個としての確立
自己欺瞞が連結した言説支配に溺れて、人類は盲目なまま崖を踏み外してしまうだろう状況にある。したがって、理想を言えば、破滅的事態は回避すべきであり、そのためには個人主義化した自己欺瞞から少しずつでも目を覚ますことがおそらくは不可欠であり、そして、「利を逸脱した部分」こそが真に尊ばれるべき社会的な価値だという通念が人類社会の上に再生されるべきだ。それは、歴史的な感情的な実態として再生されるべきのみならず、理性を事実に対して覚醒させる論理としてより新しく再建されていくべきである。そのためには、まずは少数の優れた聖霊らが互いの存在を知り連帯して力を強めていくことが望ましい。しかしそれらすべては、現状ではほとんどまったく夢物語だ。
では、社会が変革できない状況下において、「利を逸脱した部分」について語ったことに意味はあったか? あったと私は思う。聖霊らによる猛反撃をただちに開始しないとしても、聖霊らを辛うじて生存させるために、聖霊らに意味の座標の原点を与え、呼吸しうる空間を言語の上に成立させた意味においてだ。私は、言説支配が意味を認めた語彙から逸脱した実在を概念として防衛するため、神や聖霊や霊性といった古典的な宗教的な語彙を援用してきた。それはまさに、それらが実在を超越する主観であると同時に、人間という生き物とそれが形成する社会にとって、一定の普遍的な有効性を保っているからであった。私は、神と名指しすることで神を蘇らせ、聖霊と名指しすることで聖霊を蘇らせた。
聖霊と名指しすることで聖霊は精神の内側には居場所を得た。しかし、ほとんど決して、現状では社会的には通用しない。それはそれでいいだろう。聖霊は第一には、世俗から承認されることを必要としていない。そして、正しい道さえ歩んでいれば、それが社会的に共振して変革を生む時代が、もし来たなら妥当に適応できると考えられる。宗教者にとって、一旦は、世界などまったくどうでもよいのだ。地球が爆発しようが痛くも痒くもない。そのように個を絶対的に確立した上で、その強さがゆえに、現実世界のあらゆる痛みに共感の感受性を広げていくことが有意義なのだと考えられる。神は愛だが、依存ではない。「懐く」という生の形式の、理性的な自己承認の確立だと思う。