聖霊のために自省する
そして私が説明したように、愛の価値は単なる信仰ではない。物質社会が自己欺瞞であり、言説支配が全体的には自己破滅的な不合理であるせいで、実際に愛こそが事実的な価値なのである。したがって、世俗的な価値観を説く常識に対して、聖霊の優越する価値を説く私の言説は、論理構造の整合性として科学的な客観性のうえでまさっている。したがって、国際資本(global capital)を頂点とする力の構造が、あらゆる形の手先を用いてある人の内なる霊性を否定しようとしたとき、私が言語化した論理構造は、それを何度でも必ず永遠に論破できる。だから私は、聖霊は実在であり、神は実在だと言うのだ。
一方で私は、現実問題を解決するために一見有効だとしても、マルクス主義や啓蒙思想を用いることについては、本質的には否定し、少なくとも必ず警戒を伴わせる。なぜなら、いかなる悪行を打撃するためとはいえ、相手を共感の対象外に置こうとする理性の現象は、霊性を低下させて人類の発展にnegativeに作用する可能性があるからだ。したがって、どんなに多くの苦しみを嘲笑された恨みがあるとしても、相手の苦しみを嘲笑して楽しむことはためらうべきだ。あなた自身を損なうからである。人間脳にとって偽善はあまりにも甘美であり、純粋な悪意こそは純粋な善意だと自覚されて、真の正義を加害する。人間存在を否定しない平等主義が平等の対極を実現したようにである。あなたはあなた自身の聖霊のために、他者を外部化すべきではない。聖霊なき邪悪は、嘲笑してやるにも値しないのであり、自己を相手と同列に引き下げるべきではない。
したがって、論理は常に聖霊の味方だが、あなた自身の味方だとは限らない。神の道を歩む上でどんなに成功してきた者であっても、自らを検証することをもしやめれば、必ず道を逸れていくだろう。正しい知性は必ず愛の価値へと精神を導くが、知性と論理は決して、自己愛のためのイエスマンではない。しかし聖霊は他者を愛するのだから、それが人々の幸福の実質的な向上に適っていて独善に陥っていないか自ら検証することは、聖霊の自然な内部的な要件だ。そして、失敗したと思ったら失敗したと思って、逸れた道を修正すればそれでいい。神は、最善を尽くす以上のことを求めない。