CHAPTER23『紺碧に潜む牙〜ボグ・ドンベルの記録〜』
海軍基地内には、潮風に混じって油と金属の匂いが漂っていた。
埠頭では整備兵たちが無駄のない動きで器材を運び、遠くのドックでは訓練艦の汽笛が鈍く鳴り響く。
灰色の巨体が並ぶその風景は、軍都ドラケンフォートの中でもひときわ異質な静けさをまとっていた。
その一角――医療棟内の小さな薬品取り扱い室で、ボグ、カルヴォフ、ハンリムは束の間の小休止を取っていた。
テーブル代わりの古い木箱を囲み、湯気の立つカップを手にしながら、脱出までの流れと互いの持つ情報を交換している。
外では訓練兵らの掛け声が風に乗ってかすかに響く。
だが、その静けさの底に潜む緊張は、誰もが否応なく感じ取っていた。
ボグのドラケンフォート脱出劇は、すでに最終段階へと差し掛かっていた——。
俺は椅子に腰かけたまま、腹をさすりながら室内をぐるりと見回した。
「おい! ハンリム中将殿! 何か食い物ねえか?」
カルヴォフは椅子にもたれ、目を閉じたまま、両手のひらを横に広げて首を振った。
やれやれ、とでも言いたげだ。
ハンリムはタバコを咥えたまま眉をひそめた。
「……あん? 腹が減ってんのか?」
そう言うと、ズボッと大きな体を起こし、棚をガサゴソと荒々しく漁り始めた。
「なら――これでも食え!」
不意にハンリムが何かをつかんで、俺めがけて豪快に放り投げる。
バクッ!
思わず本能で噛みつく。
「……モグ、モグ……何だこりゃ?」
「……釣りで使う乾燥ミミズだ」
ブフォッ!!
俺は思わず吐き出し、椅子ごとズザッと後ろにのけぞった。
「おいっ! これ餌じゃねえか!!」
ハンリムはタバコを咥えたまま肩をすくめる。
「……おいカバ。お前はバカか? 乾燥ミミズってのはな、海軍の間じゃ“海の命綱”と呼ばれている」
カルヴォフが無言で眉をひそめる。
ハンリムは気にせず続ける。
「まず鉄分がケタ違いだ。筋肉の疲労回復、赤血球の増加、持久力アップ——全部に効く。それにタンパク質も優秀でな、兵士が海で遭難した時、乾燥ミミズ一袋あれば三日は全力で戦えると言われている」
俺は口を半開きにする。
ハンリムはさらに身を乗り出し、机をトンと叩いた。
「それにだ、乾燥させることで旨味が凝縮されてな……まぁ味は最悪だが栄養価は最高だ。これ以上に軍向けの食糧があるか、バカタレが!」
俺は慌てて口元を袖で拭った。
「そ、そうなのか……吐き出して悪かったな」
ハンリムはタバコを咥え直し、灰を払うと無造作に立ち上がった。
「わかりゃいいんだ。だったら――これごと持っていけ」
ドン!
分厚い手が木箱を床に叩きつけた。
箱の中には、乾燥ミミズの巨大な塊がぎっしり詰め込まれていた。
俺は乾燥ミミズの塊を受け取りながら、鼻をこすった。
「お、おう……ありがとよ!」
カルヴォフはその様子を横目に、低く問いかける。
「……ところで、この件について海軍内ではどこまで共有されている?」
タバコの煙を細く吐いたハンリムが、片目を細めて答えた。
「……一応、海軍大将ベロニカ・デル・マールだけには通してある」
カルヴォフはわずかに口元を緩め、重い頷きを返す。
「ほう、なるほどな……アクア・ドミナ軍唯一の女大将、ベロニカ殿か」
ハンリムが鼻で笑い、肩をすくめる。
「かつて北の海を荒らしまわった元女海賊にして、腕っ節ひとつで提督席までのし上がった猛女だ」
俺は思わず鼻を鳴らす。
「フェッフェッフェッ……そりゃ会ってみてぇな」
カルヴォフは静かに顎を引いた。
「あの女傑が味方につくなら心強い話だ――陸軍の大将どもは三人とも信用ならんからな」
そして、カルヴォフは机上に投げ出された地図の端を押さえ、低く言った。
「……陸軍内で、この件を共有しているのは、陸軍情報局長のバルサン中将だけだ。
奴は暗部の動きに、以前から強い疑念を持っている」
ハンリムはタバコの灰を弾き飛ばし、片眉をつり上げた。
縞模様の肌が、薄明かりの中でぎらりと光る。
「……そいつは、信用できるのか?」
カルヴォフは短く息を吐き、視線を落とした。
「少なくとも、暗部とは対立関係にある。今は“利用できる”──それで十分だ」
ハンリムはふんと鼻を鳴らし、タバコを指で弾いた。
薄い煙が天井へと溶け、部屋の空気がわずかにざらつく。
そして、ハンリムがタバコをくわえ直しながら立ち上がると、部屋の空気がすっと動いた。
「よし、そろそろ行くぞ。訓練船が港で待ってる、港までは俺の隊の連中が道を掃除してある。邪魔は入らねぇ」
ハンリムが「こっちだ」と顎をしゃくる。
俺はその後に続き、医療棟の廊下を抜けた。
外へ出た瞬間、潮の匂いが一気に鼻へ吹き込む。
港の方角から、帆を張る音と、ロープが風に叩かれる乾いた音が響いていた。
基地の道を進むと、槍を持った海軍兵たちが敬礼しながら横を通り過ぎていく。
すべてハンリムが手を回してくれている証だ。
視界の先――
白い帆をたたんだまま静かに佇む訓練船が、港に影を落としていた。
ハンリムが言う。
「乗れ。帆を上げたらすぐに出る」
その声に合わせ、俺はタラップへ足をかけた。
横目でふと振り返ると、訓練船の前で、カルヴォフがじっとこちらを見ていた。
カルヴォフは、腕を組んだまま俺たちを見送る体勢に入りながら言った。低い声が背中に落ちてくる。
「……頼んだぞ、ボグ。 グリムにもよろしく伝えてくれ」
軽く手を上げて返すと、カルヴォフはわずかに目を細めた。
風が帆布をたたき、訓練船がわずかに軋む。
タラップが外され、船がゆっくり岸から離れ始めたその時――
俺は船縁に手をかけ、港に残るあの男へ大声を放った。
「カルヴォフ!じゃあまたなッ!」
潮風が一気に吹き抜け、声が港へ響く。
カルヴォフは腕を組んだまま、無言でこちらを見上げていたが――その鋭い目の奥に、かすかな笑みの影が宿ったように見えた。
ハンリムが横でタバコを指ではじき、煙を吐きながら呟く。
「……フン、また会えるかどうかは生きて戻れればの話だがな」
俺は鼻で笑い、胸を張った。
「生きて戻れるに決まってんだろ!俺を誰だと思ってんだ!」
すると、ハンリムが片眉を上げてニヤリとする。
「戦場より水槽が似合う熱帯魚人だろう? クックック」
「誰がエンゼルフィッシュだ!俺はカバ獣人のボグ・ドンベルだ!」
そして、船はさらに沖へと進み、カルヴォフの姿は次第に小さく港の喧騒に溶けていった。
帆船は風を受けて進み、やがて穏やかな波が砂浜の白さを撫でるあたりまで近づいた。
船底が浅瀬をかすめるザザッという音が響く。
ハンリム中将はタバコを咥えたまま船縁に肘を置き、ぼそりと呟く。
「……これ以上進むと訓練船の移動範囲を越えて、不自然になる。ここまでだ」
俺は大きく頷き、気前よく笑った。
「十分だ。ありがとよ、ハンリム!」
帆がわずかにしぼむ。
重い縄梯子を握りしめ、俺はひょいと身をひるがえして砂浜へと飛び降りた。
足裏に伝わる湿った砂の感触――
ようやく“軍都ドラケンフォートの影”から抜け出した実感が、胸の奥で静かに響いた。
そして、俺はおもむろに乾燥ミミズの塊をまるごと口へ放り込んだ。
ゴクリッ!
喉を通る瞬間、独特の風味が鼻に抜ける。
「おい! 一度に食うな!」
船上からハンリムがタバコをくわえたまま声を張る。
「栄養の摂りすぎだ、バカ者!」
俺は口を拭いながら、にやりと笑った。
「ミミズもなかなかいけるな!」
ハンリムは肩をすくめ、口の端を上げる。
「まったく……変わった男だ」
そう言って、薄く煙を吐いた。
海風が甲板を駆け抜け、帆をたわませた。陽光が波に砕け、白い飛沫がきらめく。
俺は腰に手をかけ、遠ざかっていく船を見つめる。
カルヴォフも、ダンも、ハンリムも、みんなクセのある厄介な奴らばかりだ。
――だが、あいつらがいなきゃ、ここまで辿り着けなかったのも事実だ。
そして、船は潮流に乗って、ゆっくりと視界から消えていった。
その静けさを楽しんでいたその時――
砂浜の向こう――木々の奥から、重たい足音が一斉に響いた。
ダダダダダダッ!
砂を巻き上げながら現れたのは、陸軍服を纏った十人ほどの小隊。
彼らは瞬く間に弧を描くように散開し、俺を取り囲む。
「ハァ……暗部か」
思わずため息が漏れた。
先頭に立つコヨーテ獣人の男が、唇の端を吊り上げて笑う。
「ビンゴだ! さすがは俺だぜ! 怪しげな海軍船を尾けてきて正解だったってわけだ!」
砂浜に立つ十の影が、波の音をかき消すようにゆっくりと動き出した。
包囲の輪が、じわり――じわりと狭まっていく。
息を潜めながら、俺は一歩も動かずその輪の中心で構えた。
――次に誰が動くかで、この場の運命が決まる。
……どうやら、すんなり帰してもらえる空気じゃねぇな。
胸の奥で、かすかな笑いがこみ上げる。
フェッ、まったくしつけぇ連中だ。海の上より陸の方が波が荒れそうだ。
砂浜を渡る風が止み、静寂が落ち、砂浜には重苦しい気配が漂い始めていた――
まるで、嵐の前の“呼吸”のように。
《リトルリバー》より感謝を込めて!
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