第2話 お義兄さん、おはよ
「じゃあ、シャワー浴びてくるね」
制服を着た美少女が静かに言って、お風呂場へと消えていく。
ほどなくして脱衣所からは衣ずれの音が聞こえる。
部屋には女の子特有の甘い匂いが漂っていた。
そのせいか変に緊張する。
どうしてこうなっているかだが、話は少しだけ遡る。
◇ ◆
婚約者を略奪された次の日の朝。
天気は俺の気持ちを代弁するかのように記録的な大雨だった。
「ああ、憂鬱だ」
ベッドに横たわり、ひとりつぶやく。
思い出したくもないに頭には昨日のことばかりが浮かんでくる。
二人が式場を去ってからは散々だった。
まず、前代未聞の騒動に式場は大騒ぎとなった。
花嫁がいなくなったのだから当然だ。
花嫁不在では式を続けることができず、あえなく中止となった。
「お招きしたのにも関わらず、このような事態になってしまい大変申し訳ございませんでした」
それから来賓の方々ひとりひとりに謝罪した。
反応はさまざまだった。
かわいそうだと哀れむ人。
労いの言葉をかけてくれる人。
せっかく来たのになんてことだと怒る人。
略奪される側にも責任があるんじゃないかと嘲笑する声も聞こえた。
裏切られた絶望感、やるせなさや情けなさ、いろいろな感情が胸に込み上げた。
だけど俺はその感情を腹の底に沈め、吐きそうになるのを堪えながら、ひたすらに頭を下げ続けた。
頭を下げるたびに、大理石の床に自分の顔が反射してみえるのがたまらなかった。
その表情はやつれており、ひどいものだった。
そして、式場でお世話になっていたスタッフの方々にも謝罪をした。
姫乃さんがぎりぎりまで迷っていたのだが、それに根気強く付き合ってくれたプランナー。
好き嫌いが多い姫乃さんの要望に答えるためにご無理を言ったのにも関わらず快諾してくれたシェフ。
ほかにも、介添人や司会者にカメラマン。
多くの人が関わって準備してくれていたことを改めて実感した。
控え室に戻ると父が乗り込んできて『大勢の前で恥をかいた、どうしてくれる! 最後まで役に立たないやつだったな!』と怒鳴られたうえに『お前はもう一ノ瀬家の人間ではない』と勘当された。
続けざまに『今日付けでお前はクビだ』と宣言して、控え室を扉を壊れるくらいに強く閉めて出ていった。
呆然と座っていると、姫乃さんのご両親が入ってきて謝罪を受けた。
『娘が本当に申し訳ないことした』とご両親にそろって土下座されてしまった。
これまで式にかかった費用や公衆の面前で受けた精神的苦痛による慰謝料などを支払うと告げられた。
お二人はなにも悪くないのだから謝罪はやめてもらうよう伝え、お金も受け取らないと言ったが、
『お金でどうにかなるわけではないの分かっている。君へのせめてもの償いだ、受け取ってもらえないだろうか』
そう懇願されたので、場を収めるためにも受け取ることを承諾した。
まだまだ事後処理は残されていた。
二次会のために押さえていた店へのキャンセル。
引き出物の処分。ご祝儀の返却作業などなど。
全部ひとりで処理した。
作業に没頭することで現実逃避したかった。
タキシードを着て謝る姿はとても滑稽だっただろう。
全ての作業を終えて帰宅したときにはとっくに日付が変わっていた。
疲れ切っているはずなのに、俺はどうにも寝付けず、こうして朝を迎えてしまった。
「これから俺どうしようかな……」
目を閉じて考える。
『今まで苦労掛けてごめんね、これからは新の好きなことを好きなようにすればいいんだよ。だから幸せになって……』
突如、脳裏に母の言葉が浮かぶ。
「好きなことを好きなように、か」
お金ならある程度まとまった額がある。
仕事に追われて時間がなく、おまけに趣味がないせいでこれまで使うことがなく貯金していた。
それに、投資もしていたので、その利回りだけで必死に働かなくても生活ができるほどだった。
つつましい生活を送るという大前提ではあるが。
「ひとりでひっそりと平穏に暮らすというのもいいな」
その中で好きなことや趣味を見つけて気楽に過ごすのも悪くない。
これまでできなかったことをやって青春を取り戻すというのもありだろう。
漠然とではあるが今後の人生の方針が固まってきた、そのとき。
――ピンポーン。
インターホンの音が家に響いた。
「こんな朝早くに誰だ?」
ベッドから起き上がり、ドアホンの映像をみる。
そこには制服を着た黒髪のロングの美少女が映っていた。
一見すると清楚系なのだが、髪は赤のインナーカラーが入っており、髪を掛けている耳には無数のピアスが開いている。
首には黒のチョーカーを付け、赤いカラコンをつけた目元にある小さなホクロが印象的だった。
『お義兄さん、おはよ』
鈴を転がしたような澄んだ声がした。
俺をお義兄さんと呼ぶ人物はひとりしかいない。
姫乃さんの妹であり、俺の義妹にあたる高校生三年生の女の子。
藤咲寧々ちゃんだけだ。
「おはよう寧々ちゃん、朝からどうしたんだ?」
『お母さんが、お義兄さんにお弁当持って行けっていうから、学校行く前に持ってきたんだけど?』
なに、お義母さんが?
あの人は温和でとても優しいから、俺を心配してお弁当を作ってくれたのだろうか。
負い目を感じて行動させてしまったようで申し訳ない。
だけどもう藤咲家にとって俺は他人だ、関わることは避けた方がいい。
すでにご両親からは謝罪を受けた。
これ以上はもうなにも受け取らない方が健全だろう。
だから、ここは断るべきだ。
「すまない、ありがたいんだが――」
『ねえ、シャワー貸して?』
「しゃ、シャワー?」
『うん、お弁当持ってくるのに雨でびしょ濡れになっちゃったから。お願い』
よく見るとドアホンの映像越しに制服のシャツが体に張り付いているのがわかる。
「でも、いや、それは……」
『……寧々、風邪ひいちゃうかも』
くちゅんと、可愛いくしゃみをするのがみえた。
この大雨のなか、お義母さんのお願いでわざわざ来たくもないのにおっさんの家までお弁当を届けにきてくれたのだ。
そのせいで寧々ちゃんが風邪を引くのはかわいそうだ。
俺は渋々だが家にあげることにした。
わざわざ来てくれたそのお礼や、雨に濡れて風邪を引いてしまわないようするためなどもあるが、お義母さんの好意をむげにすることがやっぱり俺にはできなかった。
「おじゃまします。お義兄さん、みて、めっちゃ濡れちゃった」
玄関に入るなり、自分が濡れていることをアピールするかのように手を広げて見せてくる。
体に張り付いた制服のシャツから黒いブラが透けているのに気づいた俺は思わず顔をそらす。
「わ、わかったから。早くシャワー浴びて学校に行くんだ」
そんな格好を見られるのは恥ずかしくないのだろうか?
いや、十八歳からみれば二十七歳の俺のことなんて男としてみていないのかもしれない。
「ほらお義兄さん、靴下までぐっしょりだよ」
いつのまにか靴下を脱いでいる。
短いスカートからは白く綺麗な足が伸びていた。
「な、なんで靴下脱いでるんだ」
「だって、足が濡れたままじゃ部屋にあがれないじゃん」
たしかにそうだ。彼女はなにも悪いことはしていない。
彼女はカバンからハンカチを取りだして足を拭いてから、家へ上がった。
「お風呂場どこ?」
「あっちだ。タオルは置いてあるから好きに使っていい。服が乾くまでの着替えはこれを貸す」
俺は寧々ちゃんがエントランスから家に来るまでに着替えを用意しておいた。
着替えを渡しに脱衣所に行ったら、裸の寧々ちゃんとご対面なんてのは万が一でも避けなければならないからな。
寧々ちゃんは俺の差し出したスウェットをじっとみて固まっていた。
「俺の部屋着だから嫌だと思うが、少しの間だ、我慢してくれ」
「うん……。我慢する」
こくんと頷き、ゆっくりと受け取る。
年頃の女の子がおっさんが着てた服を着るなんて嫌だよな。
まあ仕方がないことだが、そんな反応されるのは少しショックだ。
「あ、これお弁当」
寧々ちゃんはハッと我に返ったかのように学生カバンからお弁当を取り出した。
かわいらしいキャラクターがプリントされた二段弁当だった。
お義母さんのセンス若くないか?
まあ、あの人は二十代でも通用するような見た目をしていたが。センスまで若いとは。
「ありがとう」
「じゃあ、シャワー浴びてくるね」
ということで今に至る。
残された俺は、受け取った弁当をテーブルの上に置き、少し考える。
今日は有り難くいただくとして、お義母さんには今後は必要ないと寧々ちゃん伝てに言ってもらおう。うん、そうしよう。
それにこのお弁当箱、返さないといけないよな。
明日以降に洗って返すという手もあるが下手に関係が続くのは避けたい。
「だったらいま食べる必要がある、か」
昨日からなにも食べていないし、ちょうど腹をすかせていた。
「では、いただきます」
お弁当を開けると、一段目には肉じゃが、塩じゃけ、小ネギ入りのだし巻き玉子などといったおかず。
二段目には赤紫蘇のふりかけられたご飯と俺の好きなものばかりだった。
俺はまっさきに大好物である肉じゃがを口へと運んだ。
「……美味しい」
以前、姫乃さんが初デートで作ってくれたお弁当に入っていたのもとても美味しかったのだが、それ以上の感動を受ける。
なるほど。あの味はお義母さんの味を受け継いでいたということか。
ほかのどれを食べても繊細で美味しくて、とても丁寧に作られているのが分かった。
胸があったかくなるような優しい味だった。
それから箸が止まることはなかった。
そろそろお弁当を食べ終わろうとしていたとき。
「お義兄さんシャワーありがと。え、どうしたの!?」
シャワーを浴びおえて俺の部屋着に着替えた寧々ちゃんが出てくるや否や、普段は出さないような大きな声をあげた。
「どうしたの、ってお弁当を食べ終えるところだが」
「それはみれば分かるよ。私がききたいのはどうして泣いてるのってこと!」
「え?」
言われて初めて自分が涙を流していることに気づく。
「あれ、え。本当だ。どうして、だろう……」
「ごめんね。美味しくなかった? なにか変なもの入ってた?」
「いや、違うんだ。むしろ美味しすぎて……、人の温もりの感じるご飯を食べたのが久々だったからかもしれない……」
変なところ見せてしまってごめん、と俺は笑いながら謝った。
場を和ませそうとしたのだが寧々ちゃんは俺を見つめ、
「――無理に笑わなくていいんだよ」
酷くつらそうな顔でそう言った。
ああ、年下に気を使わせてしまったか。
俺は情けない気持ちになる。
「そうだ。制服だが、浴室乾燥機があるからそこで乾かすか? それかビニール袋に入れてドライヤーをつけようか? 早く乾かさないと学校に間に合わなくなるよな」
誤魔化すために強引に話題を変えて立ち上がる。
途端、視界がぐにゃりと歪む。
すぐに体に強い衝撃が走る。
「お義兄さん?! お義兄さん!!」
寧々ちゃんが焦りながら駆け寄ってくるのが分かる。
その声を最後に、俺の意識は途切れた。