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愛人契約はじめました  作者: NES
第2章 いままでとこれから
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いままでとこれから(2)

 今日は日曜日で、ユミコの大学もテルアキの『仕事』も休みだった。こういう日は大体、ユミコはアルバイトの翻訳作業に没頭して、テルアキは静かに新聞を読んで過ごしている。二人はそろってインドア派だ。窓の外は、春から初夏に変わろうかという暖かな陽気に包まれている。外界の様子を遠目に確かめることが出来るのであれば、二人ともそれですっかり満足だった。


「ユミコさん、お金のことなら言ってくれればなんとかするけれど?」

「ああ、これは趣味というか、勉強も兼ねているので」


 生活のためにしているアルバイトは、テルアキのお陰でやらないで済むようになっていた。ユミコがちょっと買いたいものがあると言っただけで、ぽんっと札束が飛び出してくる。食費や雑費は、それとはまた別にかなりの額が手渡されていた。

 有り難いことは有り難いのだが、これでは金銭感覚がおかしくなってしまいそうだった。今は良くても、後々の生活にまで支障が残ってはたまらない。そんな考えもあって、ユミコは出来る限り贅沢ぜいたくは控えるようにしていた。


 それに、翻訳の仕事はユミコが好きでしていることだった。大学が紹介してくれる英字論文の和訳のバイトは、そこそこに良い報酬が得られる。ユミコ自身の勉強にもなるし、何よりもそれをしている時が一番落ち着いた。

 書かれている英文に集中してれば、実家のことも日々の嫌な現実のことも忘れられる。意味の取りにくい難解な長文を読んで、判り易い日本語にバシッと訳せた時などは快感だ。複雑な知恵の輪が解けた瞬間みたいに、頭の中がスッキリと晴れ渡る。収入云々(うんぬん)も大事なことではあるだろうが、ユミコはこればかりはテルアキに何を言われたところでめるつもりはなかった。


「テルアキさんって、パソコン使えるんですよね? 紙の新聞なんて必要なくないですか?」

「これはこれで大事なんだよ」


 テルアキはいつも、四紙から五紙くらいの新聞に目を通していた。自室の外にいる時は、必ず新聞だ。定期購読しているものだけではなくて、たまにどこかでふらりとスポーツ新聞とかも買ってくる。マンションのダストスペースは、いつでも新聞紙が山積みだ。

 これを捨てることが出来ないというのが、テルアキの困った習慣だった。そんなにまめに読み返す訳でもないし、気になる記事があるならそこだけ切り抜き(スクラップ)しておけば良いのに。完全な状態であることに、テルアキは妙なこだわりを持っている。ユミコはそんなテルアキを、「男の人らしいなぁ」とも感じたりした。


 こんな二人の休日は、一緒にいても全く会話もないことがざらだった。流石さすがにこのままではまずかろうと、お互いに危機感は覚え始めてはいる。なので、ここ最近は意識してリビングのソファにいるようにしていた。

 ユミコはテルアキに借りたノートパソコンを開いて英文和訳に集中して、テルアキはテーブル一杯に新聞を広げて黙読する。たまにどちらかが二人分のコーヒーを淹れてきて、「ありがとう」とお礼を述べるのか常だ。


 ……はたから見れば、「果たして、愛人生活とは」といったところか。


「ユミコさん、今日の午後の約束、覚えてる?」

「テルアキさんこそ、忘れてるのかと思いました」


 かたかたかた、とキーボードに一連のセンテンスを打ち込んでから、ユミコはテルアキに視線を送った。テルアキもユミコの方を向いている。二人はしばらく見つめ合ってから、ふふっと同時に破顔した。


 平和で静かな生活は、これはこれで楽しいものだ。でも、やっぱり少しくらいは刺激があっても良かった。安定の次に求められるのは、一振りのスパイスだ。ここに住んでから初めてテルアキから外出のお誘いを受けて、ユミコは期待に胸を膨らませていた。




 ユミコは昔から、映画を観るのが好きだった。見慣れた日本の風景ばかりの邦画よりも、訪れたことのない外国の町並みや自然が映される洋画の方が心が躍った。

 非日常的、という意味ではSFとかの特撮も悪くない。とにかくユミコのいるここではない、どこか遠くの世界。そこを感じられることが、一番大切な要素だった、


 ただし残念なことに、映画というのはお金のかかる趣味だった。ユミコもレディースデーだなんだと、なるべく安く観れる日を選んで通うようにはしている。しかしそれでも、東京に出てきてからはなかなかその都合もつけられずにいた。


 映画館は特別な何かがあった時に訪れる、ご褒美のための場所。そんな意識でいたものだから、テルアキに映画を観にいこうと声をかけられた際には、ユミコは思わずきょとんとしてしまった。そうか。映画館というのはもっと簡単に、カジュアルに出かけても良い場所だったのか。


 時期的には、ゴールデンウイーク向けの大作映画がピークを終えた辺りだった。その陰に隠れて、小さな名作たちがぽつぽつと公開を始めている。ユミコは以前テルアキと映画の話をした中で、マイナー作品を鑑賞するのが好きだと述べていた。テルアキはそのことを覚えていたのだろう。良さそうな何本かをピックアップして、上映スケジュールまで調べてきてくれていた。


「デートですよね、これ」

「そう受け取っていただけるのなら、それで」


 ユミコがこのマンションで生活を開始してから、初めての二人での外出だった。ここのところはテルアキと共に過ごす時間は、比較的長めになってきている。なので、むしろ今までにこういったことをしていないという事実の方が意外だった。


「テルアキさん、シルバー割とか……」

「そういう年に見えるかな」


 もちろん、そこまで老けているだなんて思ってはいない。テルアキはちゃんと年相応、四十代前半という印象だ。ユミコとテルアキの関係は、この程度の冗談なら軽く言い合えるぐらいにはなっていた。

 映画館までは、テルアキが車を用意してくれた。映画館にタクシーで乗り付けるなんて、これまでのユミコの人生にはない経験だった。普通に電車を乗り継いでいくつもりだったのが、いきなりのセレブ感だ。

 劇場でも、割高のリザーブシートが当たり前のように予約されていた。大きくて座り心地の良いシートに、ワンドリンクに、キャラメルポップコーンまで付いてくる。ユミコは過去に自分が体験してきた映画の鑑賞スタイルとのギャップに、目が回ってきそうだった。


「テルアキさんって、いつもはこんな感じなんですか?」


 ユミコがテルアキと最初に出会ったのも、こことは違うが映画館だった。その時にユミコが座っていたのは、ごく普通の鑑賞席であったと記憶している。テルアキはユミコの隣にいたのだから、やはり今回みたいなプレミアムシートではなかったはずだった。


「まさか。今日はデートだから、奮発しました」


 無茶なことをする。ユミコは映画が観られれば、それだけで満足だった。誰かの頭がちょっと邪魔だったり、おしゃべりの声が耳障りだったり。映画館の雰囲気というのは、それぐらいで充分だ。

 などと思っていたのも、実際に上映が始まるまでのことだった。正面の、一番良い位置からスクリーンが見えるのは実に爽快だ。音響も、これまでとは一味違って感じられる。味といえばサクサクのキャラメルポップコーンも絶品だった。

 肝心の映画の方は、それほど凄いと思える作品とまではいかなかった。希望の国に亡命してきた家族たちが、数々の迫害に耐えながらも生き抜いていくストーリーだ。ユミコも仮に将来海外に移住したとすれば、こんなにひどくはないにしろ『余所者』的な扱いを受けることはあるかもしれない。そう考えて観てみると、心に響いてくるものがある内容だった。


 終わってみれば、大満足だ。興味深い字幕の翻訳もあって、バイトの方にも生かせそうな気がする。何よりこれだけ映画に集中出来たのは、テルアキが高い座席を取ってくれたからでもあった。ユミコはテルアキの心(づか)いに感謝した。


「はぁ、なんだかカルチャーショックです」


 外に出ても、まだ意識がふわふわと宙に浮かんでいる。隣にテルアキがいることを忘れるくらいに没頭してしまった。ユミコのそんな様子を見て、テルアキも嬉しそうに微笑んでいた。


「ユミコさん、この後ちょっといきたいところがあるんですが、大丈夫ですか?」

「はい。どこでもお供します」


 陽が長くなってきたということもあって、夕方と呼ぶにはまだ早い明るさだった。またタクシーで移動かと思ったら、今度は普通に駅で電車に乗ることになった。ここから車を使うには、少々距離がある場所なのだそうだ。「ふぅん」と、ユミコはテルアキに言われるがままに従った。

 仮にテルアキが、ユミコを怪しげなところに連れ込もうとするとして――そこにはもう、今更感しかなかった。この一ヶ月ちょいに間にユミコは相当に良い目は見させてもらったし、多少のことなら代償だとでも思って許せてしまえるだろう。毒食わば皿まで。最後の晩餐がキャラメルポップコーンだったとしても、ユミコには全然問題はなかった。


 適度に空いた電車のシートに並んで座ると、ユミコとテルアキはさっき観た映画の内容について楽しく語り合い始めた。




 三十分ほどの小旅行を経て、ようやくユミコとテルアキは目的の駅に到着した。東京の外れ、多摩地区と呼ばれる地域だろうか。正直、ユミコは吉祥寺よりも西の方がどうなっているのかはてんでうとかった。

 それでも、東京の一部であることは確かだ。立派な駅ビルが建っていて、改札の辺りはどやどやと人であふれ返っている。ICカードもちゃんと使えた。自動改札のシステムはユミコの地元にまでやってきているのだから、これは当然か。


 駅からは、歩きだった。けばけばしいパチンコ屋の看板の下を通り抜けていくと、すぐに閑静な住宅街が現れた。風景の移り変わりの忙しさに、若干の唐突さが否めない。なんというか、都会と田舎が隣り合わせに共存しているみたいな町並みだった。


「ひょっとして、この辺りってテルアキさんのご自宅があるとか?」

「ああ、そうだよ。そこに向かってはいないけどね」


 やはりそうか。そして、テルアキの自宅に案内されるのではないのか。

 驚きと、ちょっぴり残念な気持ちがユミコの中に去来した。テルアキとの関係は、だいぶ親密になったと認識していたのだが。まだまだテルアキのプライベートな空間にまでは、お呼ばれされる身分ではないらしい。

 そこに至るには、もう一線くらいは越えてみせなければならないか。興味はあっても、テルアキの方も心の扉をおいそれとは開いてくれそうにはなかった。

 ……だとするならば、テルアキはユミコをどこに連れていこうとしているのか。その疑問はすぐに氷解した。テルアキが足を止めたのは、一軒の喫茶店の前だった。


「ここ、ですか?」

「うん」


 木製のドアの前に、可愛らしいイラストが描かれたボードが立てかけられていた。『本日のケーキ、イチゴのタルト、終了しました』とのことだ。軒先に置かれたプランターには、丁寧に手入れされた観葉植物が茂っている。緑の隙間から、陶器製のウサギの人形がユミコのことを見上げていた。

 周囲に目を向けると、ぽつぽつと人通りがあるのが判った。幹線道路からは離れているのか、車のエンジン音は聞こえてこない。穴場的なお店、という感じか。ただテルアキが通うにしては、少々ファンシーがすぎる。違和感を覚えるなという方が無理な話だ。


 テルアキが先に立って、お店の中に入っていった。ドアベルが、からん、と澄んだ音色を奏でる。店内はこじんまりとはしているが、明るくて清潔な印象を受けた。時間が中途半端なせいか、ユミコたち以外にお客はいない様子だ。カウンターで肘をついていたショートカットの若いウェイトレスが、テルアキの方を振り返った。


「いらっしゃいませ……って、テルアキさん!」

「やあ」


 軽く右手を挙げて応えたテルアキの姿を、ウェイトレスは大きな目をぱちくりさせて凝視した。そしてたっぷり数秒の間硬直してから、慌ててカウンターの奥に向かって声をかけた。


「マスター、テルアキさんがきました! 生きてます!」

「な、なんだってぇ!」


 どっすん、ばったんとあちこちに体をぶつけるような物音が聞こえてきた。やがて勢い良く転がるみたいにして、エプロン姿の男性が飛び出してきた。灰色になった長い髪を、後ろで一本に縛っている。生え際が微妙に怪しい感じがしたが、ぎりぎり若さを保っている印象か。ユミコにはその男性は、丁度テルアキと同じくらいの世代に見て取れた。


「ケンキチ、いくらなんでも大袈裟すぎるだろう」

「何言ってんだお前。ここ最近すっかりモーニングを食べにこなくなったから、こりゃ今日辺りいよいよ自宅の様子を見てこなきゃならんかなって、チカちゃんと話をしてたところだよ」


 ウェイトレスの名前がチカで、マスターがケンキチか。ユミコはふむふむとうなずいた。どちらもテルアキとは面識があって、しかも自宅の場所まで知っているらしかった。

 それも驚きだが、何よりもびっくりしたのはテルアキが他人との交流を持っている、という事実だった。てっきりテルアキは、ユミコ以外の人間とは一切会話をしないものだとばかり思っていた。

 こういった先入観に基づく誤解が生じてしまうのは、テルアキがユミコに自身のことについてあまり語りたがらないせいだ。ユミコはテルアキの精神衛生についてあれこれとやきもきしていたのに、実際にはそこまで気に掛けておく必要はなかったのか。なんなんだ。


 ふと、ユミコはケンキチが口にした言葉が気になった。「モーニングを食べにこなくなった」それはひょっとして――テルアキがユミコと一緒に、マンションで朝食をるようになったから、なのではなかろうか。さあっとユミコの顔色が青くなったところで、テルアキがユミコを招いて二人の前に立たせた。


「紹介するよ。月緒ユミコさん。今、マンションの部屋に住んでもらってる」

「ど、どうも」


 関係性が今一つ判らないので、どんな挨拶をするべきか判断が付かない。とりあえずぺこり、と頭を下げてみせたユミコの姿に、ケンキチとチカはそろってあんぐりと口を開けて、お互いの目を見合わせて。


「「はぁああぁぁぁーっ?」」


 再びテルアキの方に視線を戻すと、店の外にまで聞こえるほどの頓狂とんきょうな叫び声をあげた。


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