3話 侯爵の逆鱗
「はああああ!? あのアホ殿下そんなことを!?」
屋敷への帰路、馬車のなかでのこと。
エミリーが夜会でのことを聞かせると、侍女のスピカはこれ以上ないぐらいに激怒した。
「……スピカ、殿下への暴言は看過できないわよ?」
あの扱いを受けてなお、エミリーはそう言う。
たとえあんな人間であろうと、仕えるべき王族。
王国民として敬意を払ってしかるべきだ。
「いえいえ、看過できぬのはわたしのほうです!」
だがスピカは納得できぬ様子でまくしたてる。
「あんのアホ殿下ぁぁあ……エミリーさまの立場上、わたしもずっと我慢してまいりましたが今回ばかりは許せません。エミリーさまがどれだけ裏でフォローしていたかも知らず、エミリーさまのことをないがしろにして頭からっぽな男爵令嬢にかまけ……しまいには夜会で婚約破棄して暴力ですって!?」
「……暴力といっても、突きとばされただけよ?」
フォローしようとするエミリーだが。
怒りくるうスピカには、完全に逆効果だった。
「突きとばすぅ!? あのどうしようもない殿下をいまもかばおうとしている……この天使のようなお嬢さまを突きとばすぅ!? なんという神をも恐れぬ所業! 許せるわけがありません。たとえ不敬で処刑されたとしても、この人生に一片の悔いもございません。わたしはあいつをアホと呼びつづけます!」
声が大きくなるスピカの口を、あわててふさぐ。
んぐっ、と。スピカは苦しげにうめく。
「滅多なことを言ってはだめ。馬車のなかとはいえ、万一誰かに聞かれたらどうするの。貴方がもしも死刑なんかになったら、わたくしはもっと哀しいわ」
哀しげな顔をするエミリー。
申し訳ございません、と。
スピカはあわてて頭をさげ、しゅんとする。
「……それはともかく、お父さまにすぐに面会したいから準備をお願いね。頼りにしてるわよ」
「……ッ! かしこまりました、お着替え等の用意はこのスピカめにおまかせください!」
とたん、スピカは元気を取りもどす。
頼られるのが好きな姉気質なのかもしれない。
この侍女のこういう単純なところは、とてもかわいらしいと思う。そして仕事についても間違いなく有能なので、いつも助かっている。
「侯爵さまが今日のことを知ったら、きっとカンカンですよ。突きとばすなんて……」
「そのことだけど、暴力のことは黙っておいて」
なぜですか? と。
いぶかしげな顔をするスピカ。
「わたくしは聖女としての力がない偽聖女。婚約破棄には正当性が認められる。けれど暴力まで振るったとなれば、殿下のお立場が悪くなるわ。後々の即位にも影響が出るかもしれないもの」
「え、そんなの知ったこっちゃないですよ! もはや殿下とエミリーさまは赤の他人。加害者と被害者なんですから! あのアホの悪行をぜんぶ明るみに出して、相応の罰を受けてもらいましょうよ!」
「……お願い、スピカ」
わめくスピカに、だがエミリーは頭をさげた。
むむむ、と。スピカは反論したげな表情。
だがやがて、あきらめたように息をついた。
「……かしこまりました。エミリーさまに頭をさげられて、断れるわけがありませんよ。まったくもー、エミリーさまはお優しすぎます! 聖母さまかなにかですか!? もし聖女でなかったとしても、きっとそういうお方としか思えません!」
「優しくないわ、ただ王国のことを考えるとね」
いまリオンの評判がさがるのはまずい。
リオンの父である現国王はいま、戦地におもむいている。その代理をしているのが、あのリオンなのだ。
仮とはいえ、リオンはいま国のトップ。
その信頼がゆらげば、混乱は避けられない。
「ここまで殿下と国のことを考えられる国母にふさわしいお方は、エミリーさま以外におりませんのに。まったくあのアホ殿下は……」
スピカはやれやれと肩をすくめる。
「……着いたらすぐ当主さまとの面会準備ですね」
「ええ、迷惑をかけてごめんなさい」
迷惑だなんてとんでもない! と。
スピカはぶんぶん首を振る。
「お嬢さまのお世話が侍女であるわたしの仕事ですし、いやむしろ仕事じゃなくてもお嬢さまのお世話ならいくらでも! 火のなか水のなかですよ!」
「スピカったら、また自分を軽んじて……」
軽んじてなどおりません! と。
スピカは大真面目な顔で力説しはじめる。
「そもそもお嬢さまが拾ってくださらなければ、わたしはこの世にはいなかったんですよ! この命はお嬢さまにいただいたものですから!」
スピカは元々、貧民街の孤児だった。
それをエミリーが拾い、侍女に取りたてたのだ。
そんな過去をスピカはずっと感謝してくれている。
「……もう、昔の話なのに」
エミリーは唇をとがらせつつ、くすりと笑う。
幼少期からの付きあいであるスピカに話を聞いてもらい、気が楽になるエミリーだった。
*
「夜会で……婚約破棄だと!?」
ウィンゼル侯爵家の邸宅、書斎。
エミリーに事の顛末を聞くと、エミリーの父クラスト・ウィンゼルは声を荒げた。
その言葉には、あきらかに怒りがにじんでいる。
「なんたる屈辱! 衆目の場で婚約破棄し、ウィンゼル侯爵家の名に泥をぬるとは……」
「申し訳ございません、いかなる罰も受けます」
激昂するクラストに、ただただ頭をさげる。
クラストの面差しは、怜悧に整っている。
だがその顔がいま、オーガのようにゆがんでいた。
いつも巌しい顔の父だが、今日はひとしおだ。
(やっぱり、ひどく怒ってらっしゃるわ……)
それも当然だろう。
長い歴史のある我がウィンゼル侯爵家でも、夜会で婚約破棄されるなど例がない。
ウィンゼル侯爵家の名に傷をつけてしまったのだ。
今回のことだけで家を追いだされ、国外追放となってもまったくおかしくない。
そんな罰を覚悟していたエミリーだったが――
「おまえは謹慎だ。家でおとなしくしていろ」
「……え?」
告げられた罰は、たったのそれだけだった。
エミリーは父のさらなる言葉を待つ。
だが、クラストはそれ以上なにも言わなかった。
「それ、だけですか?」
「それだけだ。こうしてはおれん。わたしはいまから殿下に謁見を申しこんでくる」
クラストはそれだけ言って席を立った。
苛立った様子で扉を乱暴に開けはなち、足早に書斎を出ていってしまった。
放心状態になるエミリー。
そしてしばしあって、ふと我にかえる。
「……謹慎だけ? 聞き間違いではないかしら?」
「妥当でしょう、お嬢さまはなにも悪いことはしていませんから。罰せられるわけがありません」
それより、と。
スピカはクラストの出ていった扉のほうを見やる。
顔を強張らせ、おびえたように体を震わせる。
「あれほどお怒りになった顔は初めて見ました」
「そうね、今日はひとしおだったわ」
今回のことを考えれば、当然なのかもしれないが。
「たぶんあのアホ殿下……死にましたね」
「……え?」
スピカの囁きがよく聞きとれなかったエミリー。
「なんでもありません、お嬢さまは言いつけどおりお屋敷でおとなしくしていましょう」
さあさあ、と。スピカに背を押される。
エミリーはわけがわからないまま、書斎を出た。