の奥が引き攣れ、吐き気が込み上げる。だが、何も出ない。昼から何も食べていない。胃の中は、空っぽだった。
代わりに、別の感覚が浮上してくる。
感触。ナイフの柄。掌に馴染んだ重さ。刃が沈んだ瞬間の、抵抗。
見ないようにしていた映像が、内側から滲み出す。
押し殺したはずの記憶が、順序を整え始める。
床。月光。縛られた男。喉元に走る脈。刃が触れた瞬間の、微かな跳ね。
「……ッ、違う……俺は……」
声が掠れた。
否定の言葉なのに、誰に向けたものなのか分からない。
勝手に腕が動いた。
自分の意思だったのかどうか、判断がつかない。
赤黒い血。温かい温度。肉を裂く音。
瑞希は、両手を見下ろした。
指先に絡んだ血は、乾いて粉のように付着していた。それなのに、皮膚の奥にぬるりとした感触だけが、確かに残っている。
「……俺が……」
言葉が、そこで途切れた。
俺が選んだ。俺が、殺した。そう、言えば良いはずだった。だが、その単語は瑞希には重すぎた。声に出した瞬間、世界が壊れる気がした。
人通りのある道。
だが、誰も瑞希を見ていない。誰も、異変に気付かない。世界は、何事もなかったように、続いている。その事実が、恐ろしかった。
自分だけが、取り残されている。
時間の流れから、半歩ずれた場所にいる。
言い表せない孤独が、脳の縁をひらりと撫でていく。
瑞希は、膝を抱えた。
ガードレールに背を預け、丸め、額を腕に埋める。
呼吸が、少しずつ整っていく。だが、心拍は早いままだ。
――逃げた。
――でも、生きている。
その二つが、同時に成立していることが、理解できない。
助かったという安堵と、生き残ってしまったという嫌悪。どちらも本物で、どちらも否定できなかった。
瑞希はもう一度だけ、倉庫の方角を見た。
当然、何も見えない。それでも、そこに何かを残してきた感覚だけが、はっきりとあった。戻れない。戻ってはいけない。
そう理解した瞬間、涙が出た。
嗚咽はない。声も出ない。ただ、視界が滲み、光が歪む。頬を伝う涙の雫を拭うこともせず、ただ流し続けた。
人の往来の中で、誰にも気付かれないまま。
瑞希は小さく、震えていた。
――俺は、何をした?
答えは、もう分かっている。
だからこそ、問いだけが、頭の中で何度も繰り返されていた。
「――坊主、泣いてんのか? って、血出てんじゃねーか」
唐突に、頭上から声が落ちた。
その声は、今の瑞希にとって、酷く、救いのように感じられた。




