放課後
「あー。もうやだ。できないし。俺には才能ないんだぁぁぁ」
放課後の校内は吹奏楽部のトランペットだったり、サッカー部の掛け声だったり、どこかのクラスから聞こえる下品な笑い声だったりで、騒がしい。
「お前なんかさ、ギターもめちゃくちゃ上手くて顔も良くって、成績だって上の方じゃん」
ギターに体重を乗せ、ブーブー文句を言っているのは、射し込む夕日と同じ色に髪を染めている榊泉。
指が上手く動かないという不満が、目の前にいる後輩にぶつけられているらしい。
「何ブーたれてんすか。俺に教えてってクラスまで突撃してきたの、先輩の方じゃないっすか。俺に当たらないで下さいよ」
理不尽な文句の言われ様に依澄理生は、毎回同じやり取りをしているにも関わらず、飽きる事なく明るく返してくれる、出来た後輩だ。
***
入学してからまだ一週間経たない頃。
まだクラスメイトの名前も、顔も覚えきれていない時期に、彼はキラキラな髪色と同じ笑顔で理生の前に現れた。
「俺にギター教えて」
「……」
まだ誰にもその事を漏らしてもいないし、自分から自慢話の様に切り出す話題でもない。
音楽を習う中で、ピアノを選択する子どもはいても、理生の様にギターや、ましてヴァイオリンの様な馴染みのない楽器に興味を示す子どもは少数派だ。
同じ中学から同じ高校へ進学した同級生もいるが、幸か不幸か、互いにただ名前を知っている程度の認識で、言葉を交わした事があったかどうかも定かではないので、友だちでない限り、理生がギターを弾ける事など知りはしないだろう。
そんな中、緑色の名札をつけた先輩が突然そう言って乱入してきたものだから、注目を集めても仕方ない。
「え……と」
まだ名も知らぬ先輩が飛び込んできてから1年D組の喧騒はパタリと止み、その場にいるみんなの視線のほとんどは理生に向いている。
「あなた、誰ですか?」
それは冗談でも何でもなく、素直に口からこぼれた台詞。
別に注目されるのが恥ずかしいとか、音楽やってる人間は気取ってみられるから言わないようにしていたとか、そういう周りの音には興味がない。
心が動いてしまうのはあの人の音を聴いている時だけ。
「俺のこと、知ってるんですか?」
いろいろと思い出そうとしてみても、というか、ただ、頭を使うのが面倒くさくなったからというか、単純に考える事を止めた。
まるで「待て」をされ、「よし」と指示されるまで、「ハッハッハッ」と息を荒くし、期待に尻尾を振る犬の様で、その姿を見ているのが楽しくなってしまったからだ。
というより、こんな目立つ外見の、周りに自然と人が集ってきそうな知り合いなど、近い年齢層にはいない。
「知ってる。だから君に教えてほしい」
「俺の方はアンタなんか知らないけど」
「榊泉」
「はい?」
「アンタじゃないよ。サカキイズミ」
「……あ。……そう」
机一つ分間に挟んではいるが、榊泉と名乗ったその先輩は、両手を机に、身を乗り出している。
邪念なんて微塵も感じさせないその笑顔は、自分の頼みは絶対に断られないという自信しかなさそうだ。
めんどくさ。
理生は、彼にも分かる位に息を大きく吐いてみる。
「レッスン料は?」
「は?」
「俺の時間を使うんですから、何かしら対価は必要じゃないですか?」
我ながら可愛くない。
けれど、相手が断られないと自信満々な表情なのもムカつく。
きょとん、と、目を丸くする先輩に向けて、作り笑いで右手を前に差し出す理生。
その仕草が何を意味するのか位、言わなくても分かるだろう。
「ひでえ。お金とるのかよ」
「ええ。まぁ」
別にお金が欲しい、とまで言っていないが、そう受け取られても仕方ない言い方と仕草ではあった。だが、程よく断るにはある程度「嫌な奴」と思われた方が、相手も二度と近付いてはこないだろう。
「じゃあさーー」
ーーキーン・コーン・カーン・コーンーー
一瞬思案の表情を浮かべた榊泉の表情がパァッと華やいだ瞬間、能天気なチャイムの音。
「じゃあ、次までに考えてくるから!」
「……はい?」
嵐の様に自分勝手にその場を荒らし、平然と去って行ってしまった彼の耳に、理生が聞き返したその言葉が肯定として届いてしまった事を知るのは、この4限目の数学の授業が終わり、再び、対価を手にした榊泉が戻ってきてからだった。
***
「まぁ。あの後、泉先輩がいちごみるく片手に大騒ぎをしてくれたから、こうして教える羽目になっちゃったんですから。……俺の言う通り、しっかり練習して下さいよ」
練習が疲れたと赤ん坊の様に駄々捏ねをする泉に冷たい視線を送った理生は、机に置かれている可愛らしいピンクの紙パックに視線をずらす。
「何だよ今更。いいって言ってくれたろ」
「あんな風にクラスで騒がれて。しまいには『可哀想だから引き受けてやりなよ』て周りから責められて……。断れる人間が居ると思いますか?」
当時の状況を思い出し、理生は冷たく言い放つ。
「俺だってこうして時間作ってるんですから、真面目にやって下さいよ」
「やってるって。ただ、指が痛いんだよー」
両手をブラブラ回し、手を握ったり閉じたりを繰り返しながら、泉は「何かいい練習法ないの?」と、到底可愛いとも言えない仕草で見つめてくる。
「あったら俺が知りたいです」
「ブーブー」
呆気なく交わされ、泉はつまらなそうな声を出す。
「もういいですか?俺、これからバイトなんで」
言われて時計を見上げると、時計の針は4時30分を少し過ぎた場所で止まっている。
「そっか。もうそんな時間か」
傷だらけのギターケースに、傷だらけのギターを仕舞った理生は、程々に教科書を入れた鞄を手に持つと「家でもしっかり練習して下さいよ」と立ち上がる。
ヒラヒラと手を振る泉は「ありがとなー」と、声を上げ、人好きのする笑顔で後輩を送り出しながら、彼の足音が遠ざかるまでそれを続けた。
「……」
ガタン。
と。
続けて教室の扉が閉まるのを音で確認した泉は、軽く振っていた手を下げ、力なく机の上に突っ伏した。
「あー。やっぱ緊張する」
色んな音が交わるその空間で、泉のその声は誰にも届かない。
顔が頬をこえ、耳や首まで赤いのは、差し込む夕陽のせいだから。
もし、今、何も知らない人間が扉を開けたら、そう説明すればいい。
それでも泉は、今の自分の顔が誰にも見られてしまわぬ様、落ち着くまでこの状態でいるつもりでいた。
あの時、気の向くままに理生に声を掛け、今ではこうして対面して教えてくれるまでに、警戒を解いてくれた理生。
それは、対価で払っている「いちごみるく」のせいかもしれないし、もしかしたら他の理由があるのかもしれない。
それでも近付く勇気の出せなかった頃と比べれば格段の進歩である。
警戒心を隠そうともしない三毛猫に、甘いミルクを与え続けた結果が、今、である。
「あ。アイツ」
少し熱の冷めた顔を上げた先に、今日渡した指導料が泉の視界に映った。
「せっかく渡したんだから飲んでけよ」
泉はガタッと椅子から立ち上がると、結露で雫が机を濡らすそれを手に取り、ハンカチで拭き取った。
ぬるくなったいちごみるくは、想像しなくても甘ったるくて不味そうである。
泉はそれを自然と自らの鞄に仕舞い、濡れてしまった手を乾燥させると、再びギターをその身に構えた。
「次は2本分渡さないと何か言われるかな」
練習しないと、理生にぶつくさ文句を言われるが、実はそれが嫌ではないのが困りどころだ。
嫌ではないが、愛想を尽かされると困ってしまう。
何だかんだグチグチいいつつも、丁寧に教えてくれるのは、嬉しいけれど、逆に戸惑ってしまう。
指の押さえ方や、姿勢。
少しでもポジションが崩れると、それを正してくれる。
息がかかる距離に寄られるだけでも身体がこわばってしまうというのに、教える為に躊躇なく触れてくる彼の手入れされた指が自分をなぞる度、心臓が大きく鳴る。
緊張するのは一方的で、相手は何も感じていないに違いない。
教えてくれる声は、真剣で。
ジュース一本じゃ足りない程、きちんと教えてくれるので、泉はその他の対価として理生に勉強を教える事もあった。英語限定ではあるが。
泉は胸いっぱい空気を取り込み、一瞬止める。
そうしてそれを最後まで吐き出してから「よし」と喝を入れると、再びギターに向き合った。
ここまでお読み下さりありがとうございます
特に事件が起こることなどもなく、のんびりと進んでいく物語です。
更新は本人たちと同じくゆるゆるめです。