欠片(4)
「北上さんは、農家になるつもりはある?」
「ないわね」
即答だった。せめて二、三秒で良いから悩んではくれないものだろうか。ヒロキはがっくりとハンドルにもたれかかった。
今日の日中は、ずっとスキー場だった。ユミコとテルアキが華麗なシュプールを描いて、ヒロキがスノーボードでジャンプする。ヨリも普通に滑れる部類ではあったが、このメンバーの中にいては素人同然だ。ヒロキに教わりながら、ボードで中級コースをえっちらおっちらと降りてくるのが限界だった。
レンタル品を返却した後、ユミコとテルアキはちょっと場を外していた。今頃はその辺りで、ロマンスしているに違いない。そこを邪魔するのは野暮というものだ。ヒロキとヨリは車に乗って、駐車場で待ちぼうけの最中だった。
「大体その質問は何? 遠回しなプロポーズ? めっちゃ重いんですけど」
そうは言われても、ヒロキにとっては何よりも重要な確認事項だった。迂闊に女の子を好きになってしまって、家のことをないがしろにしてしまう訳にはいかない。長男としては、どうしても家督を継ぐという責務が頭から離れてくれなかった。
「そこまで深い意味はないつもり、なんだけどなぁ」
東京で会った時よりも、ヨリはずっと身近な女性に感じられた。あのきらびやかな世界にいると、それだけで変なフィルタが掛かって見えていたようだ。ヒロキのテリトリーであるこの田舎の村でなら、ヨリはヒロキにも手が届きそうなくらいのごく普通の女の子に思えた。
変化に乏しいこの環境の中では、ヨリの存在は一際輝いていた。纏っている空気が違う、という印象だ。この二日間で、ヒロキとヨリはぐっと距離が縮まった。ユミコもそれを察したからこそ、こうやって二人ずつで分かれる時間を設けたのだろう。
「ヒロキくんにとって、それが一番大事な価値観だってのは判ってる。でもね――」
ヨリが掌を開いて、前に突き出した。ネイルのついていないヨリの指は、しなやかで、細くて。素直に、綺麗だという感想をヒロキは持った。
「ヒロキくんは、ユミコが農家になってくれるから好きだったの?」
ヨリの言葉で、ヒロキの全身から何かが崩れて落ちていった。
ヒロキが、ユミコのことを好きだった理由。それは何だったのだろう。小さな時分から許嫁であると聞かされて。二人で西浦の家を継ぐのだと言われて。
それだけ、だったのだろうか?
違う。月緒の家にいく度に、あまりのやんちゃぶりに辟易として。それでいて、離れることが出来なくて。一緒にいることが、なんだかとても心地よくなって。
月緒家の離れで、二人きりにされた時。ヒロキは強く自覚した。ユミコのことが、好きだ。好きだから、大切にしなければならない。傷つけて、悲しませてはいけない。ユミコがそれを望まないなら、ヒロキと共にこの地に残ることはあってはならない。
だから、離してしまった。誰もいない駅で、たった一人でユミコを見送って。
ヒロキは黙って……涙を流した。
「落ち着いて。もう一度、最初から。ね?」
ああ、そうか。どうして人を好きになるのかなんて、難しいことではなかったんだ。理由も、理屈もいらない。ただ「好き」で良かった。自分を取り巻く全てのものを取り払って、それでも残っている感情がある。純粋に、相手を求める気持ち。
それが、「好き」だ。
ヒロキは、ユミコが好きだった。一緒にいたいと願った。そうして良いと、許されていた。生涯をかけて、ユミコと共にある。それなら精一杯に愛そうと、ヒロキはそう誓った。西浦の家とか、月緒家とか、そんなものはどうでも良い。
ヒロキはただユミコに――幸せであってほしかった。
「……北上さんは、天使か何かですか?」
「それもないわね。いくらなんでも盛りすぎだわ」
割と本気でそう思ったのだが、あっさりと却下されてしまった。ユミコとはタイプが違う、綺麗系の美人だ。ヒロキは昨日まで、失礼ながらもヨリがどんな女性なのかをあまり注意して見ていなかった。
目尻がきゅっと持ち上がっていて、全体的に気が強そうだ。それでいてどこか寂しそうなのは、ヒロキと同じで失恋の痛みを抱いているからか。うっすらとしたナチュラルメイクは、この辺りの女の子たちとは一線を画している。あくまで自然で、大人っぽい雰囲気だ。つい「北上さん」と呼んでしまうのも、とてもヨリが同い年には思えないからだった。
「じゃあ……好きです」
結局、その言葉にいきついてしまう。全ての虚飾を取り払った後に残るのは、たった一つの想いでしかなかった。ヨリはちらり、とヒロキの顔を横目で見やると、恥ずかしそうにうつむいた。
「急に直球だね。うん、その方が良いよ。私も素直に、嬉しいって思える」
誰かを好きになること。
誰かに好きになってもらうこと。
それはヒロキとヨリには、とても難しいことだった。
いや、難しいのだと思い込んでいた。
実際にはそれは何でもないくらいに簡単で、二人には軽く飛び越えてしまえるようなものだった。
「また、こっちに来てくれるかな?」
「今度は東京に来てよ。この前いかなかったところとか、色々案内してあげる」
ヒロキは、ヨリのことをまだ何も知らなかった。誕生日も、血液型も、趣味も、休日の過ごし方も。
そんなヨリを、ヒロキはあっさりと好きになれた。一緒にいた時間なんて、一日にも満たないだろうに。自分でも驚くような急展開に、呆れて言葉もなかった。
「こっちにいる時は、うちの畑を紹介する。昨日見せた以外にも、沢山あるんだ。面白いよ」
「そうやって無理矢理嫁にしようとする」
一足飛びになってしまうのは、まだまだ直せそうにない。ヨリの反応が可笑しくて、ヒロキは笑い出した。ヨリも笑う。こんな何でもない会話が、とても楽しくて愛おしい。
「ごめんなさい。私、まだちゃんとお返事は出来ない。次に会う時までには、きちんと整理しておくから」
「いや、俺の方こそ焦りすぎだった。もう少し気の利いた言葉で言い直せるように、努力してみるよ」
ヨリが悲しい恋をして、それを失ったばかりだという話は聞いていた。長い間思い続けてきた大切な人がいなくなるという気持ちは、ヒロキには良く判った。今の二人は、お互いの傷を舐め合っているだけだ。それを理解した上で、ヒロキはヨリと数日の間だけ仮初の恋人になると約束していた。
だが気が付けばそれは、本物の「恋」に切り替わっていた。切欠なんて、本当に何でも良いのかもしれない。ヒロキは初めて、ユミコ以外の女性を「好き」だと感じた。ヨリの中にいる見知らぬ音楽教師に、激しく嫉妬した。そんな男のことなど、忘れ去らせてやりたくなった。
「だから――本気で考えて欲しい」
「判ってる」
今は見つめ合って、言葉を交わす。そこに感情が込められていると知れるのなら、それで充分だった。信じられるし、信じて安心することも出来る。ヨリと共にいられる幸せな時間を、ヒロキは一秒でも長く感じていたかった。
玄関に上がって靴を脱ぐと、ようやく帰ってきたという実感が湧いてきた。おお、愛しの我が家よ。立派な掘りごたつも良いけれど、やはり慣れたおんぼろ電気こたつの方がずっとヨリの性にはあっている。
「ただいまー」
「あー、おかえり。どうだった、ユミコちゃん上手くいった?」
「もうばっちり」
母親には、ユミコが同棲している彼氏との関係を認めてもらうため、実家に談判しにいったと伝えてある。ここには嘘はない。相変わらず、「彼氏」の個人情報がすっぽりと抜け落ちているだけだ。四十二歳のデイトレーダーのおじさん。それを聞いたなら、流石にヨリの母親も目を白黒させるだろう。
テルアキはしばらくの間、エイジと二人だけで飲み合っていたそうだ。そこで何が語られたかは定かではないが、あんまり教育上よろしくない内容ではあるらしい。テルアキから一部を聞かされたユミコが、真っ赤になって激怒していた。「そういうのはもうちょっと先」だとか何とか。仲睦まじくてよろしいことだ。
ともあれ、男同士の話し合いの結果、ユミコとテルアキの交際は認められることになった。ただし、ユミコは形式上月緒の家からは勘当される。親の決めた許嫁を蹴って、他所で男をこしらえてくるなんて月緒家の沽券に関わるからだ。
月緒家から追い出されたユミコは、一切の後ろ盾を失うことになる。そんなユミコをテルアキが拾ってどうしようが、月緒家では一切考慮しない。面倒な話だが、一応はこういう「話」を作っておく必要があるのだという。大きな家というのは、それだけで何かと大変なものだ。ヨリには遠く理解の及ばない世界だった。
「だがしかし、盆と正月には顔を出せ。仕送りもちゃんと送ってやる」
「……それのどこが勘当なのよ」
エイジは末娘のユミコのことが、可愛くて仕方がないらしい。テルアキと話を終えると、後はユミコとべったりであったということだ。薬で体調を整えているくせに、がぱがぱと酒を開けてハツエに窘められていた。ハツエとエイジの関係も、ヨリには見ていてちょっと面白いところがあった。
エイジは威張り散らしているようで、全然高圧的でもなんでもなかった。ヨリとも気さくに話して、今時の女子大生の食生活について知りたがった。スムージーの材料では何が人気があるのかについては、かなり興味を持って聞いていた。そうやって流行を調べて、今後の農業に生かしていくのだろう。頭の回転が速くて、暴力的というよりはむしろ知的でインテリな印象を受けた。
その隣に、ハツエは常に控えていた。エイジが何も言わなくても、お酒のお替りやツマミをひょいひょいと差し出す。完璧なツーカーの関係だ。テレパシーでもしているんじゃないかと疑うくらいに、二人の意思疎通は一つとして齟齬を生じることがなかった。
一回だけ、エイジはハツエの方に目を向けた。ユミコがテルアキのグラスにビールを注いでいる時だ。あまり慣れていないのか、ユミコの所作はややぎこちなかった。
エイジとハツエの視線が絡んだ際に、ヨリは瞬時に悟った。ああ、この二人は「夫婦」なのだ、と。
当然と言えば当然だが、ヨリの父と母も夫婦だ。母があの屁こきマシーンのどこに魅力を感じたのかは、大いなる謎ではある。とはいえ、籍を入れてヨリと弟の二人をこさえて家族となった。その事実について、ヨリは今まで漠然としか考えたことがなかった。
その概念を、エイジとハツエはくっきりとした輪郭を伴ってヨリの前に突き付けてきた。これこそが、理想的な夫婦の形だ。以前ユミコが話していた内容が、ようやくヨリの腑にも落ちた感じがした。
エイジはユミコにも、同じ幸せを味わってほしかったのだ。
「お父さんたちは?」
「出かけてる。夕方には帰るって」
どうせ弟が、お年玉で何かを買いにいくのに付き合っているのだ。男どもは気楽で良い。こたつの中でもぞもぞと体勢を変えると、ヨリは携帯を取り出した。
『無事に着いたよ』
『そうか。良かった』
不思議な感じだ。遥か遠くで、ヒロキが同じように携帯に向かって文面を入力している。こんなに離れているのに、繋がっているという事実。つい数時間前に、名残を惜しみながら別れたのは何だったのか。
『いつこっちに来れるの?』
『春休みの間に一度はいきたいけど、結構忙しい』
『じゃあ待ちきれないから彼氏作る』
『二月にいく』
早い早い。来月じゃないか。ヨリはくすくすと笑った。彼氏なんて、そんな簡単に出来るものではない。ヨリにだって好みとか、選択権はあるのだ。今は田舎の、一途で純朴な青年が良かった。都会ではちょっと珍しい、真面目君だ。
「ねえ、お母さん」
「んー?」
月緒家で見た光景が、どうしてもヨリの脳裏から離れてくれなかった。あんなに愛し合って、大切にしてもらって、添い遂げられるのなら。たとえこの世界のどこにいたとしても、幸せでいることは出来るのではなかろうか。
ユミコはそれを、驚くほど遠い場所に見出した。ではヨリはどうなのか。むしろもっと閉塞的な、隔絶された土地の片隅にそれを見付けてもおかしくはないだろう。
小さな欠片同士が響き合って、呼び合っている。
ヨリの幸せは、どこにあるのだろうか?
「農家になりたい、って言ったら驚く?」
それはまだ――判らない。




