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愛人契約はじめました  作者: NES
第2章 いままでとこれから
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いままでとこれから(4)

 サイフォンで淹れたコーヒーを味わうのは、初めてだった。ぼこぼこと沸騰したお湯がてっぺんにまでせり上がって、また戻っていくのを眺めているだけで面白い。コーヒーの味も、マンションで飲んだものよりもすっきりとした感じがする。ケンキチによれば、こちらの方が雑味が少ないのだそうだ。


「テルアキだって、そこそこに良いコーヒーメーカーを使ってるんだろ?」

「本物、にはかなわないさ。それに、そう簡単に真似されちゃうくらいじゃ困ってしまう」


 このお店のもう一つの売りはマスターお手製のケーキだが、今日はもう品切れとなっていた。ケンキチはその代わりに、ユミコのためにパンケーキを焼いてくれた。普段はまかないでしか出していない裏メニューだ。チカいわく、「あたしのお墨付き」とのことだった。

 生地がふっくらと膨らんで、まるで絵本で見るみたいな形状だ。どうやったらこんな焼き上がりに出来るのだろう。添えられていたホイップクリームも滑らかで、口の中でとろけてなくなってしまう。甘さを控えた上品なメイプルシロップとのバランスが絶妙で、ユミコは大きなパンケーキをまたたく間にぺろりと平らげてしまった。


「それにしても、テルアキさんってこういう子が好みだったんですね」


 お腹が膨れて一息ついたところで、チカがまじまじとユミコの全身を眺めてきた。今日はデートというつもりだったので、ユミコはちょっとよそいきを意識したコーディネートのつもりだった。

 テルアキが好きそうなふんわりとした水色のスカートに、夏を先取りした白いカットソー。映画館の中は冷房が効いて涼しそうなので、黄色いニットの上着を羽織っている。鏡で確認した際には、特におかしなところはないかなと思っていた。

 ただし、それが現役女子高生のお眼鏡にかなうかどうかは別問題だった。ユミコは緊張してチカの次の言葉を待った。イマドキの高校生が言うところの『こういう子』って、一体全体どういう子なんですかね?


「真面目なお嬢様って感じ」


 なるほど、そう見えるのか。ユミコはそれほど真面目でもないし、お嬢様でもない。田舎娘、とでも評された方が本人的にはまだしっくりくる。

 大学にいけば、ユミコよりも真面目で、綺麗で、清楚な女子なんていくらでもいた。そういう人種は、人間の根本からして造りが違っている。とりあえず、挨拶は「ごきげんよう」。話はそれからだった。


「テルアキにギャル系女子とか、似合わないだろうが」

「それはそれで見てみたいかな。テルアキ、マジでノリ悪くなぁーい、とか」


 年齢の割に若々しいとはいえ、テルアキは四十代のれっきとした中年男性だ。そんな相手と並んで歩くのでは、似合うとかそれ以前に父親のように見えてしまうのではなかろうか。ユミコが大人しめの配色を選ぶのは、テルアキと行動を共にするという点を考慮しているからこそだった。

 今はテルアキに世話になっている身であるし、可能な限りそれと釣り合う自分になっていたい。その考え方を『真面目』と呼ぶのであれば、まあ、そういうことになるのだろう。テルアキのお好みがこれだというのなら、この路線のままで進めていけば間違いはない。ユミコがテルアキの方に視線を向けると、テルアキは優しく微笑んだ。


「ユミコさんのことを気に入ったのは確かだよ。それは現在進行形でもある。だから、こうやってケンキチの店にも連れてきた」

「そいつは、どうも。大事に思ってくれてるなら、連絡ぐらい寄越せってんだ」


 テルアキはメールとか電話とか、そういった連絡手段ではなかなか捕まらないとのことだった。基本的に電話には出ないし、メールにも返信はしない。プライベートな情報を、あまり他人に教えたがらないのだそうだ。この店を立ち上げる時も、必要な手続きの大部分はケンキチに任せてしまって、テルアキはほとんどタッチしていなかった。


「ケンキチはほら、俺がいなくてもうまくやるかなって」


 お金は出すし、名前も貸す。後は、ケンキチのやりたいようにやってほしい。そう言われて、ケンキチは逆に途方に暮れてしまった。今のユミコと、状況的には似ているかもしれない。テルアキは気が向いたことに対しては、無条件かつ無制限に投資してしまう傾向があった。

 実際ケンキチは喫茶店のオープンからここまで、そつなく経営をこなしていた。短大生向けの外装や内装のデザインに、メニューの策定。コーヒーのバイヤーとの取引や、ケーキ作りに至るまで何もかもだ。「お独りでやったんですか?」というユミコの問いかけに、ケンキチは苦笑いしながら左手の薬指を示してみせた。


「奥さんは在宅で経理とかそっちを担当してるんですよ。お子さんがまた可愛いんですよね」


 チカがきゅうん、と身体をくねらせた。ああそうか。ケンキチは結婚していても不思議ではない年齢だし、チカは単純にここでアルバイトをしているという関係なのか。

 ユミコは慌てて、ケンキチとチカについての不正確な情報を頭の中で上書きした。どうにも、自分とテルアキのことを土台にして考えてしまう。女子高生とおじさんとか、それこそ人生アウトどころかゲームセットな組み合わせだ。


「ケンキチさんは、テルアキさんの幼馴染なんですよね?」

「そうだな。三十何年かな」


 保育園の頃だというから、そこには相当な歴史があった。当たり前だが、テルアキにだって子供だった時代や、ユミコと同じ年代であったこともある。ユミコは再び、テルアキの方にちらりと目を向けた。ケンキチも、チカも恐らくはユミコよりもずっとテルアキの事情に明るい。ここに連れてきてくれたのはテルアキ自身なのだし、少しぐらい突っ込んだ質問をしてしまっても良いのではなかろうか。

 そう考えたところで、不意にテルアキが席を立った。


「……ちょっと夕刊を買ってくる。すぐそこのコンビニだから。ユミコさんはここで待ってて」

「あ、はい」


 テルアキはそのまま、足早に店の外に出ていった。ドアベルの音が鳴って、後はまた、しんと静まり返る。ユミコがカウンターに向き直ると、ケンキチとチカはお互いに目配せをし合っていた。『何だろう』と首をかしげたユミコの目の前で、ケンキチが一つわざとらしく咳払いをした。


「えーっと――念のためもう一度確認させてくれ。本当に、テルアキから何か無理をさせられてるとか、そういうことはないんだな? 俺がいるところで話せないようなら、チカちゃんにだけ残ってもらうことも出来るんだが」

「はい、私は私の意志でテルアキさんのマンションにいさせてもらっています。むしろ、お二人にとっては私の方が得体の知れない女ではないかと」


 三人はしばらくむむむっ、と押し黙って。


 それから――どっと笑い声をあげた。


「いやぁ、すまんすまん、テルアキがこんなこと仕出かすとは夢にも思ってなかったんでな。ユミコさんの方こそ、何がなんだか判らずに混乱してる感じかな」

「あのテルアキさんがねー。女子大生を連れてくるなんて。本気でおったまげたわー」

「私、自分でも結構とんでもないことしてるなって、自覚はしてるんですよ。でも今は、テルアキさんにはとても感謝しています」


 微妙だった店の中の空気が、ぱぁっと明るくなった。テルアキには申し訳ないが、むしろこの場からいなくなってくれた方が理解が進むこともある。ユミコはようやくリラックスして、コーヒーの味を楽しめそうだった。




 テルアキは、ものの十分程度で戻ってきた。その後はしばらく他愛もない話をして、日が暮れる前にユミコと共に去っていった。テルアキはユミコを駅まで送って、それから自宅に帰るという。二人がいなくなって、『翡翠の羽』は急に静まり返ってしまった。


「チカちゃん、お疲れさん。今日はもう上がっていいよ」


 陽が落ちてからは、この店はちょっとしたアルコールを提供する大人の場所に変貌する。間接照明のあかりに包まれた幻想的な雰囲気の中で――近所の商店街のオヤジたちが、ゲハゲハとうっすいサワーをみ交わす。未成年のチカにはかなりどぎつい世界なので、毎回この時間辺りで締めることに決まっていた。

 チカはバックルームに入ると、エプロンを外して学生カバンを引っ掴んだ。私服可の学校に入ったので、チカの服装は毎日やりたい放題だった。ほとんどがジーパンにTシャツという格好で通してきたのだが、今日はユミコを見てわずかに心が揺らいだ。

 スカートなんて、中学の制服で嫌々着ていたのが最初で最後だった。そもそもチカには似合わないというのもあるし、周りだって見ていて不愉快な想いをするだろう。だったら、お互いに無理をしてまでそんなものを身にまとう必要はない。


 ユミコはおっとりとしているようで、強い芯を持った――りんと咲く気高い花みたいな女性ひとだった。

 あのマンションに住み始めて、二ヶ月弱になる。ユミコはテルアキの事情を、何も知らないと語っていた。それならばテルアキのいない間に、ケンキチやチカからどんな話だって聞き出せたはずなのに。


「やめておきます。テルアキさんのことは、テルアキさん自身から話してもらいたいので」


 ユミコはテルアキの事情を、何一つ訊かなかった。


「良いのかい? テルアキは多分、何も気にしないと思うけど」

「はい。テルアキさんが今日このお店に連れてきてくれたのも、私を信頼してくれてるからだってことは、よく判っています」


 テルアキは本当に、自分のことを語りたがらなかった。チカだって、テルアキに関する情報は全てケンキチから得たものだった。あのテルアキが、誰かに心を許すなんてある訳がない。

 だからこそ、今日の出来事は驚愕きょうがくに値する大事件だった。


「ケンキチさんにお話をうかがっても、テルアキさんは多分、『それで良い』って言うんでしょうが……私はそのやり方を認めたくないんです」


 ユミコの口調はとても穏やかで、そして、すっきりと明瞭だった。そこに迷いなど、一片も存在しない。それが当たり前なのだと確信し、実践してみせている。チカはユミコのその態度に、圧倒されてしまった。


「私はテルアキさんと約束しました。六ヶ月の間に、私達の関係はどうなっているのか。自分のことも話してくれないような人に、私は好きにされるつもりはありません」


 チカは呼吸をすることも忘れて、ユミコの横顔に見入った。ユミコは、本気だ。テルアキと自分がどうなっていくのかを、真剣に考えている。その視線は、真っ直ぐに正面を向いたまま微動びどうだにしない。その姿を――チカはとても美しいと感じた。


「ユミコさんって、素敵な人だったね」

「それな。テルアキの野郎、どこであんな上玉引っ掛けてきたんだか」


 お金目当ての女詐欺師、には到底見えなかった。その点はケンキチも同意らしい。夜の営業用のツマミを仕込みながら、ケンキチはどうにも納得がいかないといった様子だった。


「あたし、テルアキさんがあんな風に笑うの、初めて見たかも」


 アルバイトの面接で会った時から、チカのテルアキに対する印象は『中身を見せない男』だった。口ではそれっぽいことを話す。冗談だって言う。でも浮かんでいる表情は、いつだって偽物だ。

 取りつくろった仮面の下にあるものを、テルアキは絶対に覗かせようとはしなかった。建前の壁が厚すぎて、踏み込もうと思うことすらためらわせてくる。ケンキチから大まかな事情は聞かされて知っているにしても、ここまで拒絶されてしまってはいっそ清々(すがすが)しいほどだった。


「俺も、子供の頃以来かもしれないな。ありゃよっぽどユミコさんに熱を上げてるね」


 テルアキの鉄面皮は折り紙付きだ。ケンキチにそう教えられていなければ、チカはテルアキには心がないものだと判断していただろう。テルアキのうちには、真っ暗で大きな穴が空いている。テルアキは別に、壊れている訳でも、虚勢を張っている訳でもない。


 ただ、そうやって生きることしか出来ないのだ。


 父親が死んだ時も、母親の葬儀の場でも。テルアキは涙一つ見せずに、毅然きぜんとした態度をつらぬいていた。大勢の弔問ちょうもん客を相手にして、ケンキチやミヨコ、弟のヨシヒコがいる前で、情けなく崩れ落ちる醜態しゅうたいを見せることなんてしない。ケンキチによれば、テルアキは昔からそういう男だった。

 ろくに知りもしない他人に向かって、自分の弱い本性をさらけ出すなどまず考えられない。チカへの対応だって、上辺うわべだけの作り笑いが限界だった。別にそこまで親しくなりたいとも思わなかったし、それがテルアキという人物なのだとチカは認識していた。


 それが女子大生と半同棲生活をしている、ときたものだ。世の中は何が起きるか判らない。あのテルアキが普段の日常生活を送る上で、一体全体ユミコとどんな会話を交わしているというのだろうか。テルアキと二人きりにされたとして、チカなら五分ももたずにギブアップする自信がある。そのシミュレーションは、チカの想像力の範疇はんちゅうを大きく逸脱いつだつしていた。


「あいつ、不器用だからな。良い機会だし、ユミコさんにあれこれとリードしてもらった方が良いかもだ」

「四十過ぎたオッサンが?」


 チカにしてみれば、テルアキもケンキチも立派な大人の男性だった。それがいくら成人しているとはいえ、女子大生の小娘に先導してもらうようなものなのか。不可解を絵に描いたみたいな表情で突っ立っているチカに向かって、ケンキチはかすかに唇のはしを持ち上げてみせた。


「男ってのは、いつまで経ってもガキっぽいところがあるもんだ。特に、テルアキの場合はな」


 ケンキチの言っていることは、チカにはさっぱりだった。ケンキチと比べても、テルアキの方がずっと落ち着いているし、紳士であるようにも思える。それでも一点だけ、チカにも納得出来そうだと感じられたのは……ユミコを見つめるテルアキの優しい眼差しは、まるで恋をしている男の子のそれだった。


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