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四夜の迷霧  作者: 知和知和
一作目『霧煙りの灰色』
3/16

2.

「――それで、母さんはどう思いますか?」


「どうって訊かれても、ねえ……」


 病室の窓から臨む、青く色づき始めた木々を見つめながら、母――小田切香苗(かなえ)は曖昧な返事をした。


「叔父さんは別に良いんじゃあないかって言ってくれてます」


「そうなの……」


 空から注ぐ弱い光が、白々しさを放つ無機質の病室に差している。


「学人さんも、いつか戻ってみたい気もするって言っていたこともあったかしら。でも、結局一度もあそこに帰ることはなかったわね」


「母さんは?」


「わたし? わたしも行ったことがないわ……、うん。ないわ」


「挨拶なんかで行くことも?」


「ええ、一度も。たしか十になるかならないかくらいだったかしら、ずっと小さい頃に学人さんのご両親は亡くなられていてね。育ての親のような人はいたんだけど、それも数年足らずのことで。ほとんど関わり合いのない状態だったのよ。だから、村はもう自分に関係ない場所だって言って、特別にこちらから連絡を取ったりはしなかったの。もう四十年近く前かしらね、結婚式の時に一度向こうの親族の人と顔を合わせたくらい。……あっ、知ってた? 学人さん、三兄弟の真ん中なの。見えないでしょう?」


 香苗はふふっと頬を緩めるも、その笑顔に力はない。笑ったかと思えばすぐ、ぜぇぜぇと喉を鳴らして咳き込んでしまう。


「母さん」


「ええ、……大丈夫よ」


 学人の訃報が知らされてすぐは、見ていられぬほどに取り乱した香苗だったが、葬儀を終えてからは精神的にも安定し始めているようだった。


 けれどそれに相反して、彼女の体調はずるずると悪い方に進んでいた。


 風邪をこじらせたかと思えば、持病の喘息もそれに合わせて悪化。葬儀の後からもうずっと入院したままである。


 父の死を境に急速に弱っていく母の姿が、父の後を追わんとしているかのように幹人には見えてしまい、気が気ではなかった。


「……良いところではある」


「え?」


「人によっては幸せを手に言えることもできる地だ。良いところではある」


「なんです? それ」


「今ね、ふっと思い出したの。学人さんがそんなふうに自分の村を言っていたなあって」


「人によっては幸せを手に入れることのできる……。人によっては、なんて付けるあたり父さんらしい」


「ええ、ほんとに。きっとその〝人〟の中に学人さんは含まれてはいなかったのでしょうね。だから、あの人は村を出た。学人さん、続けてこうも言っていたの。あの村の在り方を知ってしまってからは、あの場所で一生を終える人生を良しとはできなかったって。だから、自分はあの村の環から外れたんだって。ちょっと持って回った言い方で、わからないところもあるんだけどね、でも、そんな言い方だったわ」


 発作にまでは至っておらずとも、それでも長話をするのは身体に障る。彼女もそれをわかっているし、そもそも喉も辛いはず。けれど、父のことを語る母の顔はとても穏やかなものだった。


「わたしが思うにね、きっと田舎特有の人との近さとか、そういう距離感が合わなかったってことかもしれないなあって思うの。学人さん、人に好かれる人ではあるけれど、自分から人に好かれにいくって人じゃあなかったから」


「ああ、まあたしかに。でも……」


 ――村の在り方を知ってしまってからは……良しとはできなかった。


 それは果たして距離感という言葉で説明できるものなのだろうか。父亡き今となっては確かめようもない。


「あの、母さん」


「ん?」


「それじゃあ、自分から村を出た父さんは、その村のことをよく思ってはいないってことなんでしょうか?」


「だったら、いつか戻って見たい気もするとは言わないんじゃあない?」


「ああ、そうか」


「たまにふらっと訪れてみたい気持ちはきっとあったってことだと思うわよ」


「そう、なんですかね……」


「そりゃあ、そうに決まっているわよ。故郷なんだもの。たとえ短い時間とは言っても、自分の育った地っていうのはどうしたって切り離しきらないものよ。きっと供養のために分骨をってことになっても、学人さんも嫌がることはないと思うわ。わたしはどちらだっていい。うん、わたしはどちらでも」


 香苗は頬に力を入れて笑うと、握った右の拳を左の手でそっと包み込んだ。


「あのね。こんなことを言うと良くないのかもしれないけど、無理に相手の意向を突っぱねて、面倒事になるのも良くないとわたしは思うの。そんな諍いを、学人さんが見たいと思っているとは到底思えないから」


「まあ、それはそうだとは思いますけど」


「わたしはどちらでもいい。うん、そうね。幹人さんが決めて頂戴。あなたがしたいように決めてくれたらいい」


「でも……」


「親の供養は子どもがするものよ。後に残った人間が決めること。わたしの時だってあなたに決めてもらうんだから」


「母さん! そんなこと!」


「あら? もしかしてわたしの心配でもしているの? 大丈夫よ、わたしはまだまだ死んでやるつもりなんてないんだから」


 香苗は幹人に笑いかけて、それから少し困った顔をする。


「ほら、もう。そんな難しい顔しないで。それはあなたの良いところであって、悪いところ。なんでもかんでも背負い込まないの」


 香苗は幹人から目を離し、窓外を見遣る。


「わたしね、学人さんがやりたかったことたくさん聞いてるの。日本中の温泉巡ってみたり、山とか川とか海とか、そうしたいろんな場所の写真を撮って回ってみたり」


 父のことを思う母はどこか遠いところを見ているようで。


「友人に小説家の先生がいてね、その人に感化されて小説を書いてみたかったけど、恥ずかしくてできなかったこととか。代わりに詩でも作ろうかとか。そんなことをたくさん聞いてる」


 その瞳のまま、遠くに行ってしまうんじゃあないかとさえ思えて。


「仕事に追われてたせいで、一息ついて世界を眺める余裕がなかったんだって。だから、そうした今まで見過ごしてきちゃったものをじっくりと見つめ直したいって。そう言ってたの」


 けれど、その瞳は決してくすんではいなかった。


「わたし、学人さんがやろうって思ってできなかったこと、代わりに全部全部やり尽くしてやるって決めてるの。わたしが向こうに行ったときにいっぱい聞かせてやるつもりなんだから」


「……」


 母の見せる気丈な笑顔に対して、幹人は無理矢理に笑顔を作り込んで応じることしかできなかった。


「わかりました。分骨の件は、私のほうで考えてみます」


 母にそう言葉をかけて、幹人はできる限りそっと病室を出た。


 その帰路、翌日の朝発の航空チケットを手配した。

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