第32話 新さん、明日も慰めてあげるね?
病室、隣にはベッドの上で眠ったように動かなくなっている母さんがいた。
冷たくなっていくその手を俺は握っていた。
『母さん……』
これまでの心労がたたり、母さんは床に伏せるようになっていたが、その生活も今日で終わりを告げた。
辛かったのだろうか、楽しかったのだろうか。
安らかに眠る母さんの顔をみればその答えが少し分かるような気がした。
母さんがまだ話せるほどには元気だった頃、言われた言葉がある。
『今まで苦労掛けてごめんね、これからは新の好きなことを好きなようにすればいいんだよ。だから幸せになってね……』
俺は母さんが好きだった。
だから母さんのためにすることが俺の好きなことだったのだが、母さんからすればそれは違うと思ったのだろう。
母さんを追い出したあの家を見返すために俺は必死になって勉強した。
床に伏せるようになってからも自分の生活と、治療費のためにアルバイトをした。
それから俺は自身の実力で一ノ瀬商事へと入社した。
誰にも頼らずに自分の力だけで戦いたかった。
あの人に俺を認めさせることで、母さんを認めてもらいたかったのだ。
他にも世間の目や、言われのない声を全て覆したかった。
それは徐々に叶いつつあったが母さんはもう亡くなってしまった。
そこでぽっきりと折れて、生きる希望を見失ってしまった。
そして今日に至るまで、父親であるあの人が病室に顔を出すことはなかった。
連絡をしても音沙汰がなかった。
母さんのために生きていたこの生涯が一気に色褪せていくのを感じた。
打ち上がる花火の音が俺を急かしているかのように聞こえた。
いたたまれなくなった俺は、病室を飛び出して、ひとりあてどなく彷徨っていた。
歩いているときに病院からほど近くにある、あの橋を思い出した。
『……もう、いいか』
そう思うと足取りが軽くなる気がした。
「そうして歩き続けたその先で、寧々ちゃん、君が居たんだ」
寧々ちゃんははっと息を飲んでいた。
初めて聞いたのだから驚いているんだろう。
「俺は自分が飛び降りようと思っているのに、どうしてか目の前の女の子には生きていて欲しくて。矛盾している気持ちはわかっているんだけど、目の前で命が失われることはもう嫌だったんだ」
夕暮れから徐々に暗くなっていく空にあの日が重なる。
「そしてあの日、寧々ちゃんを救ったようで、俺は寧々ちゃんに救われていたんだ。この子に生きて欲しいって言った俺が、頑張らないのは違うなって思ってさ」
「そうだったんだ……」
口を開いた寧々ちゃんは小さく声を漏らした。
「そう、だから本当に感謝しないといけないんだ。俺を間接的に傷つけたとか気にしなくていい、だってあの日俺は寧々ちゃんに生かされたんだから」
「また寧々はなにも知らなかった……」
落ち込みそうになっている寧々ちゃんに俺は声をかける。
「知らないことなんてこれからも沢山ある。俺だって寧々ちゃんがお弁当を作ってきてくれてるのを知らなかったんだ」
「それは……、ごめんなさい」
「謝らなくたっていい、知ってからどうすればいいか考えればいいんだよ。それで全然遅くないと思う。だからこうして寧々ちゃんに感謝を伝えにきた」
寧々ちゃんをみつめて俺はいう。
「本当にありがとう。寧々ちゃんは俺に救われたのかもしれないけれど、俺は寧々ちゃんに二回も救われているんだよ。だから寧々ちゃんは誰がなんと言おうがいい子なんだ。寧々ちゃん自身が自分を悪く言っても、俺は胸を張っていい子だって言うから」
「新さん……」
寧々ちゃんの瞳から一粒の涙が溢れた。
その姿はどこか幻想的で美しいとさえ思えた。
だけど、と俺は声を一段低くして告げる。
「俺は寧々ちゃんにひとつ言いたいことがある」
「え、どうしたの……?」
怯えている寧々ちゃんを前に俺は続ける。
「最後に出かけたあの日、俺に心残りのないように自分にちゃんと友達がいて、アルバイト先でしっかりやっている姿を俺にみせてくれたんだよな」
「それは……そうだけど」
やっぱりそうだった。
成長した姿をみせることで、もう絶対に飛び降りたりしないってところを俺に示してくれていたんだ。
全部自分の保身のためなんて言って置きながら寧々ちゃんはやっぱり俺のことを考えてくれていた。
本当にいい子だ。
「その気持ちは嬉しかったけど、俺は急にいなくなったことを怒っている」
「え……、え?」
怒っているという言葉を聞いておろおろとする寧々ちゃん。
「俺はもうあのお弁当なしでは生きていけないんだ」
「え〜?」
「だって、あのお弁当は美味しすぎる。好みドンピシャだ。毎日作って欲しいくらいだ」
「ま、毎日? そんなの無理だよ。新さんアメリカに行くんでしょ?」
そうだよね? と寧々ちゃんは俺の顔を伺う。
「アメリカには行かないことにした。もう結衣さんにも言ってある」
寧々ちゃんと会っていなかったときに、俺は結衣さんに会って話をした。
アメリカでの仕事の話は魅力的だったけれど俺はそれを断らせてもらった。
『わかったわ。心のどこかでこうなるんじゃないかって思っていたの。じゃあ帰ることにするわね』
そう言葉を残して、残念そうな表情で結衣さんは去っていった。
「誰かに与えられた選択肢じゃなくて、俺は好きなことをして好きなように生きると決めた。このままアメリカに行ったとしても多分上手くいくんだと思う。けれどどこか惰性で生きていくような気がした。それにやっぱり寧々ちゃんがいないとどこか元気が出ないんだ……俺はおかしくなってしまったんだろうか……」
「怒ってたのに、落ち込んじゃった」
寧々ちゃんの言う通りだった。
それに俺の感情は迷子になっていた、まだ道が定まっていないのだろう。
「もうしょうがないなぁ、寧々がいないとだめなんだから。じゃあ、」
――――新さん、明日も慰めてあげるね?
微笑む寧々ちゃんの姿は、目の前に天使が降り立ったようにみえた。
あの日の悲痛な少女の姿はどこにもない。
「新さん――」
続けて寧々ちゃんがなにかを言おうとしたそのとき。
夜空を覆い隠すような大輪の花が咲いたあと、腹の底に響く音がした。
「花火だ」
俺たちはそれに気を取られる。
病室で聞いていた花火だったがこの橋の上からは割と近くでみえるようだった。
「寧々ちゃん、さっきなにを言おうとしたんだ?」
「……なんでもない」
彼女はそっぽ向いてどこかに行こうとする。
俺は追いかけようと一歩踏み出したとき、寧々は振り返って俺に近づいてこう言った。
「なんてね。新さん大好き」
直後、頬に柔らかい感触が当たる。
俺は頭がぼーっとする。暑さでやられてしまったのだろうか。
「言いたいことはなにがあっても言おうって決めたの。花火なんかに寧々の気持ちはさえぎらせないんだもん」
寧々ちゃんの頬は赤く染まっていた。
花火が照らしているせいではないんだろう。
俺たちはこの橋の上で以前には見下ろしていた景色を、二人して見上げることができるようになったのだ。
暗く深い、夜の底ではなく。綺麗に輝く、光の花を。