第6話 お義兄さん、またお弁当持ってきたよ
朝、鏡の前でネクタイを締める。
「あの人にはクビだと言われたが、解雇通知書を受けたわけではないから無効だよな」
あの人とは俺の父親のことだ。
結婚式当日に花嫁が略奪されたことで自分が恥をかいたと激怒したあの人に、控室で怒鳴られたあげくクビを宣言されたことを思い出す。
俺は父親の会社、一ノ瀬商事のシステム開発部に勤めていた。
一ノ瀬商事は日本の八大商社の一つに数えられるほどに大きな会社だ。
しかし、五本の指に入るほどではなかった。
あの人はそれをよく思っておらず自社をもっと大きくしたいという野望を持っていた。
俺の元婚約者であった姫乃さんの父親の会社である藤咲グループは、一ノ瀬商事を遥かに上回る大会社だ。
そして、藤咲グループは会社を継ぐ男を探していた。
そこに俺という要らない人間を押し付けることで強固な関係をもてるならあの人からすれば願ったり叶ったりだったろう。
俺と姫乃さんの結婚はいわば政略結婚だったというわけだ。
実際、結婚式までの婚約してからの期間も藤咲グループ関連で仕事を頂くことが増えていた。
結婚してこの先に藤咲グループを継ぐことになった俺を裏で言いなりにして自分の会社をより大きくするという魂胆もあったのだろう。
だがその野望は打ち砕かれた。
その理由はいうまでもなく、俺と姫乃さんの結婚が破談になったからである。
藤咲グループと一ノ瀬商事という大会社の娘と息子の結婚式ということで各企業の重役たちも祝いに駆けつけていた。
そこであんなことになったものだから誰よりもメンツと体裁を気にするあの人が激怒するのは予想の範囲内だ。
仮にも息子である俺にねぎらいの言葉をかけることなく、むしろ略奪される側にも責任があるんじゃないかと言っていたのはさすがに予想外だったが。
「あの人は俺を息子ではなくて、都合のいい駒かなにかだと思ってたんだろうな」
準備の合間にコーヒーマシンにセットしていたカップを手に取り、テーブルへと運ぶ。
「まあ、俺もあの人を父親としてみていなかったが」
イスへと腰かけ、コーヒーを一口すすってから、ひとり呟いた。
連勤や残業、休日出勤があたり前になっている俺は体を目覚めさせるべくコーヒーを飲み、カフェインを摂取するのが日課になっていた。
「それよりも仕事だ。何日か休みをもらっていたがみんな大丈夫かな」
俺は結婚式のために慶弔休暇をもらっていた、結婚式の次の日も休みにしていたおかげで助かった。
体育会系のあの人は営業が全てで、システム開発部の俺たちのことを指示すれば勝手につくり出す機械だと考えている。
そんな考えと、近年になって立ち上がった部署であることからシステム開発部は会社内で軽んじられる傾向にあった。
無茶な仕様やスケジュール、少ない人員や予算により運営されているこの部署はいつもギリギリだった。
その状況を打破するべく、とあるシステム開発に着手しそれがようやく完成間近で軌道に乗りかけていた。
そこにきて俺の急なクビ宣告だ。
あのクビ宣告もウソだと思いたいし、もし本当にクビになるならせめて引き継ぎをしなくてはいけない。
あの人やあの人の会社になんら思い入れはないが部署のみんなには愛着がある、迷惑をかけたくはない。
そんなことを考えながら、もう一口、コーヒーを飲もうとしたそのとき。
――ピンポーン。
インターホンの音が家に響いた。
「こんな朝早くに誰だ?」
ん? この言葉、昨日も言った気がするな。
胸にひっかかりを覚えながら、イスから立ち上がりドアホンの映像をみる。
そこには見覚えのある美少女が映っていた。
寧々ちゃんだ。
今日も赤のインナーカラーが黒髪に映えていて、首には黒のチョーカーがついている、そこにはゆとりあって寧々ちゃんがとても細く華奢であることを示していた。
昨日と変わったところでいうとニットベストにリボンをつけているところだろうか。
『お義兄さん、おはよ』
昨日と変わらない様子で寧々ちゃんは淡々と挨拶をする。
「寧々ちゃん、今日はどうしたの?」
『お弁当持ってきた』
寧々ちゃんはカメラに映るようにキャラクターが描かれているお弁当を掲げた。
「え、今日も?」
『うん、お母さんが褒めてもらって嬉しかったからってまた作ってた』
なるほど、俺が感謝を伝えたことが裏目に出てしまったということか。
それをまた寧々ちゃんが持ってこさせられたのか、寧々ちゃんには悪いことをしたな。
「わざわざありがとう」
受け取らないわけにはいかないよな。
しかし、寧々ちゃんにここまで持ってこさせるのも忍びない。
「受け取りに行くからそこで待っ――」
『お義兄さん』
少し食い気味に寧々ちゃんから呼ばれる。
いや、これはドアホンのラグのせいだろう。
寧々ちゃんが話をさえぎることなどしないはずだ。
「ん?」
『お弁当とはべつに、あるものを返しにきたの』
寧々ちゃんはお弁当をしまい、別のものを手にした。
それは昨日俺が寧々ちゃんに貸した着替えのスウェットだった。
そういえば、昨日返してもらっていないことに気づかなかったな。
あのとき律儀に持って帰って洗ってから返しにきてくれたのか。優しい子だな。
『借りたのは私だから、私が持って行くね?』
「いや、それは……」
悪い、と言おうとしたのだが、眉尻をさげて申し訳なさそうにしている寧々ちゃんの顔をみて俺は考える。
ここで俺が取りにいけば、恩着せがましくなってしまうのではだろうか。
優しい寧々ちゃんのことだからその恩を返そうと思ってしまうかもしれない。
ここは素直に相手の要求を飲み込もう。
「おじゃまします」
玄関先で受け取るだけにしようと思っていたのだが寧々ちゃんに「お弁当、今から食べられる?」と聞かれた。
なんでもお義母さんから俺の食べている様子をみて、それを教えて欲しいとお願いされたそうだ。
なので家に上げることになった。
作った側からすれば、美味しかったのひとことよりもそのほうが嬉しいのかもしれない。
食べるところを寧々ちゃんに見られるのは恥ずかしいが、動画を撮られるよりマシだ。
それに朝ごはんとして頂くことでお弁当箱を返せるしちょうどいい。
昨日はいろいろあって言い忘れたが、お弁当を作ってもらうのはやめてもらうように伝えよう。
ありがたいけどまたお義母さんに作ってもらうのも、それを寧々ちゃんに持ってきてもらうのも申し訳ない。
だって、俺と藤咲家はただの他人なのだから。
「先にこれ返すね、ありがとう」
寧々ちゃんからスウェットを受け取ると、ふわっと甘く優しい匂いが漂う。
柔軟剤なんだろうか、俺が使っているのとは香りが全然違う。
目覚めたときに嗅いだ匂いもたしかこんな感じだったような?
そんなことを考えながらスウェットをしまいに自室のクローゼットへと向かう。
それから少し早足でリビングに戻り、テーブルの席につく。
早足になったのは、早くあのお弁当を食べたいと思ってしまっている自分がいるからだろう。
作ってもらうのをやめてもらおうとしているのにも関わらず、お弁当を楽しもうとしている俺がいた。
それくらいに昨日食べたお弁当の味は俺の味覚を刺激し、心を満たしてくれたのだ。
そして、手を合わせて目の前のお弁当に感謝の言葉をいう。
「いただきます」