第30話 それは本当ですか?
信じられないことを耳にした俺は、思わず聞き返す。
「……それは本当ですか?」
「ええ、恥ずかしながら。私は手先が不器用ですので料理はできませんの」
どういうことだ、理解が追いつかない。
鼓動が徐々に早くなっていく。
「そうなんですね……。あの智子さん、他にも聞きたいことがあるのでよろしければいくつか質問させていただいてもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「ありがとうございます」
俺は了承をとったあと、ひとつひとつ確認していく。
「姫乃さんは料理はできますか?」
「姫乃ですか、あの子も料理はできなかったかと思います。私よりも、その、酷くて……。ただ失敗するだけではなくとんでもないものを作り出してしまいます」
昔、姫乃さんが手作り弁当を作ってきてくれたことがあるのだが、それも違ったということか?
「家族のなかで料理ができるのは寧々だけですね、普段は料理人が在中しているので彼らにお任せしています」
俺が頭に疑問を浮かべていると智子さんが先行して答えてくれる。
たしかにそうか、大グループを統べる藤咲家ともなるとお抱えの料理人がいて自ら料理をすることはないし、伴侶となる人に求められるのは料理ではなくもっと別の資質なのだろう。
智子さんの発言の中でひとつ引っかかったことを尋ねる。
「寧々ちゃんが料理をできるんですか?」
「ええ、あの子はとっても上手ですよ。料理長から指導を受けたり、祖母から料理を学んだりしていたので。それに高校に入ってからはいつもお弁当を持参しているくらいですから」
なんと寧々ちゃんが料理上手だったとは。
いつもおかあさんの名前を出して自分は普段料理をしない素振りをみせていたから気づかなかった。
けれどスーパーでの食材選び、俺への料理の指導などでレシピを見ずに教えている場面が何度があった。
暗記をしたからじゃなくて体が覚えていたというわけか。
「では智子さん、料理のレシピを書いたことはありませんか?」
「はい。料理ができないのでレシピを書くなんてとてもではないですができない芸当です」
念のため確認したのだが、当たり前の回答が返ってきた。
レシピ通りにするのも難しいのにレシピを作るなんてもっと上級の行為だ。
思い返してみれば、レシピに書かれてある字は寧々ちゃんの勉強ノートにある字と筆跡が似ていた。
考えてみれば気づけるポイントはあったのだ。
「新さん先ほどからなにをお聞きになりたいのでしょうか。いえ、少し推察できなくもないですが……。新さんになにがあったのですか?」
まっすぐに俺の目をみて智子さんが問う。
俺は深呼吸してからここ最近でなにがあったのかを伝えることにした。
「智子さん、怒らないで聞いてください。結婚式の次の日、寧々ちゃんがお弁当を持って俺の家を訪ねてきたんです。それもおかあさんに頼まれたからといって」
「なんと、まあ!」
智子さんが目を見開いて口元をおさえていた。
それもそうだろう、知らないところで自分の名前が出されていたのだから。
「その次の日も、いえ、それから毎日お弁当を持って俺の家に来てくれました」
「あの子ったら、最近なにかあると思っていたのですが家に押しかけていただなんて。藤咲家のものがご迷惑をおかけして重ね重ね申し訳ございません。新さんにはなんとお詫びしたらいいのか……、あの子には強く言い聞かせますから」
「寧々ちゃんを怒らないであげてください。俺にも謝らなくて大丈夫です」
狼狽えている智子さんをなだめて俺は続ける。
「たしかに初めの頃は元婚約者のご家族の方に会うなんて気まずいなとか、もう関係がないはずだから厚意であったとしても受け取ってはいけないよなとか、色々と考えて困っていました。けれど、いま思えばあれがなかったら自分はどうなっていたか分かりません」
あの日々を振り返る。
お弁当の優しくて丁寧な味と栄養のバランス、人の温もりが感じられるそれは一人暮らしの俺にはとても助かることだった。
そして次の日も寧々ちゃんが家にくるということ、それが心の支えになっていたことは事実だ。
「そう言っていただけますと、幸いです」
智子さんは煮え切らないような面持ちだったが理解してくれたのだろう。
「そうだ、様子がみたいから写真を撮ってきてって頼んだこともないですよね?」
「いえ、それは恐らく頼みました」
なに、写真を頼んでいたのは本当だったのか。
「新さんであるとは知らずにですが。それにしても、ふふ、大きくて一見怖いけれど実は繊細でかわいい黒い大型犬ですか……本当にその通りですね」
「えっと、どういうことでしょうか?」
「いえ、すみません。こちらの話です」
智子さんが唇に手を当ててなにかを思い出すかのように微笑んでいた。
深く聞きたくなったのだが後回しにして続ける。
「ではエプロンも智子さんはご用意されていないということですね?」
「エプロンですか? それはいったいどんなものでしょうか?」
「これなのですが、見覚えはございませんか」
質問されたので俺はスマホにある写真をみせて確認する。
お弁当もそうだが、物をもらっていたのならお礼をしなくてはいけないと前から思っていたのだ。
「あらあら、二人して料理を作っているんですか? 仲が良さそうですね」
「いや、あの! これは、その……」
エプロン単体の写真はないので着ているところしかなかったのだが、よりにもよって寧々ちゃんが撮った自撮りを母である智子さんにみせてしまった。
慌ててスマホをポケットにしまう。
恥ずかしい、体温が上昇して変な汗をかく。
ちなみに写真は寧々ちゃんからブルートゥースを使って送りつけられたものだった。
承認するまで何度も送って来るものだから拒否できなかったのだ。
「残念ながらそのエプロンに見覚えはございません。でもその写真をみて新さんが怒っていないことを知れて安心しました」
智子さんはほっと胸をなでおろしていた。
さっきからの問答で気づいたが、恐らく本当に智子さんはなにも知らない。
全部寧々ちゃんがしたことなのだろうと分かったのでこれ以上の質問はやめることにした。
「私から少しお話しよろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょう」
俺ばかりが質問をしていたので、次は智子さんの話を聞くことにした。
「話とは、ここ数年の寧々についてです」
母である智子さんからみた寧々ちゃんについてか、気になるな。
俺が黙っていることを肯定ととらえてくれたのか智子さんは話を続ける。
「寧々はとても素直になりました、自分のしたいことを追求して、嫌なことやしたくないことにはきちんと理由を添えた上で断るようになりました。母としては喜ばしいことです。それによって新さんの家に押しかけるという結果になってしまったのであればそれはお恥ずかしいことなのですが……」
「いえ、それは気になさらないでください」
「ありがとうございます。寧々はこれまでは自分をあまり出さずに周りに合わせたり、周りの期待に応えようとするばかりで寧々の本音の部分は見えづらかったように思います」
前の寧々ちゃんはそうだったのか。
俺が失敗した料理をだした時は美味しくないとちゃんと言ってくれたし、気を使って相手に合わせるのではなく、相手のことを想って自分の意見をいえる子だった。
「これまで通っていた小中高の一貫校である女子校から天ヶ峰高校に進学を決めたのも、高校に入ってから見た目が変わっていったのも、仲の良いお友達が増えたのも、アルバイトを始めて自立しようとしたのも、料理を始めたのも。そして、なにより笑顔が増えたことも」
智子さんは木漏れ日に照らされて、嬉しそうに微笑んでいた。
「いまにしてみれば、そうなったのは三年前、新さん、あなたと出会ったことがきっかけだったのではないかと考えています」
俺がしたことが寧々ちゃんの中のなにかを変えるきっかけになったのだろうか。
「最近はほんとに楽しそうでした、それは新さんと会っていたからですね。だけどここ数日は元気がありません、もしかしたら寧々は家に来ていないのではないですか?」
「そう、ですね……」
「やはりそうでしたか。つまり、そういうことなのですね」
「どういうことでしょう?」
「申し訳ございませんが、私も想像の域をでませんので、不確かな内容を新さんにお伝えすることは控えておきます。できればあの子から直接聞いてやってください」
それはそうだ。
あくまでも智子さんが感じたことであって、寧々ちゃんの考えではないから不用意に話すの違うだろう。
だったらなぜ、寧々ちゃんは俺のところに来ていたんだろうかと考える。
誰かにお願いされるわけでもなく、お弁当を作って毎日家に来る理由はなんだったのだろう。
そして、来なくなった理由はなんだろう。
それを考えたら寧々ちゃんに無性に会いたくなった。
顔をみて話が聞きたくなった。
「あの、智子さん、寧々ちゃんは家にいますか?」
「いえ、今日は出かけると言ってましたよ」
出かけるのか、だけど今日は休日だから探せば見つかるはずだ。
「寧々に会いに行かれるのですか」
「はい。どうしても寧々ちゃんに会って話を聞きたいのと、感謝を伝えたくて。それでは失礼します」
俺は智子さんに寧々ちゃんの連絡先を聞くことなく走りだす。
なぜなら一刻も早く彼女に会いたかったからだ。
連絡先を知らなくとも会える気がしていた。
寧々ちゃんのことだ、きっとあの場所にいるだろう。
だって今日は――。