懐くことが愛である
神は愛である。愛とは何か? 獣の兄弟が額を擦り合わせて喜び、獣の家族が寒さのなかで身体を重ねて眠るようなことだ。愛は明らかに言葉に先立って実在する。道徳的尊厳の高い者から低い者へ手渡すパンですらない。「懐く」ことが愛であり聖霊なのだと私は思う。親が子を下に見る必要はない。親は子に懐くべきだ。人間が動物を下に見る必要はない。人間は動物に懐くべきだ。人類は自然界に懐くべきだし、地球や宇宙にも懐くべきだ。なぜか? 個人主義的な外部化の反復は闘争を招き、安定したとしても支配と搾取に終わるが、共感の拡大は調和と連帯を実らせるからだ。人類は真に神のようには永遠になれず、宇宙の万物を自己と等しく愛することはできないだろう。しかし、その霊性を進歩させていくべき方向性は自明ではないか?
獣が家族に懐くことが愛であるなら、愛の実践は誰しもにとって選択可能だろう。親が子に懐いて何の尊厳があるのか? 人間が動物に懐いて何の尊厳があるのか? それは尊厳の放棄であり、あるいは最も権威のない姿だと、近代人類の常識は言うだろう。しかし私は断言する。それは最高の尊厳と権威だ。愛着することは幼さであり、優しさは弱さだと、言説支配(narrative control)は言うだろう。それは搾取のためである。それは人間達が人間達のための連帯を実現することを阻止し、最も危険な英雄を最もつまらない道化だと言い換えるための欺瞞である。なぜなら、権力への迎合を優先して共感性の範囲を狭めることなど誰でもできる。人類に不足しているのは、保身を優先できる人材ではない。権威を誇示して喜ぶナルシストでもない。共感性を拡大し、他者の尊厳を承認することこそが、「利を逸脱した部分」つまり聖霊の作用だ。
逆に言えば、「懐く」という感情的な現象が介在しない善行があるとすれば、何か? それはどこかで、相手を見下しているのではないか? それはどこかで、相手を他者化しているのではないか? ならばそれらは、「利を求める部分」である。したがって、親が子に懐くように、神は人類に懐く。そうしてそうであるからこそ、神は最高の権威である。そして、聖霊が「懐く」ことであるなら、聖霊同士の連帯の可能性は初めから開かれており、かつ神は当然に聖霊らに懐く。だから古来、聖霊はそれ自体がすでに神の部分である、と言うのだ。そして、そんなものに最高権威の座標原点を定めたら、どうなる? 経済的貴賤で他者を蔑むことや、世俗的な地位や安寧で他者を蔑むことが、もはや相対化あるいは棄却されることは自明だろう。