君を愛する事は無い、と言ったら、構いません、と返って来た件について
「君を愛することは無い」
俺は必死だった。
深窓の令嬢である婚約者に嫌われたくはない、そればかりであった。
彼女はきっと体が大きく筋肉質な男は嫌いであろう。
アーマド家は文官を輩出する家柄だ。
アーマド家の親族の男性は、中肉中背の柔らかな印象の人ばかりだ。
我がクレイマン家の男達とは違う。
我が家は軍人が多いために男達は皆筋骨隆々な長身で、親族女性に、野獣、などと揶揄われている有様なのだ。
そんな俺との閨は、考えるだけで恐怖では無いか?
そもそも、彼女には心に決めた人がいると聞いているのだ。
ならば彼女を抱いた後に起きることは、火を見るよりも明らかだ。
俺は彼女に愛されるどころか未来を潰した野獣と思われ、初夜の後は顔も見るのも嫌だと別居されるかもしれない。
なのに、子供が生まれてしまう、とか?
他人の子を自分の跡継ぎとして育てるなど絶対に嫌だが、俺はきっと彼女を手放したくないからと、結局我が子として認めてしまうだろう。
では、彼女が男を知ることが無ければ?
そこで俺は婚約式の翌週での二人きりの茶会にて、君に触れることは無いから安心して欲しいという意味で先の言葉を放ったのである。
俺にとって、夫婦の営みは、愛の行為そのものだ。
だが、白い結婚は辛いな。
きっと辛い。
けれども、最初で最後の一夜の思い出が、彼女に嫌悪されて終わったとしたら、俺は翌朝に自分の頭を銃で撃つ。
だから、ギルフォードよ、これで良かったんだ。
ほら、愛しの美しき婚約者、フィレンシア・アンバー・アーマドは、きっと俺の優しさと決断に感動して尊敬のまなざしで見つめてくれているはずだ。
…………。
俺は今自分の目が映したものを忘れようとした。
フィレンシアは美しい人だ。
赤みがかった蜂蜜色の髪はとろんと艶やかに輝き、琥珀色の瞳は黄褐色のはずが、光の加減で緑に輝く。
まさにミステリアスな琥珀そのものの彼女が、俺に向けて顔を歪めている!!
それは、俺との行為は最初から考えてもいなかったから、わざわざ言うな馬鹿野郎ってことだろうか。
いやいや、彼女は我がクレイマン家の女達とは違う。
そんな汚い言葉は使わないはずだ。
では、ええと。
「私の体に触れることを考えていらっしゃったの?ぞっとするわ」
どうしよう、自分で想像してみただけの台詞なのに、涙が零れそうだ。
と、とにかく平静に、平静になるんだ。
本物はこんなひどいことを絶対に言わないから、頑張れギルフォード!!
「あの、愛さないのは構いませんが、財産管理は出来ますの?私の財産の管理に関しては私がする、あなたの財産についてはあなたがする、という婚前契約を結婚式までにしておくべきかもしれませんわね」
虫ほども俺に興味が無いどころか、財産狙いの男だと思われていた、とは!!
確かに相続から外れてる三男ですけれども!!
現実の方が衝撃だった。
「私が、君の持参金目当ての男、だと?」
声は震えて無かっただろうか?
紅茶のカップを持つ俺の手は、しっかりブルブル震えているぞ?
「あら?私はただ、世の男性が博打で破産している話を良く聞きますので、自衛したいと思っただけですわ。だってあなたが、君を愛する事は無い、と、わざわざご宣言されたのですもの」
愛する事は無いから、博打?
ああ!!行為を彼女としない代わりを求めて散財!!そう勘違いされたのか。
そんなことはしませんよ。
だって俺は、あなただけを愛しているのですから。
俺の思考は過去へと飛んでいく。
それは俺が八歳の頃だった。
我が家の女達は幼い頃から極悪で、俺は幼い頃は彼女達に虐められるばかりであった。神様が十二歳までに犯した罪は全て無かったことにしてくれるからか、本当に俺の従姉妹達は極悪だった。
年齢一桁時代は女の方が体が大きくて力も強いしな!!
けれど俺も頑張った。
俺より三歳年上で、俺を虐める従姉妹達のボスであった奴を突き飛ばした。
あいつは、デカい奴だった。
俺は弾かれ、壁に背中からぶつかった。
すると丁度そこに俺の父が出現し、現場を見られた従姉は言った。
「いっつも妹達を虐めるから、つい!!」
濡れ衣を着せられた俺は、親父の師匠が修道士となっている修道院へ、行儀見習いとして一年間預けられる事になった。
しかし結果を考えれば、実はそのことには感謝している。
後日謝って来た従姉に対しても、広い心で許してやったぐらいだ。
なぜならば、父の師匠、ベルフェムは素晴らしい人だった。
薬草に詳しく教養が高く、剣の腕は一流。
どうして修道院にいるのか不思議な人だが、彼のお陰で俺は楽しみながら知識を吸収でき、兄達と比べない彼によって剣の手ほどきも受けられたのだ。
そして修道院に預けられていたからこそ、俺は美しき琥珀に出会えたのだ。
ベルフェムは薬草を近くの女子修道院に分けていた。
二週間に一回俺はベルフェムに付き添って女子修道院の門をくぐっていた。
「ギル。あの子を見守っておあげ」
「師匠?」
ベルフェムが指さした修道院の中庭には、修道院にはいなかった少女がいた。
けれど自分のように行儀見習いで預けられたにしては服装がきれいだ。
そうじゃない。
歩き方から何から、彼女は全体がきれいなのだ。
俺はベルフェムが促すままに彼女へと近づく。
行儀見習い中の俺は修道服を着ていた。灰色の寝間着の様なチュニックに縄をベルト代りに結んでいるというみすぼらしい格好である。
それなのに彼女は俺の出現に脅えるどころか、俺ににっこりと笑う。
従姉妹達の意地悪笑顔と違い、なんて彼女は柔らかく優しい笑顔なのだろう。
「あなたの瞳は綺麗ね」
俺はハッとした。
思い出の中の少女の声が、いつもの回想と違って大人びていたからだ。
今のは、フィレンシアが?
俺は、思い出の少女が成長した彼女を見つめる。
フィレンシアは先程の冷酷な言葉など無かったようにして、俺に向かってにっこりと微笑んだ。あの日のように。
「何か?」
なんだその言い方は!!俺!!
仕方ないだろ、まともな声も言葉も出ないんだよ!!
勝手に葛藤している俺など知らずに、フィレンシアは言葉を続ける。
「あなたの瞳は綺麗な色だなって。矢車菊の色ですわね」
「ぐふ、んん」
喉が詰まった。
あの日の優しかった彼女が、あの日と同じ言葉で俺の瞳を褒めたのだ。
「ありがとう。君の瞳も中々のものだ。古代の神秘を閉じ込めた琥珀のようだ」
なんで偉そうな物言いしているの、俺は!!
おまけに褒め方が陳腐だ。
確かに琥珀の精のような美しさの彼女だけど、俺の物言い恥ずかしすぎ。
「ま、まあ。ありがとうございます」
フィレンシアは俺のヘタな褒め方に対し、嬉しいばかりという笑みを返した。
やっぱ、優しい!!
可愛い、純粋!!
あの日の彼女は笑顔で俺に尋ねてもくれたのだ。
「どうして剣を持っていらっしゃるの?」
その瞬間、彼女に向かって小枝が飛んできた。
俺は鞘に入ったままの剣でその小枝を弾く。
それから彼女の質問に答える。
胸を張って。
「騎士になる為です」
あなたのような方を守るために!!
俺は(毎日思い出しているけど今日は初めて)思い出したあの日の素晴らしさに癒され心が落ち着き、次に褒める時は失敗しないと決意しながら紅茶を啜る。
「――子供は何人まで欲しいですか?」
「ごぅほ、おおう、ごほっごほっ」
いま、今はなんて言った?
今の台詞は俺の幻想ではなく、本物のフィレンシア、だよな?
どん。
俺の背中が拳で殴られた。
殴ったのはフィレンシアで、顔付は、心配している?
どん。
「ぐふ」
どん、どん。
痛い、痛い。
もしかして、俺の酷い咽を治そうとしてくれているのだろうか。
でもね、フィレンシアさん。その場合は手の平で優しく叩いてくれ。
拳で突きあげられると肺が痛むから止めて。
そんなことは言えない。
それに見てくれ。
俺を心配した顔で必死に俺を殴ってくれているんだよ。
もう大丈夫だよって抱きしめたい!!
「だ、大丈夫です。せ、席に戻って下さい。ごほっ。私に触れたり近づきすぎれば、あな、あなたのっ、ごほっ。評判に関わります!!」
頼む、これ以上は俺の肺と俺の良識が壊れそうなんだ。
頼む、俺は君を守る騎士でいたい。
「だから、私と結婚しても二年だけ我慢されれば大丈夫です。わ、私はあなたを愛しません。き、清い結婚は離縁する事が出来ます」
フィレンシアは光の加減で緑に見える瞳を輝かせたが、なんだか赤く見える。
聖なる炎が燃えているのか?
「フィレン――」
「あなたのその潔さ、心に響きましたわ。家同士の結婚では、あなたにどんなに愛した方がいても断れませんものね」
え?俺?
「いえ、あの、私の方は他に愛する人など、あの」
「ええ、ええ、了解しました。愛する人に関しては隠されたいのでしょうから追及しませんわ。ちゃんと協力しますからご安心なさって」
ええ?
どうして俺に愛人がいると決めつける?
俺はそんなに行為をしなければ死んでしまう野獣に見えるのであろうか。
「でも、お願いがありますの。私のお願いは、きっとあなたでなければ叶えられないわ」
「お願いとは何でしょうか?」
俺は自分を奮い立たせた。
姫君の為にドラゴンに命を捨てて向かって行く騎士のような気持ちとなって、彼女の願いを受け止めたいと発奮していた。
「なんだって約束します。何だって叶えます」
「ありがとうございます。お恥ずかしながら、あなたと離縁した後は、父は私に別の男性をあてがうでしょう。それも親心かもしれませんが、私には男性のことは分かりませんわ。父親が選んだ人なのに不幸になった方の話はよく聞きます。ですからお願い。私の結婚相手について見極めて頂けますか?」
「お断りします!!」
俺は叫んでいた。
どうして愛する人を諦めた自分が、愛した人を愛した人が愛してもいない男へと差し出さねばならないのか。
「まあ!!お約束して下さったのに!!あなたは自分の愛した人以外がどうなっても構いませんのね!!」
「あなたこそです!!私と別れたら、あなたこそ愛する方の元に行けば良いでは無いですか!!」
言ってしまった。
思わず言ってしまった。
これで彼女に俺の気持を払いのけられる。
俺の心が彼女には邪魔なものになれば、俺は彼女を想う事も出来なくなる。
俺の心はそこで死ぬ。
「私に、愛する人?私にはそんな悪い評判が立っておりますの?」
え?
あいするひとがいるということがフィレンシアにはわるいひょうばん?
俺の思考はぐにゃぐにゃだ。
え?
「――あなたに愛する人はいない?」
「意中の男性と言う意味でしたら、今も昔もおりません」
「だけど!!あなたは言ったはずだ、憧れの君がいる、と。聖騎士になっただろう方を忘れられないと」
「それはどちらでお聞きしましたの?」
「あなたのルームメイトは私の従妹です」
そうだ俺は聞いたのだ。
三つ年下のランディスが、俺の婚約話を耳にした途端に、意地悪そうに顔を歪め、おあいにく様ね、アーマド嬢には想い人がいるわよ、と。
俺はその後、想い人がいるわよ、のリフレインに殺されそうだった。
「あら。確かにランディスの姓はクレイマンでしたわ。よくある姓だと思っておりましたがご親族でしたか。世間は狭いのね」
「多産なもので、クレイマンがよくある姓となっていて申し訳ありません」
「いえいえ。あの子は少々お転婆でしたから、あなたとイメージが重ならなかったのね。あなたは思慮深いお方ですから」
これは釘刺しだろうか。
あのお喋りをなんとかしろよ?出来なきゃどうなるか考えろ?という。
いやいや、優しきフィレンシアは言葉通りなだけで、二重に意味など含ませてなどいるはずは――なくてもあのお喋りは黙らせねば。
フィレンシアの評判を悪くされたら大変だ。
「お喋りな従妹については注意しておきます。それで、あなたの憧れの方について教えて頂けませんか?聖騎士ならば修道士のようなもの。女犯は戒められております。けれど、一目でも会いたいとお望みならば、私はあなたの為にその機会を設けましょう」
「――それは無理ね」
「もしかして、お亡くなりに?」
「いいえ。不明ですがあなたには調べられないでしょう。何しろ女子修道院で出会った方です。私はまだ六歳。あの方は八歳。溌溂とした美しい少女で、将来は騎士になると夢を語って下さりました」
……。
…………。
………………。
俺か?
俺だった?
俺が想い人?
そうだよ、俺だよ。
従姉妹の誰よりも俺が美少女に見えるから許せないと、それで俺は従姉妹達に虐められたのでは無かったか?
俺はいつの間にか両手で両目を覆っていた。
真実を見極めようと、全く真実が見えていない両目を無意識に隠していたのかもしれない。
いや、俺が思う真実と事実が違った場合を恐れて、無意識に目を閉じようとしていただけでは無いのか?
顔を隠せているならば、どんな真実を受けても俺自身の悲しみは隠せる。
俺は情けない姿のままで、しかし勇気を振り絞ってフィレンシアに尋ねた。
その修道院の名前を教えて欲しいと。
「エスタージュ女子修道院ですわ」
瞬間、俺は大声をあげていた。
俺だ、やっぱり俺なのだ!!
俺は顔から両手を下ろすと、自分を心配そうに覗き込む婚約者の手を取った。
彼女を彼女の椅子に座らせるためだ。
やり直さなければ。
俺は彼女との結婚について、やり直しの宣言を上げねばならない。
椅子に座らせたフィレンシアは、俺の振る舞いに引いている。
わかっている。
だが、これは俺には必要なので、もう少しだけ付き合ってくれ。
俺はフィレンシアの前に跪くと、彼女の右手を取って両手で掴む。
「私と結婚してください」
「もうすでに婚約はしております」
「白い結婚ではなく、本物の結婚をしてください。私はずっとあなたを想っておりました。私はあの日のあなたの想い人です!!」
「でも、愛さないって」
「あなたに想い人がいるならあなたを汚さないように、行為をしない、という意味です。誤解させてしまい申し訳ありません」
「い、いえ。ええと」
「では、行為のある結婚を私としてくれますか?」
フィレンシアの答えは俺を泣かせるばかりだった。
「私は矢車菊が大好きなの。あなたの瞳を毎日見つめられるのは素敵ね」
幸せな結婚生活が約束された答えだが、俺の質問の答えじゃない。
夫婦生活をしていいの?だめ?
ああ、俺が先走って馬鹿な事を口走ったばっかりに。
彼女は深窓の令嬢過ぎる!!