欠片(2)
その年の月緒家の正月は、大賑わいだった。まずは例年通り、長女のキヨカとその夫だ。村の助役の親族ということで、普通に世襲して役場の偉い人間となる。こういうのは都市部では癒着だ何だと騒がれるものだが、地方行政ではその方が物事がスムースに運ぶのでむしろ歓迎される。月緒家の力も添えられる訳で、この地域の政治体制は盤石だった。
それに加えて、長男のハジメが結婚を前提に付き合っているという彼女を連れてきてひと騒ぎとなった。本来ならば後二年ほどしたら、ハジメには父親のエイジがどこかから月緒の家に相応しい嫁を紹介してくるという手筈になっていた。それをぶち壊す勝手を、ユミコのドサクサに紛れて通してしまおうという魂胆だ。この暴挙に対して月緒家の当主であるエイジは――
「ハジメ、お前やるなぁ」
と、馬鹿笑いして歓迎の意を表した。
ハジメの交際相手は、街のレストランに勤めている女性だった。野菜の卸しをしている際に知り合ったのだそうだ。料理人らしくショートに髪を切りそろえていて、全体的に真面目な雰囲気が漂う可愛い系の美人だった。
月緒家のどんな話を聞かされているのか、最初は可哀想なくらいにがちがちに緊張していた。ハジメの母親のハツエに連れられてキッチンに立って、ようやく落ち着きを取り戻してきた感じだ。そこで見せた台所仕事の鮮やかな手つきは、流石プロの技だった。月緒家長男の嫁として申し分なしと、エイジもご満悦の様子だ。
そして問題が――月緒家次女とその交際相手、ユミコとテルアキだった。
「やあ、ようこそ、内藤テルアキさん。お話はうかがっておるよ」
エイジの表情は朗らかだったが、明らかに目が笑っていなかった。その場にいる全員が、ぴしっと背筋を伸ばして姿勢を正した。下座にユミコとテルアキ、ヨリが並んでエイジと対峙する。ああ、これはマズいヤツだ。ヨリは冷や汗がどくどくと湧き出してくるのを感じた。ヨリでこれなのだから、テルアキなんて呼吸困難で窒息してしまうのではなかろうか。
ちょびっとだけ視線を横にやって、テルアキの方を確認する。意外なことに、テルアキはどっしりと構えて微動だにしていなかった。ユミコとの将来については、しっかりと責任を取る前提でいる。そこは年の功だな、とヨリは感心した。
それならば――ヨリの方も可能な限り誠実に対応するだけだった。月緒家の人々に嘘を吐くようにと提案されて、実行したのはヨリだ。安易にユミコの境遇に同情して、危ない橋を渡らせてしまった。それについては、本当に申し訳ないとは思っている。
ただ、結果としてユミコはテルアキというかけがえのない相手を得るに至った。一歩間違えば、と言われればそれは確かにそうだ。そこには運とか、巡り合わせとか。そういった様々な、不確定な要素も介在していた。そしてその甲斐もあって、ユミコとテルアキはこうして幸せな関係を手に入れられたのだ。
お叱りは甘んじて受ける。その代わり――今は、せっかくここまで辿り着くことが出来た二人を祝福してやってほしい。
ヨリの開陳を、エイジは黙って聞いていた。まずは全員の言い分を吟味する、という意図らしい。慣れない正座にも頑張って耐えて、ヨリはなんとか訴えたかった内容を一通り口にした。最後に深々と頭を下げると、魂が抜けて飛び出したみたいな脱力感に襲われた。もう、嘘は懲り懲りだ。明日からは真面目に生きよう。ヨリの中に、新たな決意が誕生した瞬間だった。
「北上さんにはユミコが多大なる迷惑をかけた。元を正せばユミコの罪だ。そして更に辿れば、この私のわがままに端を発しているところもある。ユミコの生活については色々と気を揉んでくれたようだし、むしろこちらからは礼を述べるべきだろう」
エイジの言葉に、ヨリは思わず顔を上げた。事前にユミコに聞かされていたよりも、断然話が判る感じだ。エイジは「ふん」と不敵に鼻を鳴らしてみせた。
「ユミコは東京で良い友達を持ったようだ。北上さん、これからもユミコと仲良くしてやってほしい」
「はっ、はい」
軽く声が上ずってしまった。一応許された、のか。一抜け、セーフだ。またもや汗がどっと噴き出す。ヨリはくにゃり、と力が抜けて後ろに手を付いた。あー、しんどかった。
「さて、ではテルアキさん」
その一言で、場は再び極限の緊張状態に置かれた。次はいよいよ大本命の出番だ。ヨリとユミコに挟まれた真ん中に座ったテルアキが、正面からエイジの視線を受け止めた。
「はい」
事前に、ユミコは自分の付き合っている男性についての詳細を母親のハツエには連絡してあった。ハツエの反応は特に驚くでもなく、淡々としていたという。それをエイジにどう伝えるのかは、ハツエの匙加減次第だ。初見からそれ程動揺している様子はなかったので、「おじさん」であることは知っていたのだろう。エイジの隣では、ハツエが何食わぬ顔で控えていた。
「ユミコとどういう関係であるのかを、教えてくれるかな?」
ざわり、と空間全体が揺れた気がした。ド直球だ。ハジメも、キヨカも。そこにいる全員が、彫像みたいに固まった。ユミコは月緒家の中でも、エイジに溺愛されて育った末娘だ。ヒロキという婚約者も用意して、エイジと同じこの土地で幸せになることを願っていた。
それらを全て踏み倒して東京に飛び出していったユミコを、捕まえて鳥籠に入れているのが――テルアキだった。
「はい。俺はユミコさんに住む場所を提供して、金銭的な負担全般を肩代わりすることを条件に……ユミコさんと一緒に生活をさせていただいております」
こっちも直球だ。こういう時、変化球ぐらいは覚えておいて損はない。ヨリはさぁっと自分の顔から血の気が引いていくのが判った。テルアキは眉一つ動かさない。ユミコもその横で、テルアキと共に父親から少しも目を逸らさずにいた。
「まるで愛人だな」
「いえ、愛人そのものです。俺はユミコさんと、愛人契約を結びました」
六ヶ月を超えて、テルアキのマンションに住み続けるのなら愛人となる。ユミコはテルアキと、そう契約を結んだ。春から夏にかけて、ユミコはテルアキと共に優しい時間を過ごした。そして秋の訪れを迎えて、二人はお互いに望み合って愛人の関係になった。
「どう言い繕おうが、俺とユミコさんの関係は愛人です。俺はお金を出して、ユミコさんを飼っています。ユミコさんとは真剣にお付き合いをさせてもらっているつもりですが、世間一般の常識に照らせば褒められた関係ではありません」
愛人でもあり、恋人でもある。二人は猶予期間の間にしっかりと想いを育んで、恋に落ちた。年齢差はあっても、愛し合う気持ちには違いはない。そう思えるからこそ、テルアキはユミコに連れられて月緒の家にまでやってきた。
「お父さん、テルアキさんは――」
「ユミコは黙ってろ! 私はテルアキさんに話を聞いている」
割って入ろうとしたユミコを、エイジが一喝した。ヨリなんかはそれだけで引っ繰り返りそうになるくらいの、凄まじい剣幕だった。しかしユミコは少しも動じることなく、立ち上がって反抗しようとする。テルアキがユミコの手を引っ張って止めなければ、月緒家名物家族大乱闘が開幕されるところだった。
「で、テルアキさん。うちの娘を、テルアキさんは愛人にして飼っている、ということだな?」
「はい。その通りです」
テルアキの声には、淀みも曇りもなかった。ただ誠実に、己の思うところを述べている。エイジの口角が、僅かばかりに持ち上がった。テルアキは一つ息を吐くと、再び明朗に語り始めた。
「俺には、どうしてもユミコさんが必要でした。ユミコさんに傍にいてもらうためには、その在り方については形振り構ってはいられなかった。ユミコさんを失う訳には、いかなかったのです」
夜の映画館でユミコを見初めて、テルアキの心は大きく乱れた。どうしてそんな気持ちになったのかは、正直判らなかった。ただ絶対にここで終わりにしてはいけないと、何かが告げていた。持っているものをどう使ってでも、ユミコとの関係を繋ぎとめておきたかった。
住む場所がないのなら、テルアキにはそれを提供することが可能だった。仕事場として借りているマンションは、偶然にもユミコの通う杜若女子大学にも近かった。だがそうなれば、ユミコには愛人などというあまりにも不名誉なレッテルを貼り付けられてしまう結果となる。しかし、それでも――
「この場合、責任という言い方が正しいのかどうかは定かではないですが……俺はユミコさんを一生大切にするつもりです。生涯をかけて、ユミコさんを養い続けます。その覚悟を持って、ユミコさんに自分の財産を捧げています」
テルアキは、ユミコに愛人契約を持ち掛けた。マンションの部屋を自由に使ってくれて構わない。ただしこれは、善意だけに根差した申し出ではない。六ヶ月の間は待つが、その後はテルアキの愛人になってもらう。こんな馬鹿な約束事に、乗っかってくる女など普通はいないだろう。
果たしてユミコは、テルアキの提案を快諾した。
「今は愛人でも、ユミコさんが大学を出たら籍を入れて、ちゃんとした夫婦になります。どうか、俺たちの交際を認めてください」
テルアキが頭を下げた。ユミコは今にも飛びかかって噛み付きそうな形相で、エイジのことを睨んでいる。ハジメとキヨカが、そっと近くにある箸と皿の方に手を伸ばすのをヨリは見逃さなかった。なるほど、これが月緒家か。油断していると戦場に取り残される羽目になる。いざとなったら、ヨリもテルアキを引きずってこの場から撤退しなければならないのだろう。
「ははっ、そういうことかよ」
意外にもエイジの反応は、愉快そうに腹を抱えて笑う、というものだった。ハツエを除いた全員が、きょとんとした顔で放心した。ハツエだけが黙って、エイジの盃に燗した日本酒を注いでいた。
「ユミコ、おまえすごいの釣ってきたな」
エイジは足を崩すと、完全にリラックスした状態でぐいっと酒を飲み干した。それから、ちらりとハツエの方を一瞥する。ハツエは無言で察すると、今度はテルアキの近くにしずしずと歩み寄って、盃を持つようにと勧めた。
「話は聞いてるし、こっちでも少々調べさせてもらった。目に入れても痛くない大事な末娘のことなんでな。とんでもないタヌキだったら、この村で失踪でもしてもらうつもりだったんだが――」
冗談、にしてはちっとも面白くないのは、冗談ではないからか。ヨリは背筋がゾクリとした。この界隈では、月緒家の威光は絶大だ。他所から入ってきた人間一人、行方不明にしてしまうことなど造作もない。後で聞いた話だが、月緒家の権力は警察関係にもしっかりと手が伸びているのだそうだ。何という歪んだ地方行政の在り方か。これだから田舎は。
それより恐ろしいのは、普段はのほほんとしているユミコもまた、実際にはその月緒家の一員だという事実だった。迂闊に手を出せば、その後にはどんな運命が待ち構えていたことやら。そんな月緒家の当主を騙して無事に済まされたヨリは、この上なく運が良いのかも知れない。月緒家は本当にとんでもない。暖房をもうちょっと強めにしてくれないと、ヨリは心身共に底冷えがしてきそうだった。
「正面から俺にぶつかってくるくらいには、ユミコに対して真剣になってくれてるみたいだな。結構だ」
ハツエにもう一度盃を満たさせると、エイジはそれを高く掲げてみせた。テルアキも倣って、エイジの方に盃を向ける。ハジメとキヨカが、そっと掌を膝の上に戻した。どうやら、無益な戦争は回避された。素晴らしい。人類の未来に栄光あれ。
ユミコだけが、つまらなそうにエイジとテルアキのやり取りをじぃっと眺めていた。茶番だとでも言いたいのか、それとも暴れ足りないのか。丸く収まるのなら、それが一番ではなかろうか。ここは是非とも男たちのやり様を認めて、大人しくしておいてもらいたい。
ヨリの視線に気が付くと、ユミコはわざとらしく両掌を上にしてやれやれのポーズを取った。これはテルアキとエイジにとっては、大切な儀式なのだ。温かく見守ってやろうじゃないか。ハツエが一瞬だけヨリの方を見て、くすり、と破顔したのが印象的だった。
「テルアキさん、判っているとは思うが、ユミコは俺の大事な娘だ。譲るからには――それ相応の扱いをしてくれなきゃ困るぜ?」
「心得ています。俺の持っている全てを掛けて、ユミコさんは幸せにします」
男二人が、うなずきあって盃を空けた。それで場の空気は一気に和んだ。今日は楽しいお正月。ヨリもようやく足を楽にして、長閑な田舎の雰囲気を満喫出来るようになれそうだった。




