第四章 桜の花が咲く頃に(7)
「おめでとう」
帰りの車内で真由は改めて総一に言う。
「ありがとう」
でも総一は微笑まなかった。
まだまだ、始まったばかり。
これからだ。
これを踏み台にして更に上を目指さなければならない。
今回はたまたま表彰台に上がったけれど、常にこれを。
更に頂点を目指さないといけない。
常勝。
…でも、今はまだそこまでは辿り着けない。
課題は多いけれど、ひょっとしたら。
今回の表彰台も夢のまた夢だったのに、立てたから。
いけるかもしれない。
自分の歩く道が大きく変わる感触を、総一は感じていた。
「そーちゃん!!」
いきなり真由が叫ぶから総一はブレーキを踏む。
「何?」
驚きながら、真由を見つめる。
「…あ、ごめん」
急ブレーキを踏ませた事に真由は謝ると
「ほら、見て!!」
少し先の道路から、両脇に見事なまでの桜が植えられていた。
それはずっと先まで続いている。
「ここで降りたい」
真由は目をランランと輝かせて総一にお願いをする。
時計を見ると午前1時。
まだ家まではあと2〜3時間は掛かる。
少しでも早く帰って真由を休ませた方がいい。
けれど…
「そーちゃん」
真由はプニプニした頬を膨らませて言う。
「散り際の桜も良いって言ったのはそーちゃんだよー」
そこの桜は満開を過ぎ、少しの風が吹けば花びらが舞っていた。
「ね、降りよう!!」
真由はドアのロックを外し、外に出た。
総一も仕方なく外に出る。
しかし、意外だった。
このサーキットに来る時は必ず見ているはずなのに。
こんなに桜の木があったなんて、知らなかった。
地面にはたくさんの花びら。
日中、割と風が強かったからそれで散りはじめたのだろう。
総一は無数に散らばる花びらを踏む。
「そーちゃん!!」
真由は木の根元に積もっていた花びらを手で掬うとそれを総一の頭上に向かって投げた。
宙に舞う花びらは途中からバラバラになり、総一の周辺にひらひらと舞い降りた。
その昔。
総一と満が二人暮らしをしていた時。
桜が咲くと毎日仕事が終わってから夜に桜を見に行っていた。
散った桜を総一は集めてよく自分と満に降り注ぐように頭上に投げたものだ…
古きよき思い出。
また、あの楽しかった日々のようにこうやって出来るなんて。
しかもそれは一生を共にするだろう、女性と。
夢のようだった。
「お返しだよ!」
総一はニッコリ笑うと出来るだけ綺麗な桜の花びらを拾うと真由の頭にまいた。
「あー!!」
真由は『やったなー!?』という顔をして更に桜の花びらを集めた。
総一も集めてお互い掛け合う。
ここが住宅街じゃなくて良かった。
真夜中だというのに二人ははしゃいで楽しそうに声を立てて笑った。
やがて疲れたのか二人とも止めて歩道の柵に腰を掛けた。
「私、桜の花が一番好きだなあ…」
真由は息を切らしながら頭上の桜を見つめた。
風に揺れて花びらが舞い降りる。
それをそっと左手の平に乗せた。
「俺も桜は好きだよ」
総一が言うと嬉しそうな笑顔を見せた真由が
「女の子だったら『桜』がいい!!」
と無邪気に笑った。
「そうだね、それもいいかも」
総一は一瞬、真由のお腹を見て
「もし男の子だったらどうするの?」
真由はしばらくうーん、と首を傾げて考えていたけど
「桜之助」
「はい?」
総一は笑いながら言った。
「古風な名前にするんだね」
真由は悪戯っ子のように笑うと
「さすがに無理か〜」
と、頭を掻いていた。
「俺はさあ…」
総一はもし、このお腹の子に名前を付けるとしたら、と常々考えていた。
「男でも女でも、拓海から一字貰ったらいいんじゃないかって思うんだ」
その瞬間、風が大量の桜を舞い散らせた。
総一は空を見上げる。
「そーちゃん…」
さっきまで笑っていた真由は今にも泣きそうな顔をしている。
「この子が拓海が生きていた証…」
総一は愛おしそうに真由のお腹に手を当てた。
「例えば誰とでも仲良く睦まじい雰囲気になってくれるように………睦海とか。
夏に生まれたら夏海なんてね〜」
総一は真由のお腹を撫でた。
しばらくそれを見つめながら真由は考え込んでいたけれどやがて
「睦海がいい」
真剣な眼差しで言った。
「…そーちゃん、こんな事を言ったら嫌がるかもしれないけれど、やっぱりこの子は拓海くんが遺していった子。
どこかで忘れないようにしたい」
真由のその言葉に総一は満足そうに頷いた。
「じゃあ、それにしよう」
睦海、と話しかけるように総一はその名前を言うと更に優しく撫でた。
「『桜』は次の子にしよう」
真由が言ったその瞬間、総一の手が止まった。
「…真由」
総一は苦しく、切ない表情になって
「俺はそれに応えられない」
「えっ…?」
真由は聞き間違えたと思って聞き返した。
「俺は…子供はお腹の中の子だけでいいと思ってる」
真由を見つめる総一の目は悲しみに溢れていた。
真由は何も言えなかった。
今はまだ聞けない。
「…帰ろっか」
また桜が舞って総一は首を竦めた。
春とはいえ、夜の気温は低い。
「うん…」
真由はそっと総一の手を取った。
車まで手を繋いで歩く。
人の温もりを感じながら二人は桜舞い散る道を歩いた。