第五章 二人の門出と困惑(7)
「あら、お久しぶり〜」
高級クラブのママが満に声をかけてきた。
最初は満の知り合いか、と思った真由だったが顔をよく見ると…
「…お前」
満の目が鋭くなった。
「ひょっとして、総一?」
その女性は艶やかな目で総一を見つめる。
総一の目も鋭くなる。
間違いない。
−俺の母親か−
その心は氷のように冷たかった。
冷ややかな目がその女性に向けられる。
結局、断りきれずにクラブ内の個室に通された。
空気が重くて真由は逃げ出したい気分だ。
「出て行くのは勝手だけど」
満の声が震えている。
「総一が今までどんなに辛い思いをしてきたかわかるか?」
総一の母、貴美恵はタバコをふかした。
その目つきは何ともいえないくらい悪い。
「そりゃ、悪いとは思ってるわよ。
でも、好きになったら仕方ないじゃない?」
反省も何もない。
「じゃあなんで。
総一を産んだの?」
「それはあなたが私を拾ってくれたからよ。
それがなければ」
貴美恵の視線は総一に向けられる。
「堕ろしていたわよ」
真由は吐き気がした。
そんな事を平気で言うなんて…
そして総一を見ると顔色一つ変えずに自分の母親を見下していた。
それにも鳥肌が立つくらい、ゾッとしていた。
総一の闇の部分だった。
「じゃあ堕ろしたら良かったのに」
何の躊躇いもなく言い放った総一。
その目は人として赤い血が通っていないかのように、冷たかった。
貴美恵は不敵な笑みを浮かべて総一を見つめている。
総一は嘲笑うような、決して真由には見せない笑みを浮かべた。
そんな恐怖に満ち溢れた笑みなど…見たくはない。
それを見ている真由は恐怖を怺えるのに必死だ。
歯を食いしばるけれど、奥歯が震える。
「そんなに要らないなら、産むなよ」
総一の低い声が部屋に響いた。
今まで知らなかった総一がそこにいる。
全く別人格がいるような感覚。
真由は軽く眩暈を起こしていた。
思わず総一の手を握りしめる。
それでも総一は顔色一つ変えずに貴美恵を見つめていた。
もし、真由がこんな風に見つめられたらショックで泣いてしまう。
恨んでる…というより憐れんでいるような感じがした。
「…帰ろ」
真由が精一杯の勇気を振り絞って言えたのはこの言葉。
もうこれ以上、ここにはいたくない。
これ以上…
総一が自分を否定するのは辞めて欲しかった。
『生きている』事を否定しないで欲しい。
真由とお腹にいる子供を救ったのは総一なのだから。
握りしめた手を更に強く握った。
「父さん、もういいかな?」
総一は満を見つめて立ち上がる。
声のトーンがようやく普通に戻った。
「これ以上、ここにいても無駄だから。…今日はありがとう」
真由の手をぐいっ、と引っ張り上げて立ち上がらせる。
総一は真由の肩を抱いて部屋を出ていった。
一切、振り返らずに。
ただ真由を抱いているその手は微かに震えている。
ポーカーフェイスは常に当たり前に出来る。
けれども怒りと緊張は手の先までは隠せなかった。
−情けない…−
震える自分に対しても、自分を産んだ母親に対しても。
苦しかった。
帰りの電車の中でも。
真由とは一言も話せない。
とてもじゃないけれど話す気力なんて残っていなかった。
真由も何も話をしなかった。
ただ、震える総一の手がいつまでも止まらない。
それが気になって仕方がなかった。
やっとの思いで家にたどり着く。
少しホッとした。
それでも総一は黙ったまま、何かを考え続けていた。
リビングに力無く座り込む総一。
その後ろ姿があまりにも切なくて真由は後ろから総一を抱きしめた。
それでも総一は声を上げなかった。
重い沈黙が続く。
真由に伝わってくるのは総一の体温だけ。
やがて総一の肩が震え出す。
とうとう、泣いてしまったのか!!と真由は焦ったけれど。
…おかしい。
真由は総一の顔を覗き込んだ。
…笑ってる。
真由の顔が引き攣る。
心配してるのに…
「なんで笑ってるのよ〜」
アハハハ!!と総一の笑い声が聞こえる。
ますますムカつく真由。
「普通、先に胸が当たるのに、今の真由はお腹が先に当たるから」
総一はクルリ、と真由に向かい合って
「ごめん、真由」
総一を真由を抱きしめる。
まだ少しだけ震えている。
真由は総一の背中に手を回す。
−震えが止まりますように−
「…あんな事、一生、誰にも言うつもりはなかったんだ」
総一の負の部分が消えていつもの総一に戻っていた。
「うん…」
頷く真由を抱きしめる力を少し強める。
「あんな女だとは何となく想像していたけど。
いざ、会ってみると、本当に精神的に参るよ」
総一の参った、という苦笑いした顔が真由にしてみれば切ない。
自分の親の事をそんな風に言わなければならないなんて。
「あの時。
真由が手を握ってくれていなければ。
俺はあの女を殴り殺していたかもしれない」
いつもどこか冷めていて、レースに出ている時も、普段仕事をしている時も…。
付き合う前、総一に出会った頃は。
横に拓海がいないと話が出来なかった。
それくらい近寄りがたい雰囲気を持っていた。
母親に会った事でまた近寄りがたい雰囲気に戻ってしまったのかと思うくらい…
真由には堪え難い話だ。
「ごめん、真由」
総一は頭を左右に振った。
真由の悲しそうな顔を見ると胸を締め付けられる。
総一は真由の額に口づける。
「もう二度と、あんな事は言わないから…」
その言葉に真由は頷いた。
そう、あんな闇の自分は封印しないと。
真由と出会って間違いなく変わり始めた自分。
真由の優しさが。
穏やかさが、自分には心地良かった。
あんな母親の為に自分を乱されてはいけない。
あれは他人、だ。
総一は真由の唇にキスをする。
この温かさが自分を溶かしてくれる。
何度も何度も確かめる。
真由もそれに応える。
闇にはやがて、光が差しはじめた。