第一章 真由の妊娠(8)
その年、ポケバイからミニバイクへステップアップしたばかりなのに、辞めなければならない。
確かにお金の掛かるスポーツだから、経済的に苦しくて辞めていく人もいる。
けれど総一は。
新しい母のせいで辞めなければならない。
最後のレース。
そう思ってサーキットに行った。
「そーちゃん!」
友達の隆道は笑顔で総一に近づいてきた。
その笑顔が総一には痛い。
色々と話しかけてくる隆道に対して総一は黙り込んでいた。
ずっと下を向いていた。
顔を上げれば涙があふれてきそうだった。今日が最後…
そう思うと総一はたまらなかった。
辞めたくない、でも辞めなければならない。
ならば!!
今日必ず優勝してやる。
今、辞めてもしばらくはその名前が誰か一人でもいい。
誰かの記憶に残るように。
そして、自分自身でお金を稼いで再びレースに出る。
いつか必ずロードレースデビューをしてみせる。
世界にはいけなくても。
日本で凄いライダーがいるって、言われたい。
総一の目の色が変わった。
弱冠10歳。
けれども、勝負の仕方はわかっている。
隆道、負けないよ…
10歳とは思えないくらい、迫力のある走行にサーキットは沸いていた。
気がつけばチェッカーが振られ、1位。
でも総一は号泣していた。
しばらくは走れない。
そしてこの先、あの母親と一緒に暮らさないといけない。
生き地獄だ…
「そーちゃん?どうしたの?」
隆道が心配して駆けつけてきた。
答えられない。
騒ぎが大きくなりかけた時
「総一くん」
名前を呼んで総一の手を引っ張ったのは柏原夫妻だった。
「お父さんから聞いたよ」
賢司が総一の肩を叩いた。小さな肩が小刻みに震えている。
「…そうですか」
総一の小さな声が夫妻に届く。
彩子が総一の目線に自分の目を合わせて
「辞めるの?」
傍にいた隆道の顔が青ざめた。それで総一が泣いていたことに納得がいく。
でも辞めるなんて…
隆道が口を開きかけた時、総一が呟く。
「…はい。辞めたくないけど、辞めるしかありません」
「じゃあ、うちに来ない?」
賢司の言葉に総一は顔を上げる。
泣いてグシャグシャになっていた。
「今、若手のライダーを育てるプランがあってね。どうかな?」
更に。
「お父さんから色々聞いているわ。もし、君さえ良ければ、うちの家で下宿してもいいわよ」
彩子さんからそんな提案をされて夢のような感覚に包まれた。
満と離れるのは嫌だけど、あの鬼のような母親からは離れられる。
しかもレースを続けられるなんて。
「但し…子守つきだけど」
その年の春。
柏原家には待望の赤ちゃんが生まれたばかりだった。それが拓海。
何かと忙しい時期にも関わらず、賢司と彩子は大きな才能を持つ総一を預かった。
「抱いてみる?」
初めて柏原家に行った日、総一は生まれて3ヶ月の拓海を半強制的に抱かされた。
あの母親のせいで、自分は赤ちゃんを抱いてはいけない存在なのだと思い込んでいたから拓海を抱くのは怖かった。
でも、拓海から漂う赤ちゃん独特の香りと柔らかさと雰囲気が自然に総一の心を解いていった。
思わず拓海と自分の頬を擦り合わせると賢司が微笑んで
「拓海、良かったね。お兄ちゃんだよ」
そんな風に言われて少し恥ずかしかったけど、ここに安らぎを覚えた。
診察室のドアが開き、真由が出てくる。
顔色がますます青い。
総一の隣に力なく座り込むと
「妊娠3ヶ月でした」
真由の声が消えそうなくらい小さく、細かった。
ますます、お腹の子供と自分が重なる。
総一はため息をついて真由のお腹を見つめていた。
これで第一章は終わりです。
まだまだお楽しみシーン(?)に辿り着かなくてごめんなさい。