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二輪霊日記 2 The Diary of Ghost Rider 2

作者: ヘイゲン

 走る二輪のエンジンは規則正しい鼓動を刻み続けていた。伝わる振動は僕の腕を痺れさせ始めていたが、変わらない景色の中ではまるで進んでいないようにも思えた。無限に続いているかのような木々の配列の中で二輪を止めた。向こうに横たわる倒木をかなり前に越えたような気がしたからだ。

 

エンジンを切り「おや、ひょっとして山の中をぐるりと回っていただけなのかもしれないぞ」と気配のする方へ声をあげてみたが返事はない。二輪を降り厚底ブーツでドカドカと辺りを踏み歩いてみたが自分に影が無い事実を思い知らされただけだった。しばらく倒木に腰掛け横切る蟻の行列を眺めた。強い風が木々をざわめかせ蟻たちの影を揺らした。


振り返ると二輪の向こうに男が立っていた。毒づいて駆け寄ると「傾いていますよ」とスーツ男が笑顔で地面を指差した。男はセールスマンのようにも見えるが全体に薄汚れている。首には巻き付いた赤黒い筋がシャツ衿から顔を出していた。もちろん男に影は無い。


「山で笑いかけてくるモノに笑い返してはならない」いつかの山歩き男の言葉を思い出した。確かに土にサイドスタンドがめり込んでいる。倒れた二輪ほど惨めなものはない、まず第一に見る者を不安にさせる。僕は黙って二輪を引き上げスタンドに平たい石を噛ませた。そしてもう一つ小ぶりの石を握って立ち上がった。


「いいモノをお持ちですね。これがあれば何処でも行ける。私みたいに迷って歩いているよりはるかに心強い。ところでどちらまで行かれるのですか」スーツ男は笑顔を崩さない。

「迷ってなんだって」僕は強いてぶっきらぼうに言った。

「いや、山で迷ったら引き返すのが鉄則らしいですが何処へ引き返せばいいのかが分からないのです」

「川でも渡ればいいだろう。影の無いヤツはだいたい川を渡るもんだ」

「そうですか、川を渡る訳ですね」スーツ男は礼を言い嬉々として森の奥へと歩いて行った。


適当に言ってやったが案外正論だったのかもしれないぞ、と握っていた石を放り投げた。どうやら森の向こうに川もあるようだし、こっちも行く場所ができたという訳だ。


すると突然ブンという羽音。咄嗟に体を反らせて手を振り回す。見上げると空を覆い尽くすほどの蜻蛉が群れていた。いつのまにかすっかり囲まれていた。また不意をつかれた。時折何匹かがぶつかるように接近してくる。威嚇か、蜻蛉には僕が見えているのか、空がブンブンと鳴っている。


「生きた昆虫を食べる蜻蛉は肉食だからね、蜻蛉の群の下には案外動物の死骸があるかもしれないよ。ほら、あそこ」と山歩き男が大きく手を打つと、ワッと黒い塊りが一斉に飛び上がり、人が現れたという。

「あの時の羽音が今も頭の中で鳴っているよ」

「それは崖から落ちる前の話かい」

「いや、前か後かなんて覚えていないよ、君もそうだろう」

落ちた山歩き男に蜻蛉がたかっていたかどうか、僕は知らない。


「そうだ蜻蛉の羽や足をむしって炒めればけっこう美味いかもしれないぞ、こちらには塩胡椒もある。今夜は蜻蛉炒めだ」と思いついた。そうと決まればまずは網の代わりの帽子だな、と荷台のロープを緩めバッグの中を探った。


おや、移した視線の先に人がいた。向こうの暗い木々の中から男がじっとこっちを見ている。スーツ男とは違う。今度は無表情、黒っぽい作業服。男はまだこちらを見ている。いよいよ我慢できなくなったのか森から出てきた。見える人間が近づいてくるのなら厄介だ。僕は蜻蛉を諦め二輪にまたがりキックした。


しばらく走って二輪を止め斜面からのぞきこむとなるほど川があった。日が落ちる前に焚き火のネタを集めておく。石を積み焚き火かまどをつくる。そしてかまどを中心にぐるりと石の結界を張った。川幅は狭いが流れる水音が大きい。スーツ男は無事に川を渡れたのだろうか、などと思ううちに日が暮れた。


ジャク、ジャク、ジャク、背後から石を踏む音。

ジャク、ジャク、ジャク、焚火をする僕の横でピタリと止まった。

「冷えますな」結界の向こうから男が話しかけてきた。

「ちょっと火に当たらせてもらってもいいかね」

手に釣竿を持ちフィッシングベストを羽織っている。僕の許可も無く片足がすでに結界の中に入ってきた。間違いない、生きている人間だ。顔を上げた時には釣男は易々と結界を越え焚火を挟んで僕の向かいに座った。手をすり合わせ、感謝の言葉を述べている。


「火のお礼にどうです、一杯」とリュックからポットを取り出し揺らした。

「イワナの骨酒です。私はこれに目がなくてね」釣男に渡された器から湯気が上がっている。少し口をつけると炙ったイワナの香りが口いっぱい広がった。熱い塊りが喉を伝わり降りていく。釣男がイワナの話を始めた。


「どうです? 身をほぐすと味が変わってまた美味いんです」と箸を渡された。パチッと小枝がはぜ火の粉が夜空に吸い込まれた。確かに美味い。身体の隅々に染み渡っていく美味さだ。案外生きていた時、僕は酒飲みだったのかもしれないぞ、と酔いとともに少し嬉しくなった。自分の事が分かるということは気分が良いものだ。見上げた山間の狭い空には星があふれていた。


目を閉じてもまぶたの裏で星がまだチカチカと瞬いている。こめかみが痺れてきた。目を開けると焚き火の炎が眩しい、今度は目が開けていられないほどの輝きだ。どういうことだ、あまりにも眩しすぎる、と思ったとたん身体がグラリとして河原に崩れ落ちた。


「よし、時間ぴったり」釣男の声が聞こえた。

「美味いものを食って飲んで死ねたら幸せだろう。骨酒にフグの肝をたっぷり入れてやったからな、美味かっただろう。もう痺れちゃって声も出ねえか。心配するな、もうすぐ息もできなくなるから。昼間お前さんを見たときにヤバイと思ったのよ、こりゃ見られたなってね。後をつけるのも大変だったよ、ちょっと待ってろ今友達を連れてくるから」


唇が分厚く膨れ上がった感じで口の感覚が無い。顔の痺れがみるみると全身に広がっていった。もう指も動かせない。言われた通り虫の息になった。動かせるのは目玉だけだった。

ジャク、ジャク、ジャク、石を踏む音がゆっくり近づいてきた。なぜか耳はよく聞こえた。


「おい、くたばったか?仲間を連れてきてやったぞ、戻ってきた釣男が陽気に言った。

「コイツは重い、うん、バカはバカに重い」掛け声、ドスン。

「やれやれ、まずは一杯」ゴクリと喉を鳴らし釣男はウヒィーと奇声をあげた。

「鍋もちょうどいい具合じゃないのか」飲み食いの音。やがて鼻歌を歌い出した。

「二人仲良くフグにあたって死にました、美味いもの食って死にました、ヒ、ヒ、ヒ」ご機嫌に笑い出した。


「ペッ、なんだよ、こいつ、鍋になにを入れてやがる」

ひとしきり唾を吐く音。

「ペッ、ペッ、ペッ、トンボかこれ」

吐瀉物の音。

「ヒ、ヒ、ヒ、あれ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、おかしい、笑いがヒ、ヒ、ヒ、止まらねぇ。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」


僕はゆっくり立ち上がった。まだ全身に痺れが残っていたが妙に気分が良い。釣男は手足をばたつかせ目を見開き顔面を引き攣らせながらも笑っていた。横に転がっているのは昼間のスーツ男の抜け殻だった。焚火に照らされ揺れる顔にはまだ笑みが残っていた。そして釣男は騒々しく口から泡と蜻蛉を吹き出し続けていた。


「鳥兜さ」

焚き火の向こうに山歩き男が立っていた。手に鮮やかな花束を持っている。

「あと毒茸をブレンド」山歩き男は言った。

「せっかくろ、ぼくろ、ろんぼらべに」

せっかくの、僕の、蜻蛉鍋に、と言おうとしたが、まだ舌が痺れて呂律が回らない。

「あのさ、言っておくけど、シオカラトンボは塩辛くないのだよ」

「しろ、おしょう、はろっている」

塩、胡椒、は持っている、と言ったつもり。

「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、」釣男が答えた。


パチパチと小枝が鳴った。山歩き男は手にした鳥兜の花を一つ一つ千切っては火に放り込んだ。その度に炎は紫色に染まった。酔いが覚めるように体の痺れも解けてきた。辺りが白んできた。静かになった釣男は大きく痙攣した後動かなくなった。 僕は結界の石を崩して慣らした。山歩き男は焚き火の後始末をしてくれた。そして河原には鍋と二つの抜け殻が残された。


山歩き男は釣竿をひょいと手に取りしなりを確かめるように竿を振った。ひゅん、ひゅん、ひゅん、と小気味良い音がした。

「せっかくだからもらっていけば」

「あ、戻ったね、調子はどう」

「すっかり冷めたよ」

「もらっていいのかな」

「いいよ、いいよ、持っていけばいい」

山歩き男は僕に礼を言って竿をたたんだ。

「イワナが釣れたら、骨酒を作ってよ」

「コツザケ?酒は興味ないな」

「フグの肝も案外いけるもんだよ」と言おうとしたがやめた。


歩く山歩き男の背に朝日が差していた。迷彩マウンテンパーカーの左肩の裂け目が光っている。たぶん固まった血だろう。そしてそれっきり朝霧の中に見えなくなった。僕は荷物を抱え斜面を登った。向こうに二輪があった。うずくまっているように見えた。サイドスタンドが外れて太い幹に寄りかかっていた。土にめり込まないようにうねった根っこの上にサイドスタンドを立てていたのだが滑ったようだ。


ブンと羽音がした。見上げればまた蜻蛉の群。

「お前さん達は塩辛くないんだとさ」と声を掛けた。

起こした二輪にまたがりキックした。エンジンは一発で始動した。


「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、」森の奥から笑い声がした。

「さ、お、か、え、せ、」

「さ、お、か、え、せ、」と聞こえてくる。

僕はニュートラルのままアクセルを大きく開けた。タコメーターが跳ね上がりエンジン鼓動が響き渡った。そして何度か回転を繰り返した。アクセルを戻すともう声は聞こえなくなっていた。僕は満足してゆっくり二輪を走らせた。




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