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愛人契約はじめました  作者: NES
第2章 いままでとこれから
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いままでとこれから(3)

 この家が鯨幕くじらまくに覆われるのを見るのは、これで二回目だった。暗闇と静寂に包まれた中に、提灯ちょうちんの光がぼんやりと『内藤家』の名前を浮かびあがらせている。その前を横切る人の影は、誰一人として余計な言葉を発さなかった。

 みんなただ一様に、ひたすらに事務的で、機械的なやり取りだけを取り交わしていた。ぼそぼそとしたささやきが、渦を巻いて夜の中に吸い込まれていく。ここで起きてしまった悲劇は、それだけ人々の胸を押し潰してしまわんばかりのものだった。


 前回訪れた時には、ケンキチは中学の制服を着ていた。ミヨコもそうだ。クラスや学校のみんなと並んで、ぞろぞろとテルアキの家に向かった。いつもテルアキと遊んでいた居間が、葬式の会場にされていてショックだった。テルアキの弟のヨシヒコが、わんわんと大声で泣いていたのをよく覚えている。テルアキはその手を握って、黙って正面を見据えていた。


「こちらにご芳名ほうめいをお願いします」


 今日のケンキチは親が用意してくれた喪服に、黒のネクタイを締めている。受け付けに立っていたのは、見知らぬ女性だった。内藤家の遠い親戚か、それとも葬儀会社から派遣されてきたスタッフだろうか。ケンキチのまぶたの裏には、今にも消えてしまいそうなテルアキの母親の姿が焼き付いていた。

 あの暖かくて優しい笑顔が失われて、どれだけの月日が流れたのか。ケンキチは込み上げてきた涙をぐっとこらえた。忘れかけていたその風景は、沢山の白い花に囲まれた写真の中でそっと息づいていた。


「ケンキチ、良いところにきてくれた」


 焼香を終えると、テルアキが廊下の奥から顔を出してきた。顔を合わせたなら、どんな言葉をかけるべきなのか。道すがらにずっと思い悩んできたケンキチの思惑などどこ吹く風で、テルアキはいつもとまるで変わらなかった。


「ミヨコがさ、その、ショックが大きすぎたみたいなんだ。少し落ち着いてもらった方が良いかなって思うから、家まで送ってやってくれないかな?」

「あ、ああ」


 テルアキに導かれて、二階への階段を昇る。二階の部屋は、親族たちの控室に使われているみたいだった。無言で先に立つテルアキに続いて、ケンキチはテルアキの部屋に入った。そこにはうずくまってすすり泣く、ミヨコがいた。

 中学生の時のミヨコは、どうだっただろうか。ケンキチは遠い記憶を手繰たぐり寄せた。確か、テルアキの前では涙は見せていなかった。残されたテルアキとその家族を、共に支えていきたいという強い意志に支えられていた。

 そしてあの後、ミヨコはテルアキの母を助けるために内藤家にしょっちゅう出入りしていた。だからこそ、なのだろう。今回ばかりは、ミヨコはその悲しみに耐えることが出来なかった。心を守る壁が全て決壊して、正体をなくすほどに憔悴しょうすいしきっていた。


「ミヨコ、ケンキチが来てくれたから、一度家に帰って休んでくれ」


 テルアキが、ミヨコの背中にそっと手を触れた。黒い塊が、ぴくりと身震いする。見ていられなくて、ケンキチは久しぶりに入るテルアキの部屋の様子に視線を彷徨さまよわせた。

 本棚も、机の上もがらんとしていた。昔はそこには、誰もがうらやむくらいの玩具や漫画があふれかえっていたというのに。今のこの部屋にあるのは、古びた参考書と、教科書と、ノートだけだ。がらんとしたこの空間は、テルアキという人間の現在の状態を表しているみたいだった。

 判りきっていたはずの現実を突き付けられて、背筋がぞわぞわとあわ立ってくる。ケンキチは眉根を寄せて顔をしかめると、テルアキとミヨコの方に目を戻した。


「でも、私、お手伝いしないと」

「ヨチコもちゃんとやってくれてる。ここは良いから、少し休んで」


 ぐらぐらと不安定に揺らめきながら、黒い影が立ち上がった。涙でグシャグシャになった顔に、髪がベッタリと貼り付いている。ミヨコがこんなに傷付いて、打ちのめされている姿なんて見たくもなかった。テルアキは強引にミヨコの手首を掴むと、ぐいっと引っ張って部屋の外に連れ出した。テルアキが小さく、「ごめんな」とつぶやく声が追いかけてきた。


「テルアキのお母さん、ずっと大変そうだったの。私、大丈夫ですよって。何でも言ってくださいねって。そうやって声をかけて、毎日一緒にいるようにしてたの」


 闇に包まれた世界で、ミヨコの言葉だけが耳に入ってきた。汗ばんだケンキチのてのひらの中で、細くて華奢きゃしゃな手首は妙に冷たく感じられた。


一昨日(おととい)はね、テルアキの話をしたの。テルアキが大学に合格して、奨学金も無事に貰えて。良かったねって。もう大丈夫だねって。テルアキのお母さん、笑ってた」


 父親を亡くしてから、テルアキの家はがらりと雰囲気が変わってしまった。母子家庭のケンキチには、どう足掻あがいても手に入れられない幸せ。ねたましいと思う以前に、こういうのが正しい家族のあり方なのだなと感心すらしていた。

 それが、あれよあれよという間に転落していく。テルアキは学校で、あまり口を開かなくなった。友達付き合いも減らしていった。高校にもいかないかもしれないと噂になった。テルアキのお母さんが体を壊すくらいに働いて、テルアキと弟の学費を捻出したのだとミヨコに聞かされた。


 高校に入っても、テルアキはほとんどの時間をアルバイトについやしていた。少しでも家計を助けたい。友人と遊ぶ時間も作れない中で、ケンキチとミヨコだけは近所のよしみでテルアキとの交流を続けていた。


「それなのに――もう、疲れちゃったって。ごめんね、って。お父さんのところにいくって。私が、私がもっとテルアキのお母さんのこと、判ってあげられていたら!」


 最初にそれを見つけたのは、ミヨコだった。夕方、晩ご飯の支度を手伝うために訪れたテルアキの家で。ダイニングのテーブルの上に転がった、睡眠薬のびん。飾り気のない白い便箋につづられた、謝罪の言葉。

 力なくぐったりと横たわる……テルアキの母親の身体。


 あまりの出来事に、ミヨコは半狂乱になった。


「ミヨコ、ミヨコは悪くない。ミヨコはテルアキのために、やれるだけのことをやったんだ」


 ぎゅうっと、ミヨコの手首を握るてのひらに力を入れる。きっとミヨコは覚えていない。ケンキチがミヨコに触れたのは、幼稚園の時以来だ。あれからずっと……ただずっと、想い続けるだけの日々だった。


「テルアキもそう言った。言ってくれた。でも、私なら止められたはずなんだ。気付けてあげられたはずなんだ。私が、私がテルアキの、お母さんを!」


 自分の立ち位置を、ケンキチは理解しているつもりだった。ミヨコが誰を好きなのかなんて、はたから見ていればすぐに判ることだ。テルアキは、ケンキチが欲しいものは何だって持っていた。お金だけじゃない。物だけじゃない。本当に何でも――何でも!


「テルアキ……テルアキ……ごめんね……」


 ミヨコと二人で、こうやって手を繋いで歩いて。

 ケンキチは、ちっとも嬉しくなんてなかった。テルアキがまた一つ幸せをうしなって、同時にケンキチのうちにも大きな穴が穿うがたれる。ミヨコが泣いている。ぐずぐずと、その場に肉体が崩れて落ちてしまいそうな感覚におちいる。

 それでも、ミヨコの手を離す訳にはいかなかった。そうしたら、ミヨコはきっと消えてしまう。それが例え、どんなに願い求めようともケンキチのものにはなってくれないのだと判ってはいても。


 ケンキチは、ミヨコにだけはここにいてほしかった。



 葬儀が終わって一月(ひとつき)ほど経って、テルアキと弟のヨシヒコは親戚の家に引っ越していった。テルアキの家はそのまま残されて、借家になっていた様子だった。

 ミヨコとは顔が合わせづらくなって、気が付いた頃には家を出てどこかにいなくなってしまっていた。やがてテルアキとも連絡が取れなくなって、ケンキチはこの街に一人で残された。


 ひっそりと静まり返ったテルアキの生家を見るたびに、ケンキチはあの時のミヨコの手首の感触を思い出した。心の中には、大きな空洞が広がったままだった。




 喫茶『翡翠ひすいの羽』は、都合により急遽臨時休業とされた。入口の扉には、『本日終了』の札がげられている。ガランとした店内の中央で、ユミコはちょこんと椅子に座らされていた。


「で、テルアキさん。他に隠してることはないんですか?」

「ないよ。ユミコさんには、仕事場にしているマンションの部屋に住んでもらっている。半年間は無償で、一切の条件なしっていう約束だ。実際に、俺はユミコさんに指一本触れていない」


 ユミコのすぐ横で、テルアキは地べたに正座というスタイルでチカから尋問を受けていた。高そうなスーツが汚れるのも構わず、テルアキは無茶な指示にもほいほいと従順に従っている。そうした方が誤解は解けるだろうという判断なのか。それにしても、この異端審問は情け容赦のないものだった。


「そんなあからさまな戯言ざれごとを信じてついてくるような女子が、早々(そうそう)いますか! 今なら罪は軽くて済みます。正直に白状してください」

「弱ったな」


 テルアキがユミコを見上げて、助けを求めてきた。迂闊うかつな女子ですみません。冷静に考えてみれば、チカの言っていることは圧倒的に正しかった。偶々(たまたま)映画観で会っただけの中年男性の部屋に転がり込んで住み着くとか、非常識にもほどがある。


「あの、実は私の方がテルアキさんのことをだましていて、お金欲しさに入り込んだって可能性もあるんじゃないでしょうか?」


 所謂いわゆる、ハニートラップという奴だ。テルアキみたいな独身の投資家なんて、格好のカモだろう。ユミコみたいなヘボい女性の方が、かえって油断もさせやすいのではなかろうか。

 ……自分でそう考えてから、ユミコはがっくりとヘコんできた。どうせ、ぱっとしない女子ですよ。とほほ。


「なんだ。それならそうと言ってくれれば、出せるだけの金額は出してあげるのに。ユミコさん、あんまりおねだりとかしてくれないから」

「何でそうなるんですか」


 テルアキが脳天気に妙なことを喋り出したので、ユミコは思わずツッコんでしまった。テルアキはそもそも、生活費の名目で使い切れないくらいのお金をユミコに渡してくる。今の三分の一の額でも、お釣りの使い道に困るレベルだ。それで服でもかばんでもくつでも買ってくれなどと、テルアキの言い様は常に無茶苦茶だった。


「お金で済む話なら、それで良いんだ。ユミコさんが喜んでくれるなら、それで」


 まあ確かに、そんな単純な話だった方が事態の決着は早かっただろう。ユミコはテルアキから吸い上げるだけ吸い上げて、さっさとドロンしてしまえばそれで済んだのだ。一ヶ月間もいてやったのならば、それでテルアキへの義理も果たせたと思えないこともない。よくある援助交際の、よくある顛末てんまつとして笑い話にされるのがオチだった。


「テルアキ……お前、本気なのか?」


 カウンターの向こう側で、ケンキチがあきれたように溜め息をいた。ふんわりと、淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。どこかで嗅いだ匂いだと思ったら、テルアキがマンションでいつも淹れているコーヒーのものだった。


「まあね。だから、ケンキチにも紹介しておこうと思って連れてきた。丁度コーヒーのストックも切れたからさ」


 やはり、あのコーヒー豆はこの店で購入していたのだ。ユミコがくんくんと鼻をきかせている前で、チカとケンキチは目を合わせてこくりとうなずきあった。こんなトボけたアホづらたちが、人をだますような高度な犯罪に絡んでいるはずがない。

 ……そう考えたどうかは、今ひとつ定かではなかったが。何にせよ二人は肩の力を抜くと、やれやれとテーブルや椅子の位置を戻し始めた。


「とりあえず通報案件じゃなさそうだ。お騒がせして申し訳なかったね」


 ケンキチの表情がほころんで、人懐っこい笑みが浮かんだ。チカはテルアキの手を取って立たせると、やや乱暴にスーツに付いたホコリを払い取った。テルアキはユミコに向かって大袈裟に肩をすくめる仕草ジェスチャーをしてみせてから、「粗雑な店だ」と軽くおどけた調子で口にした。



 店長の東條とうじょうケンキチは、テルアキの幼馴染で同級生。アルバイトの三隅みすみチカは、近所に住んでいる高校二年生だということだった。

 改めて自己紹介を受けて、ユミコはぺこりと頭を下げた。自分のことをどう言えば良いのかは悩ましいところだ。とりあえずは、テルアキのマンションでお世話になっている女子大生、と述べておくにとどめておいた。


杜若かきつばた女子大学って、結構なお嬢様学校ですよね」


 中学では陸上部に所属していたというチカは、こんがりと日焼けした肌がまぶしいすらりとした健康的な女子だった。高校に入ってからは諸事情があって、アルバイト生活を送っているという。この喫茶『翡翠の羽』では、重要なスタッフなのだそうだ。


「休日の午後だってのに客が少ないな。大丈夫なのか?」

「近くに短大があるだろ? 平日の方が混むんだよ。それに、今日はケーキが終わっちまったからな」


 短大に通う女子の間では、『翡翠の羽』のケーキセットはそこそこに有名な逸品だった。ケーキだけではなく、コーヒーの方も他の店にはない独特の味わいを持っている。昼時などはケンキチ一人で回さなければならないので、連日てんてこ舞いの大忙しだった。


「ウチの場合は経営状況より、オーナーの安否情報の方が問題だね」

「オーナー?」


 ケンキチは店長ではあるが、この店の持ち主ではない。まさか、とユミコはテルアキの表情をうかがった。


「この店は三年くらい前に作ったんだけど、そこにいるテルアキに随分出資してもらってるんだ。名義上は、テルアキの店ってことになってる」


 「へぇ」、とユミコは思わず声を漏らしてしまった。お金持ちだとは判ってはいたが、幼馴染の友人の喫茶店を建ててやるくらいだとは。テルアキは照れ臭そうに頭を掻いた。


「それが売買春でゴタゴタするとか、勘弁して下さいよ」


 チカがムスッとした顔でテルアキの前にコーヒーを置いた。金品と引き換えにそういう行為に及べば、結果として倫理的に問題のあるおこないと看做みなされる。六ヶ月という猶予期間は、それを緩和させるためのものでもあるのだろう。ケンキチはユミコの方をじぃっと凝視してきた。


「大丈夫、なんだよね?」

「とりあえず、今のところは」


 正直ベースでは、そうとしか表現のしようがなかった。ユミコはテルアキに何もかもを委ねているので、言うなれば俎上そじょうの鯉以外の何物でもない。テルアキがそうありたいと願う方向に、黙ってついていくのみだった。

 テルアキがユミコを信じてくれるのなら、ユミコもテルアキを無条件に信じられた。他人からすれば、とんでもなく不埒ふらちな関係にしか見えないのかもしれないが。

 ユミコはテルアキと共に過ごすこの時間が、何よりも楽しいと感じられるようになっていた。


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