安寧が取り戻されて
絶望の夜は開けて、新たな1日を迎える。
ニグレドによって殺人鬼となったダンサー・イン・ザ・レインは消え失せ、街に平和が戻ったのだ。
兵士たちに見つかる前に、ふたりは宿へと戻り、シェオルは彼奴が遺した衣服を持って立ち去った。
「ふぅ、まぁまぁのできね。お陰で睡眠時間がパァよ」
「だな。チェックアウトまで時間があるしひと寝入りするか?」
「その前にオーフーロー」
「今度は向こうで脱げよ」
「……一緒に入る?」
「バカ」
ヴィナシスの軽口を適当に返しながら、リヒトはベッドに寝転んだ。
ドアを隔てた向こう側で、小粋な鼻歌と水が肌を撫でて弾ける音が聞こえてくる。
ひと仕事終えた疲れと緊張感の緩みと、彼女の鼻歌を子守歌にリヒトはウトウトとし始めた。
暗い視界の中で、風呂の音とは違う水の音が聞こえてくる。
────ザァァァァァアアアアアア……。
(雨か……)
まどろみの中で窓の外から聞こえる雨音に耳を澄ませる。
今日にでもここを発つつもりだったが、なんともタイミングが悪い。
だが不思議なことに、不快感はなかった。
むしろその雨音のひとつひとつに心に響いて潤してくれるようで、なんともいえない心地良さがさらに眠気を誘いリヒトを完全に無防備にさせる。
(戦い、続き……だったからなぁ。ちょっとばかし、のんびりしたい……気もする)
思えば艱難辛苦の連続だった。
休みなどほんの数時間程度で、丸1日休めるなど滅多になかった気がする。
雨音が包み込む中、さらに甘く落ち着きのある匂いがリヒトの鼻腔をくすぐる。
目を開けて確認できなかったが、風呂から上がってきたヴィナシスが自分の頭のすぐそばに座っているのが理解できた。
不思議と警戒心はない。
むしろ頼れる相棒がそこにいてくれていることの安心感がリヒトを包んでいる。
「……寝てる」
ヴィナシスの呟きも、もうリヒトには聞こえない。
それをいいことに、ヴィナシスはそっと彼の横に寝転んだ。
添い寝、というよりも、より近くで観察するような仕草で。
(本当に不思議な奴ね。私との連携もいとも簡単にこなすし、なによりあの強さ。……アナタのこと、もっと知りたくなったわ)
目の前で子供のような寝顔をする強者。
彼の安眠を妨げぬようそっと頬を撫でたあと、彼女もまた自分のベッドへと行く。
チェックアウトの時間がいつかは知らないが、そこはリヒトがどうにかするだろうという根拠のない安心感とともに。
「……でまぁ、お互い寝過ごしちまったわけだ」
「延滞料金ぐらいいいじゃない別に」
「よくない。こういう大打撃はさけないとだ。さぁチェックアウトしよう」
ふたりはチェックアウトを済ませて外に出る。
相変わらずの大雨だ。
傘のひとつでも欲しいくらいだが、そんなものはない。
止むまで待とうかと思った矢先、不可解なことが起こる。
────文字どおり雨が止まった。
空間に固定されたように、雨粒が宙で止まって落下しない。
そればかりか周囲の動きまで止まってしまっている。
「なんだ……これは? 時間が、止まっている?」
「リヒト、ほらあそこ」
ヴィナシスの指差す方向に"それ"はいた。
鳥籠のような帽子からのぞくピンク色の髪に微笑みを絶やさない艶やかな肌。
漆黒のマントにも似たコートをまとって手には傘を持ち、陽気に口笛を吹きながら歩いてくる。
「まさか……奴は!」
「待ちなさい。アイツは……いえ、"彼女"は敵じゃないわ」
その言葉を意味をすぐに知ることになる。
リヒトは正体がわかった直後に目を見開いた。
「お前、シェオルか!?」
「……昨晩はありがとうね。オニーサン」
「やっぱり。……アナタは人間じゃなかったのね」
「そうだよ。ようやく本来の自分を取り戻せた。改めまして……私こそ本物のダンサー・イン・ザ・レイン。本来なら夜に現れるとことだけど、今回は恩人のための特別出演さ」
「……シェオルが、ダンサー・イン・ザ・レインだと? ヴィナシス、お前はいつからわかってた?」
「彼女との会話でもそうだけど、1番は匂いね。……人間のにおいが一切しなかった。香水とかつけてたならわかるけど、そういうのも一切なし。アナタのその顔、アイメイクとかチークとか唇とか、多少の化粧をしてるっぽい顔してるけど、まるでそう見えるだけの絵ね。完全なる無臭で、かつ人間の気配とはまた別の雰囲気。そこでもしかしたらってね」
ヴィナシスの答えに彼女は微笑みながらパチパチと軽い拍手で返した。
「なるほど、そこまでは気が回らなかったね。うまく人間の可愛い女の子に変化したつもりだったんだけどなぁ。……やっぱり本当に生きてる女の子には勝てない、か」
「ふん、甘いのよ。……それで、アナタはなにをしに来たの?」
「君たちに改めてお礼をしに来たんだ。この雨の中じゃ次の旅路はきついだろう」
「どうする気だ?」
「────見てて」
傘を天高く掲げる。
次の瞬間、また時間が元通りに動き始め、土砂降りの景色になった。
しかしその数秒後、雨が弱まっていくとともに温かな光が降り注いでいく。
暗雲は瞬く間に立ち退き、太陽が顔をのぞかせた。
その輝きに住人のみならず、リヒトとヴィナシスもまた驚愕と歓喜に表情を明るくさせる。
「すごいじゃないか! これはお前が……────あれ?」
先ほどまでいた彼女の姿はもうなかった。
雨とともに現れ、雨とともにいずかたへか去る。
ふと、小鳥たちのさえずり声が、頭の中で彼女の口笛とかぶった。
ほんのちょっぴりの間だったが、この奇妙な出会いに感謝の念を持たざるを得ない。
「行っちまったか。……ん、なんだこれ。これは……手紙か?」
便箋を開けてみるとギョッとする。
『また会おうね私のヒーロー。大好き』
文章の最後に打つピリオドの代わりに、薄いピンクのキスマークが添えてあった。
伝説的な存在からのラブレターめいたものを貰って戸惑うリヒトの隣で、ジットォォォオオオっとした瞳でリヒトを見るヴィナシス。
「ふ~ん……お手柄ねリヒト。文通でもしたら?」
「茶化すな。ただのお礼の手紙だ。そうやって人をからかう奴だからなアイツは」
「あら、ずいぶんとあの娘のこと知ってるのね。私から離れてる間にそんなに絆を深め合ったのかしら?」
「えぇい違う! ホラ! さっさと行くぞ! スイーツ奢ってやる!」
「あ、コラ待ちなさいよ!! ふたつ! ふたつよ!」
「わかったよ!」
アーリズの街を陽の光が温かく包み込む。
血の雨が降りしきる夜は終わり、満天の星空のもと、人々は安らかな眠りにつくことができるのだ。
たとえ雨が降ったとしても────。
「~、~~♪」
夜になれば、雨に混じって口笛と軽快な靴のタップ音が綺麗に響いて、見る者に幸福を授けるだろう。
ただ、今は少し時間はかかるとしても、彼女はかまわない。
ただ彼女は、人々に与えたい。
たとえこれから先、永遠に恐れられるかもしれないとしても。
────ダンサー・イン・ザ・レインは雨の中で踊りたい。
────誰かの幸せを心から願っている、そういう存在だから。