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THE PROTO-MAL(旧名:特異値侵蝕症)――それは力ではない。世界が歪んで見えはじめる病だ。  作者: 幻翠仁
第二幕

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0010 - 帳が下りた世界



 舗装の剥げた路地。

 街灯は間引かれ、光は地面に落ちる前に砕けている。影の方が多い道。運動靴の靴底が、アスファルトを踏み鳴らす音だけが、やけに大きく響く。息が喉に絡み付き、肺が熱を持つ。それでも、足は止まらなかった。


 瑞希は、走っていた。

 ただ、走っていた。


 理由は、分からなかった。――と言うより、考える余裕がなかった。

 背後を振り返ることが、怖かった。追われているかどうかを、確認する行為そのものが、現実を確定させてしまう気がしていた。


 ==============================================

  宮原 瑞希/17歳 〈特異値〉2


  異能:感情先読み

  対象:他者

  範囲:未確定 → 近接〜視界内(不安定)

  遮断:不可


  身体:

  ・体力  :標準

  ・反射  :標準

  ・痛覚処理:遅延なし


  精神:

  ・恐怖反応:検出あり(※質的変化)

  ・自己認識:保持(※価値観乖離)

  ・現実認知:基準内 → 境界域


  NEW ――〈特異値〉の蓄積を確認しました

       知覚が変質します

 ==============================================


 視界に表示された、黒い画面。

 手で振り払っても、するりと視界の端に避けるだけで、すぐにまた目の前に躍り出てくる。分かってて、見せている。瑞希は思わず、奥歯を噛んだ。


「――クソッ! 出てくるな! 見たくないって、言ってんだろ……!」


 口から出た声は震えていた。

 それでも、画面は消えない。視界の端に移動しただけだ。


 倉庫街特有の、同じ景色が繰り返される通り。

 角を曲がり、そしてまた曲がる。通りを抜けると、空気が変わった。


 人の匂いだ。

 車の走行音。遠くで鳴るクラクション。信号機の電子音。


 瑞希は、ほとんど転がるようにして大通りに出た。

 ネオンが滲んで見えた。コンビニの白い照明が、やけに眩しい。自動販売機の青が、夜に浮いている。歩いている人がいた。スマートフォンを見ながら歩く男女。時計を気にして足早に進む会社員。笑い声。


 ――日常だ。

 そこで、はじめて立ち止まった。

 足が、言うことを聞かない。瑞希は恐る恐る振り返った。倉庫のある方角。暗がり。何も動かない。追ってくる影も、気配もない。


 いない。スティンもアルフェも、誰も、来ていない。

 その事実が、遅れて胸に落ちた。


「……ッ」


 息が、一気に乱れた。

 喉が震え、肺が追い付かない。

 酸素を求めるように、口が勝手に開閉する。


 次の瞬間、膝が折れた。

 歩道の端。ガードレールの影。人通りから半歩外れた場所に、瑞希はうずくまった。両手で地面を支え、額が下を向く。視界に入るのは、アスファルトの荒れた模様と、誰かが吐き捨てたガムの跡だけだった。


 手が震えていた。

 それは寒さではなく、疲労でもなかった。震えの理由を、脳が理解するより先に、胃が反応した。喉の奥が引き攣れ、吐き気が込み上げる。だが、何も出ない。昼から何も食べていない。胃の中は、空っぽだった。


 代わりに、別の感覚が浮上してくる。

 感触。ナイフの柄。掌に馴染んだ重さ。刃が沈んだ瞬間の、抵抗。


 見ないようにしていた映像が、内側から滲み出す。

 押し殺したはずの記憶が、順序を整え始める。

 床。月光。縛られた男。喉元に走る脈。刃が触れた瞬間の、微かな跳ね。


「……ッ、違う……俺は……」


 声が掠れた。

 否定の言葉なのに、誰に向けたものなのか分からない。


 勝手に腕が動いた。

 自分の意思だったのかどうか、判断がつかない。

 赤黒い血。温かい温度。肉を裂く音。


 瑞希は、両手を見下ろした。

 指先に絡んだ血は、乾いて粉のように付着していた。それなのに、皮膚の奥にぬるりとした感触だけが、確かに残っている。


「……俺が……」


 言葉が、そこで途切れた。

 俺が選んだ。俺が、殺した。そう、言えば良いはずだった。だが、その単語は瑞希には重すぎた。声に出した瞬間、世界が壊れる気がした。


 人通りのある道。

 だが、誰も瑞希を見ていない。誰も、異変に気付かない。世界は、何事もなかったように、続いている。その事実が、恐ろしかった。


 自分だけが、取り残されている。

 時間の流れから、半歩ずれた場所にいる。

 言い表せない孤独が、脳の縁をひらりと撫でていく。


 瑞希は、膝を抱えた。

 ガードレールに背を預け、丸め、額を腕に埋める。

 呼吸が、少しずつ整っていく。だが、心拍は早いままだ。


 ――逃げた。

 ――でも、生きている。


 その二つが、同時に成立していることが、理解できない。

 助かったという安堵と、生き残ってしまったという嫌悪。どちらも本物で、どちらも否定できなかった。


 瑞希はもう一度だけ、倉庫の方角を見た。

 当然、何も見えない。それでも、そこに何かを残してきた感覚だけが、はっきりとあった。戻れない。戻ってはいけない。


 そう理解した瞬間、涙が出た。

 嗚咽はない。声も出ない。ただ、視界が滲み、光が歪む。頬を伝う涙の雫を拭うこともせず、ただ流し続けた。


 人の往来の中で、誰にも気付かれないまま。

 瑞希は小さく、震えていた。


 ――俺は、何をした?

 答えは、もう分かっている。

 だからこそ、問いだけが、頭の中で何度も繰り返されていた。


「――坊主、泣いてんのか? って、血出てんじゃねーか」


 唐突に、頭上から声が落ちた。

 その声は、今の瑞希にとって、酷く、救いのように感じられた。


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― 新着の感想 ―
xから来ました。 序盤を読んでまず感じたのは、この作品が 「能力」と呼べるものの正体自体が人間の倫理や精神の歪みと直結する、極めて哲学的・心理的なSF物語 になっているということでした。〈特異値〉と呼…
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