利を逸脱した部分を語った
「利を逸脱した部分」について、語った。それは神であり、聖霊であり、良心であった。その語りは、現代において「利を逸脱した部分」がいかに語られなくなっているかを語るものでもあった。「利を逸脱した部分」が、人類史を通して、いかにますます語られなくなっているかを語るものであった。そして私は、人間という生き物が認知に先立って行う理性における自己正当化が、一種の視野狭窄を起こしている現実を説明した。その部分最適性は、技術発展が拡大する力の格差の上での恐怖支配として、人類社会全体においてつながっていた。そして私が明示したのは、人間という細胞の部分最適性の80億個の連結が、決して自動的には全体最適性を実現しないという現実であった。私は、不正義を「正義」と呼んだ人間達が、ついた嘘に自ら絡めとられ、進歩という夢を見ながら退歩し、幸福に近づく夢を見ながら破局へと後ずさっている事実を直視した。
その語りが事実だったとして、なぜそれを語るのだろうか? 現代人の安寧が血なまぐさい犠牲の上に成り立っているグロテスクを、見せびらかすためか? 鎮痛剤のなかで夢を見ている者達を叩き起こして、痛みを分け与えるためだろうか? 絶望と憎悪の呪いの言葉を聞かせるためだろうか? そうではない。鎮痛剤のなかで夢を見ている者達に対して、私の声は絶対に届かない。人間のなかの「利を求める部分」にとって、私が語る事実は不都合で不快でしかないからである。私はむしろ、すべての人にある聖霊に対して、栄養を与え、共振の可能性を作り出すために語りかけている。私はむしろ、構造的な欺瞞のなかで生きることが割に合わなくなってしまった人や、すでに鎮痛剤が切れて夢から目覚めはじめている人達に対して、別の快と別の意味を与えている。
「利を逸脱した部分」だけあって「利を求める部分」を完全に超克した存在は「神」として措定される。しかしそれは、すべての人に無限大の自己犠牲を求め、達成できなければ全否定しようとするものではない。「利を求める部分」がいかに大きく実在していたとしても、同じ人間のなかにある「利を逸脱した部分」は聖霊だ。国際資本(global capital)を頂点とする言説支配(narrative control)は、その価値を隠蔽し、古来から互助的に共振してきたネットワークを分断し、良心の実践が決して報われない状況を作り出したが、人間が人間である以上、聖霊は容易には死滅しない。そして、聖霊の価値を座標の原点に置くならば、恐怖支配のために偽造されたすべての世俗的な権威から否定された者について、むしろより豊かな人生をもたらすだろう。主観的にはより幸福で、客観的にはより価値のある生を、私はそこに約束する。