聖霊という座標原点
しかしもちろん、すでに明確に語ったように、人類の社会の秩序は個人主義へと収束したのである。そのような悪意の海で、もし「懐く」ことの実践こそ価値であるなどと誠実に生きたならば、容易に惨殺され見向きもされない。しかし一方で、言説支配(narrative control)による表層的な物質的利己主義にひたすらに迎合したところで、到底、永遠の至福が約束されるわけではない。あまりにも道具化されすべての他者を道具化した者は、やがて道具として価値が減少または不要になったと見なされて捨てられるとき、空っぽになっているだろう。ボロボロになった老いた身体しか持たず、あるいは資産や資金をことごとく失ったとき、言説支配は彼に何もpositiveな意味を提示してくれないかもしれない。「私は昔はすごかったんだ」と大声で強調しても、「今はそうではない」ことを目立たせるだけだろう。だから私達人間にとって、表層的には腐敗しきった現代世界を、内面的には霊的な価値を保持しながら生きることは、自分の幸せのためにも意義深い。
ついこの間までの歴史的な人類社会であったならば、「利を逸脱した部分」について与えれば与えられ、尊厳を認めれば認められ、愛すれば愛されるネットワークの文化が実際に実在した。もちろん、言説支配は進歩を建て前としているから、過去の社会の良い部分は否定され隠蔽されてはいる。しかしだからと言って内なる聖霊を捨ててしまえば、人間は空っぽになる。人によっては最も忌まわしいと感じるだろう、殺戮装置に加担する歯車として満足することにもなる。だから私達は、神や聖霊という概念や言葉を必要としている。生活上の実践のなかで自然に利他性の美徳を浮き彫りにすることができない時代において、私達の幸福を私達各々の主体性の座標の側に取り戻すためである。
他者を交換可能な道具として比較する者は、自己もまた交換可能な存在だと感じるニヒリズムに転落していく。しかし、自らのうちの聖霊を見つめる者は、他者についても何よりもその聖霊を測るようになる。そのような者が、経済的な貧しさを嘲笑されたらどうだろうか? あるいはあらゆる世俗的な価値尺度で嘲笑され否定されたら、どうなるだろうか? 他者を馬鹿にして笑って楽しむことほど魂においてみすぼらしい行為はないと知る者は、彼らの聖霊の貧しさを哀れむことはあるかもしれないが、自分もまた自分を否定する必要性をかかえてはいないだろう。なぜなら、言説支配に迎合したのは生活のための手段にすぎず、価値の座標原点は自らのうちの聖霊としてすでに確立しているからだ。