宿屋のbarでピンクの髪の少女が……
「おい、お前いつまでイラついてるんだ?」
「べっつに~」
「なんだ? 金の節約ってことでこの安宿を選んだのがそんなに不服か?」
「それもあるけど、別にそういうのじゃない。ほっといて。ちょっとしたら治るから」
「そうか……。気分が悪いんだったら言えよ? 体調管理は人生の基本だ」
「今もなおスイーツ食いまくってるアナタに言われたくない台詞ね」
「うぐ……これはその……ほら、運動すると甘いものが食べたくなるだろう?」
「節約訴えるんならそれも我慢したら?」
「……善処しよう」
申し訳なさそうにうなだれるリヒトに背を向けるようにしてベッドに寝転がるヴィナシスは、薄暗い壁を見ながら闘技場で想起したあの記憶のことを考えていた。
すでに夜の帳が落ちてきた街を眺め見るように夕日が山のほうに傾いて、反対側から満月が顔を出し始める。
リヒトは窓のほうまで歩き、まだ甘い匂いを孕む夜風に顔を当てた。
夜ともなれば様々な種類と質の酒の匂いに変わる。
その名残惜しさを覚えつつ、リヒトは夜の煌びやかさを瞳に映した。
「お前もこっち来てみろ。いい眺めだ。高級宿でなくとも、この美しさは変わらないと思うんだが」
「……ロマンチストのつもり? 詩でも披露してくれるのかしら」
「詩心のひとつでもあれば是非聞かせてやりたいが、生憎そういうのに縁がなくてな。最近の流行りも知らないんだ」
「ふ~ん……」
起き上がったヴィナシスは黙ってリヒトの隣へ来る。
リヒトも黙ってスペースを開けた。
本来敵同士だが、こうして並んで窓の外を眺め見るのは泥酔する以上に奇妙な気分だ。
既知と未知の部分が絶妙に融合したこのパラレルワールドで、互いのことを知っているのはお互いだけ。
不安がないといえば嘘になる。
同時にここへ飛ばしたモルスたちへの怒りもないと言えばそれも嘘だ、お互いに。
「私も人間の流行りは知らないわ」
「だろうな」
「でも、スイーツが美味しいのは良い」
「だろう?」
「……ねぇ、私がアナタの記憶を忘れてるって件だけど」
「お、ようやく信じてくれるか」
「保留よ」
「なんだって?」
「待ちなさい最後まで聞く。別に全部嘘だって突っぱねる気はもうないわ。それに、もしかしたら思い出せるかもしれない」
「そりゃ本当か?」
「多分ね」
「よしわかった。なにか思い出したら言ってくれ」
夜が色を濃くする中で街の賑わいも消えていく。
変わった兵装をした兵士たちが動員されて見回りの頻度が多くなっていった。
「まだ夜になってそう時間は経ってないはずなのにずいぶんと物々しい」
「厳重警戒態勢ってやつ? 集めた情報になにかなかったの?」
「……確か、夜間外出禁止令だったか。2年くらい前からそうなっているらしい。理由までは教えてくれなかったが」
「ふぅん、まぁどうでもいいわ。お風呂入るわねぇ」
「あぁ、────ん? え?」
……シュル、シュル。
ベッドのほうまで移動したヴィナシスは、リヒトにかまわずおもむろに衣装を脱ぎ始めた。
「ちょ待て待て待て! いきなり脱ぐのやめろこのドアホ!」
「じゃあ見ずにそこに突っ立ってなさいよ。あ、見たら殺すから」
「だったら急に脱ぐな! ……フロントのバーに行ってくる。大人しくしてろよ」
脱ぎかけでジットリとした視線を向けるヴィナシスを見ないように、リヒトはため息交じりに退室する。
彼女のマイペースは今に始まったことではないが、敵対関係では見れなかった一面に狼狽を隠し切れないでいた。
(ったく、変に驚かせやがって。気分直しにバーで酒でも飲むか)
安宿の中に設けてあるバー。
彼がここを選んだの理由のひとつでもある。
甘い物も好きだが酒も好きな彼には十分な宿だ。
ドアを開けると、小さな間取りと薄暗い雰囲気の中で紳士然とした店主がグラスを吹きながら出迎えてくれる。
「安いのでいい。一杯頼むよ」
「……」
「ツケの心配ならしなくていい。俺は酒に敬意を払える男だ」
顔を下に向けながら手で顔を拭っていると、コトリとカウンターの小気味よい音とグラスと氷の音がする。
しかし目の前に出されたのは水だった。
「……サービスが下手なのか、ジョークが下手なのか、悩むところだな」
「どちらでもないサ」
「なにっ!?」
顔を上げると店主の姿はない。
その代わりにピンク色のショートヘアーの少女が目の前に立っていた。